第8話 今と過去
ーー陰務省・総監室。
中央に据えられた大きな机に、久遠緋珠は突っ伏していた。赤い髪がだらりと垂れたまま微動だにしない。
その隣で、相楽澪は呆れを隠さず腕を組み、視線だけで“いつもの”を見送っている。
コン、コン。
扉を叩く音が、響いた。
「どーぞー」
緋珠が顔も上げず、だるそうに許可を出す。
ガチャ。
覗いたのは――黒い猫の着ぐるみを、子どもみたいにぶかぶかと纏っていた。フードの先には耳。袖口には肉球の形をした分厚い手袋が縫い付けられ、指先の代わりに桃色の丸が五つ並ぶ。腰から伸びた尻尾は、歩くたびにゆらりと揺れていた。
その頭には、白い狐面だけが乗っている。朱の隈取が目元に鋭く走り、笑っているのか、笑っていないのか分からない口元だ。
「総監ー。今度はどこの調査にいくの?」
少し高めの声でフレンドリーな、軽い口調。
それを緋珠は咎めない。むしろ、瞬時に元気を取り戻して上体を起こした。
「伝くん!もう、総監なんて堅苦しく呼ばないで緋珠ちゃんでいいのよ?」
ぱちん、とウインクまで添える。
澪は額に手を当て、ゆっくり首を左右に振った。
籠杜伝――陰務省四部隊のひとつ、隠密部隊長。最年少で隊長を任された天才。
スルーしている籠杜を他所に「今日も可愛いね」「よしよししてあげようか」などと緋珠がわちゃわちゃ言い続けるので、澪が代わりに用件を切り出した。
「先程、兵庫県北部の山間部で、神格クラスの反応がありました。詳細は籠杜隊長のデバイスに送ります」
「……あー、そういうのは補佐の御影に送ってくれる?」
「……はぁ。分かりました」
澪は一拍だけ深く息を吐いてから、言い切る。
「それで、その現場へ偵察に行っていただきたいのです。直ちに」
「おっけー」
あまりに軽い返事。だが緋珠も澪も不安はない。
籠杜にそれだけの実力があると――よく知っている。
「神格クラスなら、他の隊員は足手まといかな。一応御影は連れていくねー」
「移動用の式神も手配済みです」
「あーい」
軽口のまま応じた伝へ、緋珠がふっと姿勢を正す。
声だけが、少し低くなる。
「まだ、現地の情報を整理しきれてないんだけど、御三家の件もあるし、今回のこれは……嫌な予感がするんだ。よろしくね」
伝の声も、先程よりトーンが落ちる。
「了解」
返事は短く、真剣だった。
そのまま踵を返し、部屋を出ていく。
ガチャ、という音が閉まって、再び二人きりになる。
沈黙、半拍。
それを破ったのは、緋珠だった。
「澪ちゃん、今日パンツ何色?」
先ほどの真面目な声をそのまま、無駄に真剣な顔で言う。
「殴りますよ」
相楽澪の返答は、絶対零度の一言だった。
――――――――
哀は膝の上の指先を見つめた。言葉を探すというより、胸の奥の痛みを押さえ込むみたいに。ほんの短い沈黙のあと、ようやく唇が動いた。
「御三家は……陰陽道の家系の中でも、特別に古くて……強い血を持つ、三つの名家です」
淡々と語ろうとしているのに、ところどころ声が掠れる。喉の奥がひりつくのを誤魔化すみたいに、哀は一度だけ息を吸って、続けた。
「京都。式神を従える――鷹宮家。
大分。言霊を扱う――言祝家。
それと……私の本家である、宮城。呪具や呪物を扱って、制作もしている――黒杖家」
焔羅が「へぇ〜」と小さく漏らしかけて、白依の視線がひと段強くなるのに気づき、ぱちんと口をつぐむ。哀はそれに気づいているのかいないのか、見ないふりをしたまま言葉を繋げる。
「……その三家が、現代日本の“秩序”を名乗っています。昔から、怪異を祓う。封じる。管理する。そういう役目の家です。……でも」
哀の言葉が、そこで一瞬だけ詰まった。息が喉に引っかかる。飲み込むのに少し時間がいる。
「……実際は、力のあるものが、力のないものを従わせる仕組みです」
膝の上で、指がぎゅっと握り込まれる。薄い布越しに浮く手の筋が、きゅ、と強張った。肌に残る傷跡が、呼吸と一緒に微かに震える。
