あなたは元婚約者
「――婚約を破棄する」
何年も共に時間を過ごしてきたテラスでのお茶会。
目の前の婚約者、アルベルト・エルデンから告げられたのは突然の言葉だった。
セレスティア・リーゼは、手に持っていた茶器をテーブルに置く。
「……婚約を『解消してくれ』ではなくて『破棄する』ですか?」
セレスティアの問いかけにアルベルトは渋い表情で答える。
「リーゼ伯爵と話はついている」
なるほど。自分だけが、この話を知らされていなかったのだ。
幼い頃からの婚約者であるアルベルトと結婚することに、何も疑問を抱いてはいなかった。
少なくとも、この瞬間までは。
「理由を、お聞かせいただけますか」
震えそうになる声を抑え、セレスティアは尋ねた。
アルベルトは僅かに眉を寄せた。
「王女殿下との婚約が決まった」
「王女殿下と?」
「ああ」
嫌な予感はしていた。
夜会ではパートナーであるセレスティアを押し退け、アルベルトとのダンスを望む王女。
女性のみの茶会では、王女の取り巻きに散々嫌味を言われ、時には体に痛みが残るような嫌がらせも受けた。
つい三週間ほど前に完治した右足首が、鈍く痛む気がした。
自分という婚約者がいる以上、王女も強引な手段には出ないだろう。
そう思っていたが、現実は違った。
「……以前から話をいただいていた、王女殿下との婚姻を受けることにした」
「どうして急に……」
「近頃、君との間に距離を感じてね」
「それは、父の手伝いが忙しいと説明したではないですか」
本当は足の怪我を隠すためだった。
王女からの嫌がらせで怪我までしたと知れば、アルベルトは自分を責めてしまうだろう。
だから、アルベルトには黙っていることにした。
「君は、僕がいなくても一人でやっていけるだろう」
アルベルトはどこか寂しそうに笑う。
「けれど、王女殿下は違う。あの方には、僕が必要なんだ」
「アル。本当のことを話してください」
セレスティアは、しばらく彼を見つめた。
けれど、アルベルトは視線を逸らした。
しばらく沈黙が続く。
やがてアルベルトは、小さく息を吐いた。
「……セレスには、お見通しか」
そう言って、アルベルトは笑った。
「僕さ。伯爵家より王家に婿に入る方がいいと思ったんだ」
その言葉にセレスティアの胸が締め付けられた。
「これが僕の本心だ」
それ以上、何を言っても意味がないのだろう。
「わかりました」
セレスティアは静かに息を吐き、席を立つ。
「……さようなら、アルベルト様」
アルベルトは何かを言おうとしたが、結局その声がセレスティアを呼び止めることはなかった。
セレスティアは思い出の詰まったテラスを出ると、伯爵家の馬車に乗り込んだ。
馬車が走り出す。
その揺れに合わせるように、セレスティアの瞳から涙がこぼれる。
窓の外へ流れていく景色を眺めながら、幼い頃からアルベルトと共に過ごしてきた日々が、次々と脳裏に浮かんでくる。
燃えるような恋ではなかったけれど、夫婦として共に人生を歩んでいくのだと、疑うことはなかった。
そこにあったのは、穏やかで、確かな愛だった。
それを突然失った今、胸の奥には、大きな穴がぽっかりと空いてしまったようだった。
◇
伯爵邸へ戻ったセレスティアは、まっすぐ父のいる書斎へ向かった。
いつもより扉を強くノックする。
「……入りなさい」
返ってきたのは静かな声だった。
扉を開け、セレスティアは父の前に歩み寄る。
「セレスティア……」
何か言いたげな父の言葉を遮り、セレスティアは宣言した。
「お父様、私は旅に出ます」
「は……!?」
思いがけない言葉に、伯爵が目を見開く。
「何年も何年もあの王女からのねちっこい嫌がらせに耐えてきました。けれど、全て無駄になったので、この国を出ます!」
「少し落ち着きなさい」
「落ち着いてます」
伯爵は額に手を当てた。
「……お前には悪いことをしたと思っている」
「そう思うのでしたら、国を出る許可を」
「しかし、お前は伯爵家の長子だ。後継はどうする」
「従兄弟のカイルにお譲りください。アルベルト様との婚約を破棄した後は、カイルと婚約させようと考えているのでしょう?」
父の考えは手に取るように分かる。従兄弟を婿に迎え、家を存続させるつもりなのだろう。
「カイルには想いを寄せている男爵令嬢がいます」
まだ婚約はしていないが、カイルが想いを告げるのも時間の問題だろう。
「私は、誰かの気持ちを踏みにじることはしたくないのです」
伯爵はセレスティアの目を見つめ、その目元の赤みに気づいた。
「……もう決めたんだな?」
セレスティアはしっかりと頷く。
「はい。覚悟はできています」
伯爵令嬢という身分を失えば、これまでの生活は維持できない。
それでもセレスティアは、誰かに哀れまれて生きるつもりはなかった。
「……そうか」
伯爵は、長い沈黙のあとに小さく息を吐いた。
「ならば、好きにするといい」
「……お父様」
「ただし、いくつか約束しなさい」
伯爵が口にした言葉に、セレスティアは一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに小さく頷く。
「……わかりました。約束します」
◇
屋敷を出る日。
伯爵は最後まで何かを言いたそうにしていた。
けれど、セレスティアはそれを気にすることなく、父へ向かって頭を下げる。
「お世話になりました。お元気で」
