第7話 逃げるな
哀は一歩、また一歩と後ずさった。
カタン。
手にしていた櫛が床へ落ちる音で、ようやく自分の指先が力を失っていたことに気づく。
足から力が抜け、尻もちをついた。床の感触さえ遠い。
奥歯が、がちがちと噛み合わないほど震える。
心臓が暴れている。胸の内側を叩き割ろうとするみたいに、どくどくと痛い。
カヒュ、カヒュ――
喉が鳴る。
息の吸い方が分からない。吐くこともできない。
酸素が、肺へ落ちてこない。
白依は、椅子に座ったまま動かなかった。
その白い髪だけが、割れた鏡の前で静かに揺れている。
――次の瞬間。
白依の身体から、ふわりと焔羅が飛び出した。
「主!何事ですか!身体が楽になったと思え――っ」
言い終えるより先に、白依の声が落ちる。
「黙れ」
たった一言。
重い。
空気が床へ沈むみたいに重い。
焔羅の口が、ぱく、と動き――そこから先が出ない。
喉の奥で音が潰れ、青紫の炎さえ一瞬、怯えたように小さくなった。
(これは……主の言霊……)
哀は、震えきった声で喉をこじ開ける。
「あ、あの……白依様、私……」
言葉は続かなかった。
続けたら、何かが決定的に壊れる気がした。
白依が、ゆっくり立ち上がり、振り返った。
そして――真っ赤な瞳が、哀を見た。
冷たい。
火の色なのに、氷みたいに冷たい。
哀の胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
(あ、もうだめなんだ)
勝手に分かった気になっていた。
近づけた気になっていた。
湯のぬくさに、髪を梳く時間に、少しだけ――許され、救われた気がしていただけだった。
哀は、ぎこちなく姿勢を正す。
床に両手をつき、額を落とした。
土下座。
祈りの形。
命乞いの形。
けれど、どれにもなりきれない形。
「白依様の……御心のままに」
声も身体も、がたがたと震えている。
自分の言葉なのに、遠くで誰かが言っているみたいだった。
白依の声が、上から落ちる。
「何のつもりだ」
冷たい問い。
逃げ道のない問い。
哀の喉がひくりと鳴り、泣き声になり損ねた息が漏れた。
「私には……命のほかに」
言葉を継ぐだけで、肺が痛い。
「白依様へ……贖う術が、ございません」
ひくっ、と嗚咽が漏れる。
額が床に押しつけられ、涙が染みていく。
「申し訳……ございません……申し訳……ございません……」
哀の額が畳に擦れ、震えが床へ伝わる。
謝罪の言葉を吐くたび、喉がひゅ、と鳴った。
泣き声は押し殺したつもりでも、息の端から漏れてしまう。
白依は――その姿を見下ろしていた。
胸の奥が熱い。
だがそれは怒りだけの熱ではない。
もっと嫌な熱だ。まるで裏切られたような、どこか心安らいでいた噛み潰せない異物が、喉の奥にひっかかっているような。
“陰陽師”。
その音が、じじいの最後を何度も再生する。
札の舞い、冷たい欲の目、核が砕かれる光景。
山の匂いが苦く変わる。
――この女も、同じ系譜。
白依の中で、結び目が固く締まる。
「……贖う?」
白依の声は低く、温度がない。
「贖うという言葉を使うな。お前は……」
哀の肩がびくりと跳ねた。
額を上げる勇気もなく、床へしがみつくように指先に力が入る。
「……っ、ちがっ……」
言葉が出ない。
出そうとすると、胸が詰まって息が止まりそうになる。
白依は一歩、哀へ近づいた。
哀の背中が、反射で小さく縮こまる。
それを見て、白依の眉がわずかに寄った。
――触れない。
それだけが救いだと、身体が勝手に理解している。
白依は哀の頭上で立ち止まり、見下ろしたまま言う。
「黒羽哀」
初めて名を呼ばれ、哀の身体が硬直する。
“呼ばれる”だけで、心臓が跳ねた。
こんな呼ばれ方は望んでいなかった。
「お前は、陰陽師なのか」
問う声は淡々としていた。
だが、刃のように鋭い。
哀は答えようとして、口を開いた。
けれど声が出ない。首も動かない。
沈黙が伸びる。
その隙に、焔羅が白依の足元へにじり寄る。
口を開きかけ――また、白依の視線に当たって黙る。
白依は哀を見つめ、続けた。
「御三家の分家、と言ったな」
哀の喉が、ひゅ、と鳴った。
呼吸が浅くなる。
「……その御三家は、千年前に白依のじじいを砕いた」
言葉が、床へ落ちる。
重い。動かない石みたいに。
哀は震えながら首を振ろうとした。違う、と言いたい。
自分は何も知らない。何もできない。そんな力はない。
けれど。
“知らない”は、免罪符にはならない。
むしろそれは、罪とすら言える。
哀はそれを知っていた。