「どの本家も、分家を……道具みたいに扱います。使えないものは切り捨てる。役に立つなら、使い潰す。……私みたいな分家の落ちこぼれは、ただの“数”でしかありません」
事実だった。だからこそ、言葉にした瞬間、胸の奥へ深く刺さる。痛いのに、表情は崩せない。崩したら、今度は自分が自分を許せなくなる。
白依は黙っている。目を逸らさない。赤い瞳が、容赦なく哀を捉えたまま、逃げ道を塞いでくる。
喉の奥を鳴らして、哀は続きを吐き出す。
「私がここに奉公として送られたのも……厄介払いです」
言い切る声が、わずかに震える。
「この神社は……“封”の監視場所で。誰かが常にいればいい。だから……私みたいな、居ても居なくてもいい人間が――」
言いかけて、声が途切れた。唇を噛む。噛み殺したはずの情けなさが、喉の奥で小さく鳴る。哀は一度だけ大きく息を吐いて、言い訳みたいに言った。
「……すみません。続けます」
謝る必要なんて、どこにもないのに。哀は癖みたいに頭を下げた。謝らないと、自分がここに居る資格が消えてしまうみたいに。
白依の声が落ちる。
「謝るな。続けろ」
短い。冷たい。けれど、その短さが、逆に哀の背骨を支えた。
哀はほんの少しだけ顔を上げる。その言葉にすがってしまいそうになって――寸前で、自分で押し殺した。
そんなことは、自分には許されない。許された瞬間に、甘えてしまうから。
「……はい」
返事だけは真っ直ぐに落とし、哀は声の温度を少しだけ下げる。
「……もう一つ、あります」
哀は膝の上で指をほどき、ほんの少しだけ背筋を正した。言うべきことを言う、と決めた顔だったのに、声の端だけがまだ揺れている。
「陰務省。……国直属の組織です」
焔羅が尻尾の火をぱち、と小さく弾かせたが、口は挟まない。
哀は続けた。
「役割としては……御三家と、あまり変わりません。怪異を祓う。封じる。管理する。人の世に出さないための……組織です」
言いながら、哀は一瞬だけ視線を迷わせる。言い方を間違えれば、また“地雷”を踏む。けれど、逃げたら意味がない。
「でも――」
哀は息を吸い直し、言い切った。
「秩序としては、陰務省の方が……幾分、マシです」
“マシ”という言葉が、やけに軽く響いてしまったのが分かったのか、哀はすぐに付け足すように言葉を重ねる。
「少なくとも、御三家みたいに血の濃さで全部が決まる仕組みではありません。上が腐っていることもありますけど……それでも、国の枠の中にある分だけ、歯止めが……あるかと……」
歯止め、と言った瞬間、哀の声がほんの少しだけ苦くなる。自分がその“枠”の外で踏み潰されてきたことを、思い出してしまったのだろう。
白依は黙って聞いている。
「……今は」
哀は言ってから、ほんの少し俯いた。言葉を選ぶというより、自分の胸の奥に沈んだものを見ないようにする仕草だった。
「妖や霊の怪異、呪具や呪物には――“災位”と呼ばれる階級が定められています。下が陸災位、上が零災位の七階級に分けられています」
淡々と述べようとしているのに、声がわずかに掠れる。
「……人間も、それに準じた“災位保持者”として登録されています。術や異能を扱う者は、だいたいその枠に入ります。私も……」
哀は一拍置いて、続けた。
「……最も低い、陸災位ですが」
言い終えた瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。
口に出すほど惨めになる。自分が“数”でしかない、と改めて確認してしまう。
白依は表情を変えない。けれど赤い瞳だけが、哀の言葉の裏を見ている。
「そういえば我も、参災位とか……」
ボソッ焔羅が呟く。
次の瞬間。
白依の視線が、ぎろり、と焔羅を貫く。
焔羅の口が、ぴたりと閉じた。
尻尾の炎が、すっと小さくなる。耳が伏せる。
「…………」
白依は言葉を出さない。ただ、その沈黙だけで十分だった。
哀は思わず「えっ」という顔をして、焔羅と白依を見比べる。