「そんな、最後の別れのような挨拶をするんじゃない。また顔を見せに戻ってくる約束だろう。近況報告も忘れずに。困ったことがあれば、隣国のーー」
「何度も聞いたので大丈夫です」
セレスティアは苦笑しながら父の言葉を遮った。
「あの次男坊が泣いて後悔するくらい幸せになります」
「……我が娘ながら頼もしいな」
セレスティアは馬に跨り、手綱を握る。
そして一度だけ振り返った。
見慣れた屋敷。
幼い頃から過ごしてきた、大切な場所を離れる。
寂しさがないわけではないが、不思議と後悔はなかった。
自分の意思とは関係なく婚約破棄を受け入れた父を、少しも憎んでいなかった。
父が家を守るためにそうしたことも分かっている。
何より――娘として愛されてきたことだけは、疑ったことがない。
だからこそ、心配をかけたくなかった。
「……行ってきます」
小さく呟き、セレスティアは前を向く。
手綱を引くと、馬が勢いよく駆け出した。
頬を撫でる風が心地よい。
セレスティアはその風を受けながら、新たな居場所を見つける旅に出た。
◇
平民として過ごす最初の一年は、苦労の連続だった。
それまで当たり前だったものが、すべて当たり前ではなくなった。
働かなければ、何も手に入らない。
伯爵家から持ち出したわずかな貯蓄を切り崩しながら、商家で帳簿をつける仕事を始めた。
伯爵家で教育を受けてきたセレスティアは、数字の流れを読むのが得意だった。
商品の売れ行きを分析し、仕入れ先を調べ、売り方を工夫する。
「この商品、隣国ではもっと高く売れると思います」
「隣国だと?」
「ええ。向こうでは、この地方の染料が不足しています」
しかし、他国から流れ着いた若い女性であるセレスティアの意見に耳を傾ける者はいなかった。
それでもセレスティアは諦めなかった。
自分の考えを証明するため、仕入れ先や隣国の市場価格を調べ、具体的な数字を示しながら何度も提案を続けた。
そして、ようやく一度の取引が成功すると――周囲の見る目が変わった。
セレスティアの提案した交易が利益を生み、次の仕事を任される。
得た報酬を元手に小さな店を構えた。
店が軌道に乗れば、今度は自分で商品を仕入れ、販路を広げる。
気づけばセレスティアは、過去を知る者のいない異国の地で、一人の商人として名を知られるようになっていた。
◇
商談のため久しぶりに母国を訪れたセレスティア。
今回は父のもとへ立ち寄る予定もあったため、かつてよく通っていた店へ茶菓子を買いに訪れた。
懐かしい味を楽しみに店を出たところで――思いがけない人物と再会した。
「セレスか……?」
「……ええ。お久しぶりです」
アルベルトだった。
「久しぶりだな。……少し話をしないか?」
アルベルトの申し出に、セレスティアも頷いた。
二人は店から少し離れた場所にあるベンチへ向かい、並んで腰を下ろした。
アルベルトの表情には、以前のような苦しさがなかった。
「君の噂は聞いている。商会を立ち上げたそうだな」
「おかげさまで」
「君は昔から目が利いたからな」
「ありがとうございます」
短い言葉を交わしたところで、会話が途切れた。
しばらく沈黙が続く。
やがてアルベルトが、意を決したように口を開いた。
「君は今……幸せか……?」
アルベルトに聞かれ、堂々と返事をするセレスティア。
「はい」
その返事を聞いて、アルベルトは少しだけ笑った。
「よかった」
そして、再びセレスティアへ視線を向ける。
「……あの日は、すまなかった」
「謝らないでください」
セレスティアは首を横に振った。
「王女殿下の嫌がらせを止めるために、あの選択をしたことは知っています」
驚いた様子のアルベルト。
「私が骨を折ったことも知っていたのですね」
「……ああ」
アルベルトが、王女からの嫌がらせに気づいていたことを知ったのは、婚約破棄から一年ほど経った頃だった。
父から聞かされた、あの日の真相。
セレスティアは、アルベルトと結婚してしまえば、王女も諦めて大人しくなると思っていた。
だが、アルベルトは違った。
結婚すれば王女の執着はさらに強くなるのではないか。
そうなれば、セレスティアへの嫌がらせは、さらに過激になるのではないか。
その不安に耐えきれず、アルベルトは自分との婚約を破棄することを選んだ。
「……私は、あなたに『側にいてほしい』と言われれば、いくらでも耐えられました」
「……!」
アルベルトの表情が揺れる。
セレスティアは穏やかに微笑んだ。
「……もう過ぎたことですが」
アルベルトは何かを言いかけ、口を閉ざした。
「セレス……僕は……」
「もういいのです」
セレスティアは首を振る。
それぞれが自分の選択を受け入れる。
それだけだった。
「もう振り返らず、互いの人生を歩んでいきましょう」
セレスティアが手を差し出す。
アルベルトはその手を見つめたあと、静かに握った。
「ああ」
その手を離した瞬間、セレスティアは思った。
これで、本当に終わったのだ。
悲しくはない。
寂しくもない。
あの日、婚約者を失った自分は、もうここにはいない。
「さようなら。アルベルト様」
「ああ。……セレスティア嬢」
もう振り返らない。
セレスティアは前を向いた。
彼女の新しい人生は、婚約破棄の日から始まったのだから。
お読みいただき、ありがとうございます。
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