第9話 行く
白依の背後で、焔羅がぶつけた鼻を押さえながら、涙声とも鼻声ともつかない声を漏らした。
「主……」
「わかってる。なにか来てる」
白依の声は低い。けれど迷いがない。
哀が、慌てて声を上げた。
「も、もしや……もう御三家か、陰務省がこちらに――!?」
その言葉に焔羅がびくりと肩を跳ねさせ、尻尾の青紫の火がぱち、と小さく弾けた。
だが白依は、首を横に振るでもなく、ただ静かに言い切った。
「……違う、人の気配とは」
赤い瞳が壁の、さらにその奥の方向へ向く。
背筋を撫でるような不快な気配。
人とは違う。呼吸の熱もない。
けれど、確かに“来ている”。
白依は立ち上がり、足元の畳を踏む。
「出るぞ」
短く告げるだけで、部屋の温度が一段下がった気がした。
焔羅が即座に頷く。鼻を押さえたまま、妙に元気な声を作る。
「承知!」
哀も遅れて立ち上がり、喉を鳴らしてから震える声で答える。
「は、はい!」
外へ出た哀は、息を呑んだ。
冷えた夜気が肺へ刺さるより先に、胸の奥が――ぞわり、と総毛立つ。
(なに、これ……)
艶めくように赤かった大鳥居は、完全に崩れていた。
だが、哀が言葉を失ったのは、それを見たからじゃない。
――気づけなかった。
社務所を出るまで。
この場へ足を踏み出し、視界に入るまで。
“目の前にあるのに、存在を認識させない”みたいな違和感が、遅れて背筋を冷たく撫でた。
境内を取り巻くように、十数体。
霊が漂い、妖が蠢く。
影が影を食み、気配が気配を呼んで、群れになっている。
哀は声が出なかった。
身体が動かない。足が地面に縫い止められたみたいに、指先まで硬直していく。
その一歩前へ、焔羅が出た。
鼻を押さえていた手をようやく離し、青紫の火を揺らしながら、胸を張る。
「主! 任せてください!」
その背中を見た瞬間、哀の喉の奥が苦くなる。
(……あれだけのことを言っておきながら――この体たらく)
情けない。
歯を噛む。自分も前へ出なきゃ、と身体を叱る。
――けれど、遅かった。
焔羅が、息を吸った。
次の瞬間。
キィィィィ――ン……!
金属の芯を擦るような高い震えが、圧とともに空気を裂いた。社務所の窓がガタガタと揺れ、ガラスにひびが入る。
“音”ではない。
臓腑へ直接叩き込まれる、暴力のような咆哮。
空気が波打ち、境内の闇が一瞬だけ白く引きつる。
霊は霧散した。
形を保っていた輪郭が、ばらばらにほどけ、夜の粒へ戻って消える。
妖たちは、逃げた。
咄嗟に踵を返し、木々の影へ、地の裂け目へ、屋根の上へ――蜘蛛の子を散らすように散っていく。
……あまりにも、あっけない。
焔羅はそれを見届け、胸を張っているが、けほっ、と小さく咳き込んでいた。
白依の方へ向き直り、褒めてほしい。
そんな顔だった。
だが白依は、眉間に皺を寄せて、たった一言だけ落とす。
「……うるさい」
焔羅が、がーん、と目に見えて固まった。
肩が落ち、尻尾の火がしゅん、と小さくなる。
哀は、そのやり取りすら遠く感じながら、ただ喉を鳴らした。
少なくとも自分は――
今消えた“あれら”の一体にすら、勝てない。
焔羅が放ったものを、白依は「うるさい」で片付けた。
けれど哀には、到底そうは思えなかった。
あれは力だ。
この場の理をねじ伏せ、恐怖を形のまま叩き割る、圧倒的な“格”の差。
哀は震える指先を握り込む。
(……私、何ができる)
答えはまだ出ない。
ただ、胸の奥で――悔しさだけが熱を持って、じくじくと残っていた。
白依が、ふっと息を吐くように口を開いた。
「……核を集めるにしろ、御三家を潰すにしろ、どうするか」
その一言に、哀は――ここぞとばかりに身を乗り出した。
「それでしたら!」
思わず声が裏返る。
自分でも驚くほどの勢いだった。
白依と焔羅、二つの視線が同時にこちらへ向く。
その瞬間、頬の内側がかっと熱くなるのを感じた。
哀は慌てて口を閉じ、咳払いで呼吸を整える。
「……失礼しました」
もう一度、言い直す。
今度は、できるだけ平静に。
「先ずは、お金と……移動手段が、必要ですね」
そう言って、哀はにこりと微笑んだ。
自分でも不思議なくらい、迷いがなかった。
そこから先の哀は、早かった。
血の匂いが薄れない廊下を迷わず進み、神主の自室へ入る。
引き出し、棚、床板の端――生活の痕跡をなぞるように探して、やがて壁際に隠された金庫を見つけた。
哀は一度だけ息を止める。
そして、振り返った。
「焔羅。この箱の扉……壊せる?」
焔羅は首を傾げ、金庫を見上げる。