そして、自分が“今”どんな場にいるのか、遅れて理解して――
白依の視線が、ふっと哀へ戻る。
それだけで、哀の心臓が跳ねた。
白依は、ふと――思い出す。
(式神。言霊。呪具……)
どれも、じじいが砕かれたあの日、霧の向こうで見たものだ。
札の舞う音。術具の紐の結び目。人の欲が、形を持って迫ってきた光景。
(陰陽師の子孫にまで、罪があるとは言わない。でも、今もじじいを利用しているなら、話は別だ。)
赤い瞳が、温度のないまま哀に定まった。
「黒杖家は……呪具呪物の制作もしているのだな」
問いは短い。
けれど冷たく、逃げ道がない。
哀の喉が鳴る。
「は、はい」
白依は一拍置いて、さらに踏み込む。
「神の核を使った呪具呪物を――持っているのか。……あるいは、造った事実があるのか」
哀の背筋が凍った。
白依の目的が、点ではなく線で繋がる。
“核”を集めるということ。
そして、その核を奪った系譜が――まだ生きているということ。
言葉が喉につかえ、息が浅くなる。
「……申し訳、ございません」
哀は視線を落とし、震えを押し殺すように言った。
「私は……存じません」
――ここで止めれば楽だ。
知らないと言い切ってしまえば、これ以上は踏み込まなくて済む。
けれど。
その沈黙は、白依を裏切る形になる。
哀は、歯を食いしばった。
「……しかし」
声が、わずかに掠れる。
「可能性は……十分あるかと」
その一言を落とした瞬間。
白依の気が、ふわりと溢れた。
怒りの熱ではない。もっと冷たい、底の深いもの。
室内の空気が重くなり、焔羅の炎がびくりと揺れる。
哀の肺が、きゅ、と縮む。
だが――
白依は目を閉じ、息を吐いた。
溢れた気は、次の瞬間にはすっと引いていく。
まるで、暴れかけた獣の首へ、鎖を掛け直すように。
「……わかった」
白依が言う。
決めた声だった。
「とりあえずの目的は、決まった」
そして、白依は真っ直ぐに哀を見た。
気とは違う圧。
殺意でも怒気でもない。――覚悟を測るためだけの重さ。
「もし、じじいの核を今も利用しているなら」
白依の声が、静かに落ちる。
「白依は……お前の本家である黒杖家を、潰す」
“潰す”。
それは比喩でも、脅しでもない。
哀は直感で分かった。白依は、本当にそうする。
心臓が跳ね、喉の奥がひくつく。
それでも哀は、視線を逸らせない。
白依は続ける。
「それでも白依に従えるのか。今なら――」
最後まで言わせなかった。
哀が、顔を上げた。
声が、腹の底から裂ける。
「従います!」
絶叫だった。
懇願だった。
自分の心臓をそのまま差し出すみたいな、叫びだった。
「縁も恩もありません!白依様に仕えさせてください!」
涙が滲む。息が詰まる。身体が強張っている。
それでも、言葉だけは揺らがなかった。
白依の赤い瞳が、哀を映したまま、わずかに細まる。
焔羅が、息を呑む。
そして次の瞬間には、尻尾の炎を小さく揺らしながら、場の空気を読む。
重い沈黙の中で、哀の叫びだけが、まだ熱を残していた。
白依は一度、深く息を吐いた。
そして、わずかに体勢を整え直す。
張り詰めていた糸が一本、切れたみたいに――部屋の空気がほんの少しだけ軽くなった。
「あ、主……?」
焔羅が恐る恐る声を出す。青紫の炎が、尻尾の先で小さく揺れていた。
さっきまでの勢いは影もなく、今はただ怯えを隠しきれない。
「主は……なぜ封印されていたのですか。何があったんですか?」
白依は答えなかった。
いや、答えたくなかった。
喉の奥がきしむ。胸の底が冷える。
話せば、またあの夜へ戻ってしまう。戻ったら、今度こそ止まれないかもしれない。
……けれど。
焔羅は身体を強張らせた。
恐怖で固まった目をしているのに、逃げずにここにいる。
さっき、白依の声に黙らされた時の怯えが、まだ消えていない。
(……怖がらせてしまったか)
白依は小さく眉を寄せ、瞳を閉じた。
「……ああ」
それだけ言って、白依は息を吸い――静かに吐き出すように語り始めた。
