古書 雨兎
会社を出てから十分も経っていないはずなのに、もう今日の出来事を思い出したくなかった。
上司に急ぎで頼まれた修正。
「これ昨日までって言ったよね?」と怒る取引先。
休憩室から聞こえてきた、同僚たちの週末の楽しそうな会話。
疲れたな、と思う。
それ以外の感情が、うまく浮かばなかった。
朝は寝坊しかけて、コンビニで買ったコーヒーは鞄の中でこぼれた。
会社では小さなミスをして、昼休みは取引先からの電話で潰れた。
ついてない日って、こういう日を言うんだろう。
「あ……」
思わず小さく声が漏れる。
天気予報なんて、見ていなかった。
慌てて駅前の商店街へ駆け込む。
アーケードに雨音が響く。
湿った風に混じって、どこか懐かしい匂いがした。
ふと、結衣は足を止める。
見覚えのない店があった。
古びたガラス戸。
色褪せた暖簾。
入口の脇には、小さな立て看板。
――古書 雨兎
その下に、控えめな文字で書かれていた。
『雨宿り歓迎!本日も営業中』
それだけの言葉なのに、なぜか胸の奥に静かに落ちてきた。
結衣は吸い込まれるように扉を開ける。
からん、と鈴が鳴った。
店の中は静かだった。
雨音が遠い。
天井まで並ぶ木の本棚には、色褪せた文庫本が隙間なく並んでいる。
絶版になった古い小説。
誰かの名前が薄く書かれた単行本。
角の擦れた海外文学。
新品の本屋とは違う、長い時間を渡ってきた本たちの匂いがした。
「いらっしゃい」
レジの奥で本を読んでいた女性が顔を上げる。
五十代くらいだろうか。
柔らかなベージュのカーディガンを羽織り、文庫本に栞を挟みながら微笑んだ。
「急な雨でしたね」
「あ、はい……」
自分の声が思ったより掠れていて、結衣は少し驚く。
最近、仕事以外でまともに会話していなかった気がした。
「ごゆっくりどうぞ」
それ以上は話しかけてこない、静かな距離感が今はありがたかった。
結衣はゆっくり店内を歩く。
有名な小説。
古い海外文学。
誰かの旅行記。
背表紙を眺めるだけなのに、不思議と気分が落ち着いていく。
学生の頃は、本が好きだった。
休みの日には図書館へ行って、閉館時間まで読んでいた。
ページをめくる音が好きだった。
鞄の中に文庫本が入っているだけで、ワクワクできた。
いつから読まなくなったんだろう。
スマホの方が手軽で、短い時間でも楽しめて。
気づけば、文字を読むというより、“情報を消費する”だけになっていた。
ふと、一冊の文庫本が目に入った。
薄いクリーム色の表紙、少しくたびれた小説だった。
結衣はなんとなく手に取る。
「それ、いい本ですよ」
いつの間にか近くに来ていた店主が言う。
「大きなことは何も起きないんですけどね」
結衣は小さく笑った。
「今は、そういうのが読みたいです」
「疲れてる時ほど、本って沁みますからね」
その言葉に、少しだけ泣きそうになる。
どうしてだろう。
優しいことを言われたわけじゃないのに。
結衣はその本を買うことにした。
店主は丁寧に紙のブックカバーをかける。
本を差し出しながら、小さく笑った。
「紙の本って、不便でしょう?」
「え?」
「重たいし、場所も取るし。スマホなら何冊でも入りますしね」
確かにそうだ。
けれど店主は続ける。
「あとから思い出す時、読んでた話だけじゃなくて、“あの時の自分”も一緒に浮かぶんです」
結衣は紙袋を受け取りながら、その意味を少し考える。
学生時代、泣きながら読んだ小説。
旅行先の電車で開いたエッセイ。
眠れない夜に繰り返し読んだ物語。
本を思い出そうとすると、いつも“あの時の自分”も一緒に浮かんできた。
外へ出ると、雨は小降りになっていた。
結衣はスマホを開こうとして、やめる。
代わりに、紙袋を抱えたまま駅へ向かった。
電車の窓には、雨粒が細く流れている。
いつもなら動画を流している帰り道が、今日は妙に静かだった。
家に着くころには、雨はすっかり止んでいた。
濡れた靴を脱ぎ、コンビニで買っただけの簡単な夕飯を机に置く。
けれど、結衣はすぐには食べなかった。
紙袋から文庫本を取り出す。
ブックカバーを外す音が、小さく部屋に響いた。
ベッドに腰を下ろし、そっと最初のページを開く。
ページをめくる。
紙が擦れる音が、静かな夜に溶けていく。
指先に残るざらりとした感触が、妙に心地よかった。
その夜、結衣は久しぶりに、しおりを挟んで眠った。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
最近、スマホばかり見ているなあと感じることが増えて、久しぶりに紙の本を読みたくなって書いたお話です。
ページをめくる音や、本の匂い、しおりを挟んで眠る感じ。
そんな時間って、いいなあと改めて思いました。
このお話を読んだあと、少しでも「本を読みたいな」と思ってもらえたなら嬉しいです