「ん。これでいいのか?」
次の瞬間、爪が一本、すっと伸びた。
青紫の火がわずかに揺れ、焔羅は鍵の部分へ爪先を当てる。
――びりっ。
布を裂くような軽さで、金属が引き裂かれた。
鍵の仕組みが意味を失い、扉が軋む。
哀はすぐに開け、札束を確認する。
「……っ」
思わず息が漏れる。
ぎっしり詰まった紙の束――桁の違う重みが、目と指先へ一斉に迫ってきた。
哀は震えそうになる手を抑え、リュックを開いた。
札束を崩さないように詰め込んでいく。布が膨らみ、肩紐がきしむ。
(こんな大金……)
喉が乾く。
頬に汗が伝い、冷えていくのが分かった。
(白依様のことといい……やっぱり、普通の神社ではないのね)
哀は呼吸を整え、次に動く。
現金だけでは足りない。最低限――準備が要る。
棚から丈夫そうな上着を引き抜き、必要そうな小物や黒紫色の木札、手当たり次第にリュックへ押し込む。
手が勝手に動く。迷う暇を、与えないように。
そして最後に――机の上に置かれていた鍵束へ手を伸ばした。
冷たい金属。
その中のひとつ、車の鍵を見つけて握る。
哀は白依の方を振り返り、息を吸った。
「……行けます。ここを出ましょう」
白依たちは、鳥居だったものの残骸を越え、石階段を降りていく。
夜の冷気が肌にまとわりつき、壊れた結界の“抜けた”感覚だけがまだ背中に残っていた。
橋の脇――闇に紛れるように停められていた車へ、哀が迷いなく向かう。
鍵を差し出すでもなく、掌の中で小さく鳴らすだけで、金属がかちりと応えた。
白依と焔羅は、同時に足を止める。
艶のある黒い塊。
四角い腹を持ち、窓が月光を飲み込んでいる。
人の里の馬車とも違う。生き物でもないのに、異様に“存在感”だけが大きい。
「ぬわっ!」
焔羅が反射で身を縮め、白依の服の裾へしがみついた。
白依も目を細め、低く言う。
「……これも、科学か」
哀は頷く。
怖がらせないように、声だけはいつも通り丁寧に。
「はい。これで移動します」
そう言いながら助手席の扉を開けた。
扉が軽く外へ開き、明かりと空気がふっと漏れる。
「こちらにお座りください」
白依は一瞬だけ躊躇った。
中は見たことのない素材で、匂いも違う。
けれど白依は言葉少なに頷き、促されるまま腰を下ろす。
「……ん」
同時に、焔羅がぴょんと跳ね、当然のように白依の膝の上へ収まった。
丸くなって、しっぽの火を小さく揺らす。
哀はそれを見て、ほんの一瞬だけ胸の奥がちくりとする。
羨ましい、という感情を自覚してしまって――すぐに飲み込んだ。
口には出さない。出す資格がない。
哀も運転席へ回り込み、座る。
扉を閉める音が、外の夜を遮断した。
静かで、狭くて、妙に落ち着かない。
哀は慣れた動作でシートベルトを引き、胸の前でかちりと留める。
それから白依へ視線を移した。
「白依様。そちらも、このように……ベルトをしてください」
白依は言われた通り、視線だけでそれを追う。
細い帯が、金具へ吸い込まれて固定される仕組み。
「ん」
白依は真似をしようとして、手を伸ばす。
哀は手伝おうとしたが、距離を保つために、静観する。
白依は一度、帯を引き、金具を探し――少し手間取ってから、ようやく留めた。
かちり。
小さな音がした。
哀は、目の前の光景に口元が緩みかけるのを必死に抑えた。
それでも、胸の内側だけは素直に跳ねる。
(……できた)
小さく、心の中でだけ呟く。
白依は、なにも言わない。
ただ、どこか得意げでも不機嫌でもない顔で前を向けた。
焔羅が、膝の上で「主、天才」とでも言いたげに鼻を鳴らす。
白依は無言で肘を軽く落とし、焔羅の頭を押し戻した。
焔羅は「むぅ」と縮こまる。
哀は一拍置いて、エンジンをかけた。
低い振動が足元から伝わり、白依の眉がわずかに動く。
だが、叫びはしない。視線だけで“これも術か”と測っているよう。
哀はハンドルを握り、落ち着いた声で告げた。
「それでは向かいましょう」
(もう戻れない。戻らない)
「とりあえずは……少し栄えている場所で宿を取ります」
白依は短く返す。
「分かった」
焔羅は膝の上で、まだ外の闇を警戒するように耳を伏せたまま――それでも、どこか嬉しそうに尾の火を揺らしている。
――――――――――
白依たちが移動して一時間後。
山の闇を縫うように、二つの影が滑る。
陰務省・隠密部隊隊長――籠杜伝。
そして、その副隊長――御影澄明
気配を殺し、音を落とし、道という道を使わずに進む。
やがて、木々の隙間から境内が覗いた瞬間。