自分がこの家に生まれた瞬間から、ずっと。
「……わ、私は……」
やっと声が出た。
掠れた声。涙で濡れた声。
「私は、何も……できません。御三家の名だけで……生きているだけの……分家で……落ちこぼれで……」
言い訳に聞こえるのが怖くて、すぐに言葉を切る。
息が詰まり、額が床に押しつけられる。
「……」
哀は絞り出す。
「白依様に……殺されても……当然です」
白依の赤い瞳が、ほんのわずかに細くなった。
「殺す?」
白依は、そこで一拍置く。
口の中でその言葉を転がすみたいに。
「知っているだろう。殺すのは簡単だ」
哀の指先がびくりと跳ねる。
喉の奥で嗚咽が潰れた。
白依は、冷たく言い切った。
「でも、白依は核を探す」
その一言で、場の理が決まる。
「……お前が御三家に繋がっているなら」
白依の声が、さらに落ちる。
「白依はお前を利用する」
哀の背中が、びくりと震えた。
絶望でも安堵でもない、どちらにも振り切れない感情で。両立しえない歓喜と恐怖が確かにあった。
白依は続ける。
「お前は、死に逃げるな」
哀の呼吸が止まる。
「死ねば、終われる。それでは、白依は困る」
それは命令だった。
慰めではない。許しでもない。
ただの、合理だ。
だからこそ哀は――涙が止まらなかった。
「……はい……っ」
空気は、重いままだった。
明かりの消えた部屋は、さっきまでの熱と匂いを残したまま闇だけが濃くなっている。割れた電球の焦げた臭い。鏡の亀裂が走ったままの冷たい反射。床下からまだ微かに、地が軋む余韻が伝わってきた。
哀は、座り込んだまま必死に息を整える。
奥歯ががちがちと鳴り、喉はひゅう、と乾いた音を立てる。呼吸の仕方を忘れたみたいに胸が詰まり、目の奥が熱い。
――それでも。
ここで倒れたままではいけない、と身体のどこかが命じた。
哀は震える手を床に突き、膝を引き寄せる。立ち上がろうとして、足が抜けるように崩れかけた。
それを、白依は見ない。見ないまま、動かない。赤い瞳の温度も、こちらへ向けられない。
哀は一度、唇を噛んだ。
声にすれば泣き声になるのが分かっていたから。
それでも、口を開く。
「……白依様」
掠れた声だった。
「部屋を……移りましょう。破片が散らばって、危ないですし……」
言い訳にしか聞こえない、と哀自身が思う。
それでも、何かを“整える”場所が必要だった。これ以上、ここで白依の前に崩れ続けるのが怖かった。
哀はゆっくりと立ち上がり、足元に落ちていた櫛を拾おうとして――指が届かず、諦めた。
拾う余裕も、許される気もしなかった。
戸へ向かう。
足が震えて床がやけに近い。呼吸が浅くなるのを無理に押し込み、哀は先に立つ。
「……こちらです」
案内の言葉は、いつものように丁寧に形を整えたつもりだった。
けれど声が震え、語尾がほどけた。
戸を開ける。
廊下の闇が、冷たい。
哀は歩く。
一歩、また一歩。
背中が、白依へ向けているだけで怖い。振り返れば、赤い瞳がある。
振り返らなくても、赤い瞳がある気がする。
後ろで、白依の足音が鳴った。
ぺたぺた、と素足が床を踏む音。
湿った髪が背で擦れる音。
焔羅も、ふわりと影のように白依の肩口で浮かび追う。
口を噤んだまま、青紫の火だけが小さく揺れている。
廊下を曲がり、哀は応接間の前で立ち止まった。
「……こちらです」
襖を開け、電気をつける。
畳が広く、低い卓と座布団が整えられている。客を迎えるための部屋――それなのに、今は迎える空気が一切ない。
哀は先に中へ入らず、襖の脇へ身を引いた。
白依が通れるだけの幅を残す。触れない距離。邪魔にならない距離。
「……どうぞ」
声が小さすぎて、自分でも聞こえたか分からなかった。
白依が無言で部屋へ入る。
その背中が卓の前で止まり、部屋の空気がさらに沈む。
哀は最後に、震える膝で畳へ踏み込み、襖を静かに閉めた。
――逃げ場は、もうない。
重い空気のまま、三つの影だけが応接間に揃った。
――――――――――
東京都某所――陰務省本部・観測室。
薄暗い室内に、青白い光が幾重にも浮かんでいた。宙を走るホログラム。脈動するグラフ。地形図に重ねられた霊脈の流れ。数値が跳ねるたび、警告色の帯が点滅し、乾いたアラートが空気を裂く。
ピ、ピ、ピ――。
「神格クラスの反応、検知しました!」
若い観測員の声が裏返る。指先が操作盤を叩き、別の画面が立ち上がる。
「座標、兵庫県北部! 反応源、山間部――!」
「……反応規模、急上昇。第一次域、第二次域……いや、これ……」
別の声が言い淀む。数値の“伸び方”が、常識を踏み越えていた。
