第6話 科学は術
白依は、少し驚いた。
見たことのない素材。見たことのない造り。
木でも土でもない、妙に滑らかな壁と、均された床。灯りの気配すら、山の闇と質が違う。
恐る恐る、戸口へ近づく。
――入る。
肩にまとわりつく血と、引き摺ってきたぼろ布の重さが、いまさら急に気になった。
廊下へ足を踏み出しかけて、白依は止まる。
床が――綺麗すぎた。
さすがに、血にまみれた足で汚すのは躊躇われる。
そんな躊躇いを自分が抱いたことに、白依自身が一瞬だけ戸惑う。
その間を、哀は見逃さなかった。
「少々、お待ちください」
哀は言い終えるより先に靴を脱ぎ、揃える。
次の瞬間には廊下へ飛び出し、ばたばたと足音を立てて走り去った。
――早い。
妙に手際がいい。
数十秒。
また、ばたばたと戻ってくる。
両手には、清潔そうな白い布が二枚。
「失礼します」
哀はそう言って、一枚を白依の肩にそっと掛けた。
血に濡れたぼろ布を慎重に剥がし取り、腕に抱える。
そしてもう一枚を持った手が、白依の足元へ伸び――
白依は咄嗟に、足を引いた。
触れられる、と思った瞬間。
胸の奥がひやりと冷え、肌が粟立つ。
両親と、じじい以外に触れられた記憶が、ほとんどない。
それとも、もっと単純に――人間への不信が、身体に染みついているのか。
哀の動きが止まった。
ぱちり、と目を瞬き、表情が一段暗くなる。
「……申し訳ありません」
声が小さくなった。
「出過ぎた真似でした」
哀は布を、両手で差し出す。
触れずに済む距離を、きっちり残して。
白依は、別に悪いことをしたとも思っていない。
拒んだのも咄嗟だ。
当然だと頭は言うのに――なぜか胸がざわめいた。
白依は顔を逸らし、言い捨てる。
「いい。さっさと拭け」
素っ気なく、突き放すみたいな言い方になった。
哀がどんな顔をするか分かってしまうのが、妙に癪だったからだ。
「……はい」
返事が、少しだけ明るくなる。
白依は顔を背けたまま、ちらりと横目で覗く。
哀は震えていた。
恐怖の名残か、興奮か、それとも両方か。
それでも布を持つ手は乱れない。
まるで精緻な硝子細工に触れるみたいに、優しく、丁寧に、白依の足を拭いていく。
血を落とすたびに、布の白が赤く染まる。
白依は、息を吐いた。
哀の「はあ、はあ」という息遣いが聞こえる気がした。
……たぶん、実際に聞こえている。
けれど白依は、聞こえないふりをした。
白依は、そのまま“風呂場”という場所へ案内された。
廊下を進むたび、足裏に伝わる感触が違う。木の軋みも、土の湿りもない。ひやりと滑らかな床が、月明かりとは別の光を反射している。
戸の前で哀が立ち止まる。
「こちらです」
哀が扉を開き――次の瞬間。
ぱちっ。
乾いた音と同時に、部屋が光った。
火でもない。月でもない。朝でもない。
白く、均一で、影だけがくっきり落ちる光。
白依は、身体が驚きのあまり硬直した。
「なっ……」
声が漏れる。
反射的に気が立ち上がりそうになり、喉の奥がきしむ。
白依は、哀を見た。
哀は不思議そうな顔でこちらへ向いているだけだった。怯えも、構えもない。まるで、当たり前のことが起きたみたいに。
「これはなんだ。何をしたんだ」
白依が問い詰めると、哀はさらに首を傾げて答える。
「えっと……電気をつけました?」
「でんき?」
聞き返す白依に、哀は「なるほど」という顔を作る。説明の形を探すように眉を寄せ、言葉を選び――結局、ひどく大雑把な答えに落とした。
「白依様。これは……科学という名の、術みたいなものでございます」
哀の声は真面目だった。