二人は、ぴたりと止まり、倒木や木々の影に潜む。
「いやー……文字通り飛んできて、これで誤検知でした〜じゃ、笑えないけどさ」
軽く言う声。けれど、常に周りを観察している。
御影が、抑えた声音で返す。
「その心配は……なさそうですよ」
二人の視界が捉えたのは――
根元からへし折れ、原型を留めない鳥居だったもの。
そして、散らばる血。
無惨に転がる死体の数々。
「これは……」
御影が言いかけた、その言葉を。
籠杜は手で制した。
――喋るな。
状況が、まだ“動いている”。
悲惨の中心で。
ひとつだけ、影が“立ち上がった”。
それを認識した瞬間、籠杜のデバイスが反応。
籠杜は反射で視線を落とし、内容を確認した。
面の下で、表情が引き攣る。
(……時すでに、ってねー)
内心の声だけが、喉の奥で転がった。
次の刹那、籠杜と御影の背後で声がした。
「なにしてるの?」
男か女か、子供か老人ともとれる。そんな曖昧な声質。
二人は反射で振り返る。
――だが、そこには何もいない。木々の影と夜の湿り気だけが、黙っている。
(しくった)
籠杜の背筋を、冷たいものが走った。
視線を境内へ戻す――その瞬間。
目の前に“立って”いた。
無駄に派手な赤を基調にした着流しの男。
夜の闇に溶けない赤。むしろ闇を裂くために着ているかのような色。
口元には薄い笑み。閉じているような細い目は笑っていない。
「そりゃ、鷹宮家序列一位様にはバレるか」
籠杜が、乾いた息と一緒に吐き捨てる。
式神を操る名家。御三家――鷹宮家。
次期当主にして現序列一位。
鷹宮迅、通称“天狩”(あまがり)。
迅は、視線だけで転がる死体と折れた鳥居を一瞥し、興味深そうに肩を竦めた。
「陰務省のガサ入れかと思ったが……隠密部隊長に副隊長が今さらコソコソしてるとなれば、話は別か」
その言い草に、籠杜の口角が僅かに引きつる。
御影は一歩、半足分だけ前へ出る。守るでも攻めるでもない――“間合い”の取り方。
籠杜が問う。声がほんの少しだけ強張った。
「その言い方だと、君たちの仕業でもないってことかな。わざわざ、管轄でもないここに居て?」
迅は両手を軽く上げる。降参の形を真似るだけで、誠意はない。
「ああ。そんな警戒しなくていい。俺は興味本位で来ただけだ」
言って、舌で唇をなぞる。
その仕草が、妙に生々しい。
「……新しいコレクション候補がいるかと思って、な」
空気が、ぞっと冷えた。
籠杜の皮膚が粟立つ。
御影の喉が小さく鳴り、息が一拍遅れる。
“コレクション”。
人でも、怪異でも。
彼の中では同じ棚に並ぶ――そういう言葉の使い方だった。
迅の笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「で? 君らは……何を見つけたの?」
一拍。
「見つけるために来たんだよ」
籠杜は、面の奥で呼吸の速度だけを整えた。声は軽く、平静に聞こえるように。
――相手が“それ”を嗅ぎ取ると分かっていても。
迅は肩を揺らして笑う。乾いた笑いだ。
「いやいや。あの女狐のいる陰務省のことだ。どうせ何かしら見つけてるんだろ?」
その細い目が少し開かれ、籠杜の喉元を撫でるみたいに移動する。
もう完全に捕食者の目だった。興味ではない。獲物を量る目。
(……埒が明かない)
籠杜は一瞬で判断する。
「――散!」
短い号令。
それが合図になった瞬間、御影の足元の影が波打った。
同時に、籠杜は倒れ伏していた太い木を――迅へ向けて蹴り飛ばす。
折れた枝が唸り、夜気を裂いた。
迅は、いとも容易く避けた。
赤い着流しが、ふわりと風を受けるように揺れる。躱したというより、邪魔なものを避けただけの動き。
だが。
次の瞬間、目の前にいたはずの二人が――消えていた。
御影は既に、自分の足元から伸びる影の中へ潜り、気配を溶かし、距離を稼ぐ。
籠杜もまた、蹴りの勢いを利用して身を翻し、そのまま撤退していた。
現状手に負えない、と切り捨てた判断。
残された迅は、面倒そうに髪を掻き上げる。追う素振りはない。
むしろ、楽しげに鼻で息を漏らした。
「逃げ足だけは一丁前だな」
そして、ゆっくりと本殿へ向かって歩き出す。
散らかる死体を跨ぎ、血の匂いが濃い方へ。
崩れた結界の“穴”を、嗅ぎ分けるように。
闇の中で、蓋の壊された木箱を見つめ、迅の口角が釣り上がった。
「――見つけた」
その呟きは、誰に向けたものでもない。
けれど境内の空気だけが、確かにそれに応えたように、ひたりと重くなった。