「しかし、この反応は……」
その緊迫の真ん中に。
場違いな声が、ぽろりと落ちた。
「うっそでしょ……もう勘弁してよ〜」
肩ほどまで伸びた赤髪の女が、椅子の背にもたれ、だらりと首を傾げていた。制服の上着を雑に羽織り、片手でこめかみを押さえ、ため息を混ぜる。
けれど、橙色の瞳だけは笑っていない。
眩い数値の列を、獲物を見るみたいに鋭く追っていた。
「総監。そんな情けない声を出さないでください」
背後から、落ち着いた声が刺す。
振り向いたのは、ロングの水色髪の女だった。背筋は伸び、手元の端末を淡々と操作している。氷みたいに静かな目で、赤髪の女を見下ろしていた。
「澪ちゃん、総監って呼ばないでよー! 可愛くないじゃん!」
赤髪の女――陰務省総監・久遠緋珠は、拗ねたように唇を尖らせる。
「……はぁ」
水色髪の女――陰務省副総監・相楽澪は、深く息を吐いた。
「呼び方はどうでもいいので。対策、どうするんですか」
「冷たいなー。うーん……どうしよっか?」
わざとらしく指を顎に当て、緋珠は首を傾げる。口調は軽い。ふざけているようにしか見えない。
だが――視線は、正面の数値から一度も外れない。
「真面目にしてください」
澪の声が、さらに冷える。
緋珠は肩をすくめ、観測室の中央に浮かぶ地形図を指でなぞった。ホログラムが反応し、兵庫県北部の一点が赤く脈打つ。
「神格者が生まれたか、そのレベルの怪異か……だとしたら、下手に手は出せないしなあ」
「ええ。手を出した瞬間、“敵”にされるかもしれません」
澪は淡々と続ける。
「それに――御三家の動きも気になります」
その言葉に、緋珠の口元が歪んだ。笑いではない。嫌悪に近い、薄い嘲り。
「そこなんだよねー。感知はしてるだろうし、あのおっさんおばはんたちが出張って来そうで、あー鬱鬱」
「なら、尚更早く手を打たねばなりませんよ」
澪の端末が短く鳴り、追加のログが流れる。霊脈の“逆流”。結界崩壊の波形。通常の怪異反応とは違う、強制的に土地の理を塗り替えるタイプの波。
緋珠は一瞬だけ、表情を消し、またふざけた声を出す。
「分かってるよー。ぶー」
だが、橙色の瞳は鋭いまま、刃物みたいに数値を追っている。
「ねえ澪ちゃん」
緋珠の声が、ほんの少しだけ落ちた。
「これ、“生まれた”って感じの反応だよね」
澪は答えない。代わりに、ホログラムへ指を滑らせ、過去ログの比較を呼び出した。
同じ兵庫県北部。
同系統の霊波。
“封”の名残のような、古い縛りの波形。
それを見た緋珠が、舌打ちを飲み込む。
「……面倒なのが現れちゃって」
額に汗が滲む。
ふざけた口調のまま、緋珠は椅子から立ち上がる。制服の裾を払う動きは軽い。
「行く?」
「行かせません。総監が動けば、御三家が“正当な口実”を得ます」
澪が即答する。
「うーん、私だって行きたくないさ。でも放置もできないよねぇ」
緋珠はホログラムの赤点を見つめたまま、指を一本立てる。
「じゃ、澪ちゃん。まずは――」
ふざけた声色の奥で、命令の刃が研がれる。
「偵察。最小限。誰にも気づかれない形でー、隠密部隊隊長の伝くんにお願いしようか。
それと、御三家の通信ログと現地の情報――全部洗って。御三家が動き出してたら、先にどうにかしないと」
澪は一拍も置かず頷く。
「了解です。久遠緋珠総監」
わざとらしく敬称を付けた澪に、緋珠は眉をひそめる。
「最後、余計」
「必要です」
澪の声は平坦だった。
――――――――――
白依が座り、その正面に哀が座る。低い卓の上には、焔羅がちょこんと腰を下ろしていた。白い毛並みの隙間から、青紫の炎が小さく揺れている。
さっきまでの揺れの余韻が、まだ床下に残っている気がする。どこか遠くで、木が軋むような音がした。
哀は背筋を伸ばしている。けれど、指先が微かに震えていた。膝の上で固く握った手の甲に、白く血の気が引いている。
白依は動かない。
ただ、赤い瞳だけが、正面の哀を冷たく捉えていた。
沈黙が落ちる。
その静けさを裂くように、白依が口を開いた。
「聞かせろ」
声音は低い。命令でも脅しでもないようでいて、どちらにも聞こえる。
「御三家のこと。――それ以外にも、なにかあるなら。全部話せ」
焔羅が、卓の上で尻尾を揺らすのを止めた。ぱちり、と炎が小さく跳ねる。哀の喉が、ごくりと鳴る。
哀は一度、唇を結び――それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……はい」
返事は小さいのに、逃げない音だった。
哀は身体中の傷跡が熱を持つのを感じた。




