訪う
はじめて真昼さんの部屋に入ったのは、やはりハーフムーンの帰りだった。僕はMTBを押し、真昼さんは踊るように歩いた。オートロックを解除してエントランスに入ろうとした真昼さんが、思いついたように「寄っていく?」と声を出した。実際、その時に思いついたのだと思う。
下世話な話をすれば、何がしかの期待もあったのかも知れないが、よく覚えていない。女の人の一人暮らしに興味があったのは確かで、それまで女の子の部屋にも入ったことのない僕は、やけにオドオドしていた。開錠して靴脱ぎでスニーカーを脱いだ真昼さんに続いて良いものか、しばらく迷った。
「何してるの、伊織。入っておいで。とって食ったりしないから」
申し訳程度の靴脱ぎ(玄関なんてものじゃない)からドアを開けると、多分十畳程度の部屋に小さなキッチンがついたワンルームだった。寝室のスペースと居間を、本棚をパーテイションにして分けているらしい。ちらりと見えたベッドから、思わず目をそらした。そして居間のスペースは、男の僕が驚くほど飾り気がなかった。
座卓タイプのパソコンデスクには、モニタの大きなパソコンが据えられ、その横にメモの書き散らしとダイレクトメールが積み上げられている。立て掛けられた厚い本は、「建築構造学」「建築法規」に加えて、世界中の建物の写真集だ。雑誌はなく、文庫の小説が無造作に放ってある。
「真昼さんって、何の仕事してる人?」
「建築家のタマゴ。言わなかった?」
「タマゴ?資格持ってないの?」
「建築士なら、持ってるわよ」
建築家と建築士の違いは、よくわからない。
冷蔵庫から出してきた紙パックのオレンジジュースを二つのグラスに注ぎ、真昼さんは「酔い醒まし」と、にっと笑った。
「ああ、私も今に自分の仕事をしたいなあ」
低いテーブルの横で大きく伸びをしながら、真昼さんは仰向けに寝転んだ。自分の仕事も他人の仕事もわからない僕は、伸び上がった形の真昼さんのウエストからわずかに覗く、肌の色を見ていた。
オレンジジュースはすぐに飲み終えてしまった。
「気をつけてね」
ドアで手を振った真昼さんは、外で見るよりずいぶん小柄だ。部屋にそのまま滞りたいような、部屋から出られて安心したような心持だった。あの部屋は、とてつもなく真昼さんらしくて、逆に真昼さんの要素を探すのが難しかった。グリーンの一つもない無機質な部屋の中で、真昼さんはコーヒーを飲んだり歯を磨いたりしている。あるいはあの部屋で誰かと、セックスしたりしているのかも知れない。その可能性だって、当然あるのだ。
僕はまだ真昼さんが何をどう考えているのか、わかったと思うことはない。
十一時過ぎに携帯が震える。大抵ゲームをしているか、漫画を読んでいるか、稀に友達と遊んでいるか。
「ハーフムーンにいるから、おいでえ」
時間お構いなしの真昼さんは、高校生が補導されないようにビクビクしていることを、知らない。知っていても、高らかに笑い飛ばしてしまうけど。
「どこに行くの?」
「シャープペンシルの芯がないから、コンビニに行ってくる」
MTBのチェーンロックが面倒で、母の自転車を使った。呼ばれても行かなければ、真昼さんは気にせずに帰ってしまうことは、知っている。ハーフムーンのマスターはずいぶん落ち着いた人だし、真昼さんの酒量をわかる程度に長い付き合いらしい。けれど呼び出しの電話が掛かると、僕は落ち着きなくそわそわする。そうして、その日は深夜に近い時間に、とうとうハーフムーンまで出掛けたのだった。
ドアを開けると、重いカウベルの音がする。店の中にはマスターと真昼さんだけで、サッチモの声が低く流れていた。
「伊織君、こんな時間に来たの?」
マスターが驚いて僕を見た。
「真昼さんに呼ばれたから」
ぶすりと答えて、真昼さんの横に立つ。
「来たわね、伊織。マスター、この子にも一杯」
「もうダメ。まーちゃんも帰りなさい」