適当に誤魔化したのではない。哀自身が絞り出せる限りの、誠心誠意の説明だった。
白依は眉間に皺を寄せる。
「よく分からんが……攻撃ではないのだな」
「もちろんです!」
返事だけはやけに力強い。
白依は、部屋の中を見渡した。
謎の箱。
大きな鏡。
壁に埋まった白い器。
棚に並ぶ、瓶や筒のようなもの。
見たことのないものだらけで、目が忙しい。
どれもこれも“人の里”の匂いが濃い。しかも、昔の里ではない。もっと――尖っている。
白依が周囲を警戒するように視線を走らせていると、哀が奥の扉を開いた。
「まず、この部屋で身にまとっているものを脱ぎます」
哀は当たり前のように言い、奥へ身を引いて誘導する。
白依は一歩、踏み出す。
扉の先は、さらに珍妙だった。
知らない材質の壁。
巨大な桶――いや、浴槽と呼ぶらしいそれが鎮座している。
そして壁から生える、謎の縄のようなもの。先には銀色の頭がついている。
白依は思わず、それを指差した。
「……なんだ、それは」
「こちらは、シャワーです」
さも当然のように答えながら、哀は淡々と説明を続ける。
「入られましたら、まずこちらを捻ります」
哀が壁の突起――取っ手のようなものへ手をかけ、くい、と回す。
ご、と低い音。
次の瞬間、縄の先から勢いよく水が噴き出した。
白依の肩が跳ねる。
咄嗟に半歩下がり、赤い瞳が細くなる。
「……っ、水……!」
霊でも妖でもない。だが、勢いがある。
滝とも雨とも違う、意図された“流れ”だ。
哀は水の勢いを調整しながら、続けた。
「こうしてお湯――温かい水を出して、まず身体を流します。血や汚れを落としてから、湯船に入ります」
白依は、噴き出る水を睨んだまま、ぽつりと呟く。
「……この家は、壁から水が生えるのか」
「え、ええ……そういうものです!」
哀は嬉しそうに頷きかけて、白依の視線の圧に気づいて口をつぐむ。
そして、咳払いのように表情を整えた。
「……失礼しました。では白依様、まずは、外のものを……」
言いかけて、哀の言葉が詰まる。
白依の身体は小さい。けれど、触れられる距離に入れば、さっきのように足が引かれるのは分かっている。
哀は一瞬だけ迷い――距離を残したまま言った。
「……私、外で待ちます。お召し物はそちらのカゴに入っております。何かあれば、お呼びください」
白依は返事の代わりに、鼻で短く息を吐いた。
呼ぶ、という行為に慣れていない。
誰かに“助けろ”と言うことにも慣れていない。
それでも、哀が引くのを見て、白依は小さく頷く。
「……分かった」
哀は一礼し扉の外へ下がり、ぴたりと視線を伏せたまま閉める。
白依は一人になった浴室で、もう一度、水の流れを見た。
攻撃ではない。
害意もない。
――なら、試すだけだ。
白依は、ゆっくりと腕を伸ばし、壁の取っ手に触れた。
クイッ、と白依が取っ手を捻った。
――次の瞬間。
勢いよく噴き上がった湯が、容赦なく白依の顔面へ直撃した。
「ぎゃっ!!」
反射で声が出る。目を閉じ、鼻と口を押さえ、咳き込みそうになりながら後ずさる。
扉の向こうで、ばたばたと足音が跳ねた。
「白依様! 大丈夫ですか!」
がらり、と扉が開き、哀が飛び込んでくる――が、白依の姿を視界に入れた瞬間、はっとしたように顔を背けた。
「……っ、し、失礼……!」
白依は濡れた睫毛を払う。舌打ちを飲み込み、どうにか息を整えた。
自分でやろうとして、失敗した。
それが、妙に腹立たしい。
だが、ここで意地を張っても意味がない。
白依は諦めたように言う。
「……洗え」
あえて短い言葉だけを選んで、哀に投げた。
「はい!」
返事だけは、やけに元気だ。
哀は一度だけ扉の外へ引いた。