小さな村で、生まれたこと。
髪も肌も、まつ毛も白く。瞳だけが赤くて。生まれた瞬間から“異様”だと指をさされ、穢れだと呼ばれたこと。
家から出ることも許されず、息をするだけで周囲が嫌悪を向けてきたこと。
塩を撒かれ、藁人形を刺され、笑い声が石の音に変わり、両親がボロボロになっていく姿。
そして――追われたこと。
松明の列。怒声。獣みたいな影。
逃げた先で、両親が崩れ落ち、白依だけが白く残ったこと。
そこで、じじいに出会ったこと。
霧の中で、老いた神が自分を抱き上げてくれたこと。
じじいの言葉が長い長い闇の中で、白依を折らせなかったこと。
山で暮らしたこと。
依代としての、力の使い方を覚えたこと。
“戻れなくなる”恐怖を、じじいの声で何度も引き戻されたこと。
……そして。
陰陽師が来たこと。
核を狙い、じじいを裂き、砕いたこと。
白依が助けようとして――止められて。
最後にじじいが押し込んできた重さだけが、今も胸の奥に残っていること。
話しながら、白依の手に力が入った。
爪が掌へ食い込む。奥歯が鳴る。
目の奥が焼ける。
――あの日の光景が、鮮明に浮かぶ。
空気の乾いた冷たさ。
術式の声。
引き剥がされていく“中心”。
じじいの背中が、一瞬だけ揺れたこと。
白依は最後まで語り切り、息を吐いた。
そして、ゆっくり目を開けた。
そこにいた哀は、肩を揺らしながら、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。
声も出せず、ただ必死に唇を噛み、溢れるものを堪えきれずに零している。
白依は、哀を見て――言葉が出ない。
――しかし。
(……こいつは、あいつらとは違うのかな)
横では焔羅が、震えながら泣き、鼻水も、よだれも垂れ流して、顔をぐしゃぐしゃにしていた。
あまりに酷い。あまりに間抜けだ。
話して、思い出して、心の中はぐちゃぐちゃだったはずなのに。
その光景が視界に入った瞬間――
「……ふっ」
思わず、声が漏れた。
完全に無自覚だった。
だが、その一音を聞いた焔羅が、ばっと顔を上げる。
瞳が見開かれ、次の瞬間には弾かれたように飛び上がった。
「主ーーーー!」
泣き腫らした顔のまま、勢いだけで突っ込んでくる。
青紫の炎が尾を引いて、空気が揺れた。
白依は、反射で身を引く。
今度は――すかさず、避けた。
焔羅は行き場を失い、白依の脇をすり抜けて――
「ウギュッ」
背後で、潰れたような呻き声がした。
白依がちらりと視線をやるより先に、別の音が耳へ届く。
ザザ、と。
畳を擦るような音。
哀の方だった。
見ると、哀が後ろへ少し下がり、また土下座している。
深く、肩が細かく震えていた。
その震えは恐怖などではなく泣いている震えだった。
「申し訳ございません……申し訳ございません……」
同じ言葉を、繰り返す。
まるでそれ以外の言葉を持っていないみたいに。
泣き声が混じって、息が途切れる。
それでも謝るのをやめない。
白依は思う。
(こいつは――自分の罪ではないのに謝り、自分の悲しみではないのに、涙を流すのか……)
喉の奥に残った熱が、ゆっくりほどけていく。
白依は目を伏せたまま、ぽつりと言った。
「……お前は、謝りすぎだ」
叱るための言葉ではない。
責める音でもない。
声は柔らかく、包み込むような音だった。
自分でも驚くほど、丸かった。
哀の肩がびくりと跳ねる。
ゆっくりと――哀は身体を起こした。
額が床から離れる。手が膝に戻る。背筋が、震えながらも伸びていく。
濡れた睫毛の下、黒い瞳が白依を見つめた。
涙は止まっていない。頬を伝って、顎で小さく揺れている。
それでも、その眼に迷いはなく、怯えの奥に、確かな意志がある。
哀は息を吸い、言葉を置くように言った。
「私の全てを……この命を、白依様のために」
祈りでも、命乞いでもない。
誓い。
その声は、澄んでいた。
月夜に紛れ、この場所へ近づく影が動き出す。