「ケチ。じゃ、マスターが下に隠してるブッカーズ、味見させてくれれば帰る」
「しょうがないなあ、まーちゃんは。これは俺のプライベート用なのに」
小さなショットグラスに琥珀色の液体が注がれ、真昼さんは目を閉じてそれを味わった。僕は立ったまま、真昼さんの喉が動くのを見ていた。
背の高いスツールから降りる真昼さんは、少し体のバランスが危うい酔いかただ。コートハンガーに掛かっていた皮のジャンパーを渡そうとすると、後ろを向いて着せ掛けろという仕草をした。
「まーちゃん、伊織君は下僕じゃないんだよ」
「これでも可愛がってるのよ、マスター」
「あら、送ってくれるのにぴったりのノリモノ」
荷台に横座りした真昼さんが、僕の腰にしがみつく。自転車を走らせながら、家に送り届けるために呼ばれたのだろうかと考え、どうして僕がそれをするのかと考える。荷台では真昼さんが、調子の狂ったジャズ・スタンダードをハミングしていた。
マンションまで送り届けると、真昼さんはオートロックを開放する前に僕に向き直り、首に腕を回した。
「送ってくれたお礼よ」
唇が柔らかく僕の唇を刷き、ウィスキーの香りが鼻腔をくすぐる。
「またね、伊織」
エントランスに入っていった真昼さんは、後ろを向いたまま片手を高々と上げ、僕に振ってみせた。
僕から真昼さんに連絡することは、ほとんど無かったと言っていい。大抵は真昼さんからの一方的な呼び出しだった。何度か僕から電話をしたことはあるけれど、大抵電源が切ってあるか留守番電話だ。今思えば、とても忙しかったのかも知れない。メールの返信も、思い出したようにしか来なかった。
一週間か二週間に一度、ハーフムーンに呼び出される。高校二年生の秋から冬にかけて、学校とアルバイト意外に僕が覚えなくてはならなかったことは、補導されないように道を選ぶことと、母の余計な勘繰りを軽口でかわすことだけだ。僕から会いたくなって、ルイを連れて公園に出掛けても、真昼さんはいなかった。遠回りをして見上げる窓に、灯りは点いていない。僕は真昼さんがどんなところで仕事しているかも、知らなかった。
「出ておいで、伊織」
そう電話が掛かると、母の自転車でハーフムーンまで行く。寒い季節で、自転車のハンドルを握る手が凍えた。ハーフムーンの扉さえ開ければ、真昼さんに会える。そこに真昼さんは座っていて、好き勝手なことを言った挙句に僕に部屋まで送らせるのだ。酔った真昼さんをマンションまで送り届けるうちに、何度か部屋にも入った。
「冷蔵庫に、水」
真昼さんはコートを床に放り投げて、僕に命令する。ペットボトルを手渡すと、アリガトウとキスをくれる。一度、背中に手を回そうとしたことはあった。僕の腕の動きを敏感に察知した真昼さんは、するりと体を外したけれど。
「子供の癖に、女の体に腕を回そうなんて、百年早い」
「百年経ったら、じいさんになっちゃう」
真昼さんは面白そうに、声をたてて笑った。
「百年後でも、あたしは伊織よりも常に十歳分大人だわ」
そうだ、真昼さんは僕よりもちょうど十歳年上だった。
「あたしは寝るわ。またね、伊織」
服のままベッドに潜り込んだ真昼さんは、あっさり寝息をたてはじめる。そんな風に無防備に眠ってしまうのは、僕が何もしないと信頼していたからだろうか?落ちているコートをハンガーに掛け、灯りを小さくして部屋から出る。真昼さんのマンションは開くときには鍵が必要だが、出るときには施錠の必要は無い。エレベーターを使わずに、階段を降りて自転車置き場に行く。暗い自転車置き場から出て、通りから真昼さんの部屋を見上げた。
屈託なんてまるで感じない真昼さんは、折れたりしないんだろうか。もう数年後に僕が大人になった時も、真昼さんがあのままで居てくれると良い。大人になった僕に、真昼さんはどんな無茶を言うだろう。
そのままで、待ってて。僕が追いつくまで。