ぱたぱた、と慌ただしく動く気配。衣擦れの音がして――それから、もう一度、扉が開く。
哀が入ってきた。
胸から尻のあたりまでは布で隠している。けれど肩や腕、足は露わで、そこには無数の痣と傷跡があった。古いもの、新しいもの。形も色も、揃っていない。
白依は思わず息が詰まった。
“人間”の皮膚に刻まれたものを、白依は知っている。
村で。里で。恐怖と蔑みの中で。
――そして、いま自分が見下ろしているこの女の身体にも、それがある。
白依の視線に気づいたのだろう。
哀は、ほんの少しだけ俯いた。
声を落として、丁寧すぎるほどの言葉で言う。
「お目汚し……申し訳ございません」
白依は、言葉が出なかった。
謝る意味が分からない。
分からないのに、胸の奥がざわめく。
白依は目を逸らし、濡れた前髪の隙間から、ぽつりと吐くように言う。
「……謝るな」
それが命令なのか、拒絶なのか、自分でも判別できない声音だった。
哀は一瞬、息を呑む。
けれどすぐに小さく頷き、白依の方を見ないまま、手を伸ばして取っ手を捻った。
今度は湯の向きが変わり、白依の頬を叩くことなく、床へまっすぐ落ちる。
「……こちら、少しだけ温度を上げます。熱かったら、言ってください」
哀はそう言いながらも、恐る恐る湯を白依の手先へ当てる。
「湯加減、大丈夫でしょうか?」
哀の声は、慎重に形を整えたみたいに柔らかかった。
「……ん」
白依は短く返す。肯定とも否定とも取れる、最低限の音だけ。
哀は一拍だけ息を止めたように見えた。
それから、恐る恐る続ける。
「白依様……触れても、よろしいでしょうか?」
沈黙。
湯の落ちる音だけが、一定の間隔で床を叩く。
白依は濡れた睫毛の向こうで、じっと宙を見ていた。
やがて、吐き捨てるでもなく、淡々と返す。
「触れずに、どうやって洗うんだ」
それは許可というより、当然の理屈だった。
けれど哀は、その言葉を受け取った瞬間――喉の奥が震えるのが分かった。
「……ありがとうございます」
声は小さく、消えそうなほど微かだった。
どうして感謝が出たのか、哀自身にも説明できない。
ただ、許された、と思ってしまった。
白依はその理由を問わない。
問えば、何かが壊れそうな気がして――聞かなかった。
哀は指先を震わせながら、白依の肩へそっと手を置く。
熱に慣れていない肌へ、湯を滑らせるように流す。
触れる、というより――確かめるみたいに。
白依の身体が、ほんのわずかに強ばった。
けれど拒まない。
哀は息を浅くしながら、丁寧に洗いはじめた。
白依は、初めての感覚に目を瞑っていた。
頭へ湯が落ちる。指が髪を梳く。
背へ、肩へ、腕へ――柔らかい布が滑り、肌を撫でていく。
擦られているのに、痛くない。
怖いはずなのに、嫌じゃない。
そのどれもが――優しかった。
「……終わりましたよ。白依様」
哀の声に反応して、白依はゆっくり目を開く。
拭ききれていなかった血の気配が、跡形もない。
肌はすっきりと軽く、どこからか芳しい匂いが立ち上っている。草でも土でもない、知らない香りだ。
「白依様、こちらへお入りください」
哀が指したのは、横の大きな“浴槽”だった。
白依は縁へ手を置き、慎重に片足を湯へつける。
じわり。
足首から、湯が絡みつくように包んでくる。
熱いのに、刺さる熱じゃない。不思議な温度。
白依はもう片方の足も入れ、そのまま肩まで――ざぶん、と沈んだ。
湯が耳の近くで揺れ、身体の輪郭が溶けるみたいに緩む。
白依はふっと息を吐いて、浴槽の縁へ指を引っかけた。
そして、哀を見る。
「……悪くない」
短い。けれど確かに褒めた。
