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古書 雨兎

作者: リコリス
掲載日:2026/06/08

会社を出てから十分も経っていないはずなのに、もう今日の出来事を思い出したくなかった。


 上司に急ぎで頼まれた修正。


 「これ昨日までって言ったよね?」と怒る取引先。


 休憩室から聞こえてきた、同僚たちの週末の楽しそうな会話。


 疲れたな、と思う。


 それ以外の感情が、うまく浮かばなかった。


 朝は寝坊しかけて、コンビニで買ったコーヒーは鞄の中でこぼれた。


 会社では小さなミスをして、昼休みは取引先からの電話で潰れた。


 ついてない日って、こういう日を言うんだろう。

「あ……」


 思わず小さく声が漏れる。

 天気予報なんて、見ていなかった。


 慌てて駅前の商店街へ駆け込む。


 アーケードに雨音が響く。


 湿った風に混じって、どこか懐かしい匂いがした。


 ふと、結衣は足を止める。


 見覚えのない店があった。


 古びたガラス戸。


 色褪せた暖簾。


 入口の脇には、小さな立て看板。


 ――古書 雨兎


 その下に、控えめな文字で書かれていた。


 『雨宿り歓迎!本日も営業中』


 それだけの言葉なのに、なぜか胸の奥に静かに落ちてきた。


 結衣は吸い込まれるように扉を開ける。


 からん、と鈴が鳴った。


 店の中は静かだった。


 雨音が遠い。


 天井まで並ぶ木の本棚には、色褪せた文庫本が隙間なく並んでいる。


 絶版になった古い小説。


 誰かの名前が薄く書かれた単行本。


 角の擦れた海外文学。


 新品の本屋とは違う、長い時間を渡ってきた本たちの匂いがした。


「いらっしゃい」


 レジの奥で本を読んでいた女性が顔を上げる。


 五十代くらいだろうか。


 柔らかなベージュのカーディガンを羽織り、文庫本に栞を挟みながら微笑んだ。


「急な雨でしたね」


「あ、はい……」


 自分の声が思ったより掠れていて、結衣は少し驚く。


 最近、仕事以外でまともに会話していなかった気がした。


「ごゆっくりどうぞ」


 それ以上は話しかけてこない、静かな距離感が今はありがたかった。


 結衣はゆっくり店内を歩く。


 有名な小説。


 古い海外文学。


 誰かの旅行記。


 背表紙を眺めるだけなのに、不思議と気分が落ち着いていく。


 学生の頃は、本が好きだった。


 休みの日には図書館へ行って、閉館時間まで読んでいた。


 ページをめくる音が好きだった。


 鞄の中に文庫本が入っているだけで、ワクワクできた。


 いつから読まなくなったんだろう。


 スマホの方が手軽で、短い時間でも楽しめて。


 気づけば、文字を読むというより、“情報を消費する”だけになっていた。


 ふと、一冊の文庫本が目に入った。


 薄いクリーム色の表紙、少しくたびれた小説だった。


 結衣はなんとなく手に取る。


「それ、いい本ですよ」


 いつの間にか近くに来ていた店主が言う。


「大きなことは何も起きないんですけどね」


 結衣は小さく笑った。


「今は、そういうのが読みたいです」


「疲れてる時ほど、本って沁みますからね」


 その言葉に、少しだけ泣きそうになる。


 どうしてだろう。


 優しいことを言われたわけじゃないのに。


 結衣はその本を買うことにした。


 店主は丁寧に紙のブックカバーをかける。


 本を差し出しながら、小さく笑った。


「紙の本って、不便でしょう?」


「え?」


「重たいし、場所も取るし。スマホなら何冊でも入りますしね」


 確かにそうだ。


 けれど店主は続ける。


「あとから思い出す時、読んでた話だけじゃなくて、“あの時の自分”も一緒に浮かぶんです」


 結衣は紙袋を受け取りながら、その意味を少し考える。


 学生時代、泣きながら読んだ小説。


 旅行先の電車で開いたエッセイ。


 眠れない夜に繰り返し読んだ物語。


 本を思い出そうとすると、いつも“あの時の自分”も一緒に浮かんできた。


 外へ出ると、雨は小降りになっていた。


 結衣はスマホを開こうとして、やめる。


 代わりに、紙袋を抱えたまま駅へ向かった。


 電車の窓には、雨粒が細く流れている。


 いつもなら動画を流している帰り道が、今日は妙に静かだった。


 家に着くころには、雨はすっかり止んでいた。


 濡れた靴を脱ぎ、コンビニで買っただけの簡単な夕飯を机に置く。


 けれど、結衣はすぐには食べなかった。


 紙袋から文庫本を取り出す。


 ブックカバーを外す音が、小さく部屋に響いた。


 ベッドに腰を下ろし、そっと最初のページを開く。


 ページをめくる。


 紙が擦れる音が、静かな夜に溶けていく。


 指先に残るざらりとした感触が、妙に心地よかった。


 その夜、結衣は久しぶりに、しおりを挟んで眠った。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 最近、スマホばかり見ているなあと感じることが増えて、久しぶりに紙の本を読みたくなって書いたお話です。


 ページをめくる音や、本の匂い、しおりを挟んで眠る感じ。


 そんな時間って、いいなあと改めて思いました。


 このお話を読んだあと、少しでも「本を読みたいな」と思ってもらえたなら嬉しいです

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