哀の顔が、ぱっと明るくなる。
胸の奥まで一緒に弾むみたいに、声まで上ずった。
「それは……よかったです!」
哀は浴槽の横で正座したまま、姿勢だけは崩さない。
その様子が妙に可笑しくて、白依は湯の中で首を傾げる。
「お前は入らないのか」
哀が、固まった。
「……えっ」
驚きの声が漏れる。
そして同時に、白依自身も自分の言葉に小さく動揺した。
――共有。
白依が“何か”を人間と分けた記憶は、両親だけだ。
それ以外の人間は、白依を穢れとして遠ざけた。
思い出した途端、胸の底に冷たいものが走る。
「いや、今のは――」
言いかけた白依の言葉を、哀が遮った。
「……よろしいのですか?」
身を乗り出してくる。
目が真剣で、熱がある。怖いのに、逃げない目。
その勢いに、白依は目を泳がせた。
「あ、ああ」
投げるように返した瞬間、哀は弾かれたように立ち上がった。
そこから先は――早かった。
先ほどは丁寧すぎるほど丁寧だったのに、今度は手順だけを正確に踏む。
頭、身体、洗う、流す。白依の三分の一もかからない。
そして、濡れた髪を押さえながら、哀が小さく言う。
「……し、失礼します」
恐る恐る、湯船へ入る。
湯の面が揺れ、哀の肩がびくりと跳ねた。
大きいはずの湯船なのに、白依と哀で“ちょうど”だった。
哀は白依に触れないように、端へ身体を縮こませる。膝を抱えるようにして、呼吸まで小さくしている。
白依は湯の中で、ちらりと横目で見た。
(気を遣いすぎだ)
そう思うのに、嫌じゃない。
むしろ、その不器用さが妙に胸をくすぐる。
哀が、湯気の向こうでぽつりと言った。
「……初めてかもしれません。こんなふうに、誰かとお風呂に入るのは」
声が柔らかい。
湯に溶けたみたいに、角がない。
白依は、湯の中で視線を落とし、短く返す。
「白依もだ」
言い終えたあと、湯が静かに揺れた。
それから、どれほど経ったのか。
湯の熱が肌の奥へ染み込み、呼吸まで緩んだ頃。
哀が、湯気の向こうでそっと口を開いた。
「……そろそろ、上がりましょうか」
白依は短く頷くだけで返す。
哀は先に立ち上がり、手早く桶を寄せた。
湯船から出た白依を、迷いなく布で包む。
濡れた髪を押さえ、首筋、肩、腕、背――
丁寧に、水気を吸わせるように拭いていく。
優しい。けれど、手つきはどこか必死だ。
“粗相をしてはいけない”と、自分に言い聞かせているみたいに。
拭き終えると、哀は自分の身体を――爆速で拭いた。
さっきの丁寧さが嘘みたいな速度で、布がばさばさ鳴る。
「こちら……お召し物です。私のもので恐縮ですが、今は勘弁してください」
差し出されたのは、大きめのTシャツだった。
白依はまだ身体がぽかぽかしていて、思考も湯に溶けたまま、言われるがまま頭から通した。
布が肌に落ちる。
知らない匂いが、胸元へふわりと広がった。
哀も同じようなものに着替えると、今度は畳みかけるように言う。
「次に、こちらへ」
白依は鏡の前の椅子へ座らされる。
――次の瞬間。
ゴオオオオ……!
突然の轟音と熱風に、白依の身体が跳ねた。
肩がすくみ、指先が反射で力を持つ。
「……なんだ!」
哀がびくりと震え、慌てて身を引く。
「あ、申し訳ございません! 髪を乾かそうと……! こちらも、科学なる術です! ご安心ください!」
白依は目を細め、怪訝そうに言い捨てる。
「その音、嫌だ。早く済ませろ」
「は、はい!」
哀は笑ってごまかす余裕もなく、手元の道具――“どらいやあ”を扱う。
熱風が髪を揺らすたび、白依は眉間を寄せた。
結局、白依はその間ずっと、両手で耳を塞ぎ、目を閉じていた。
音を遮るためだけの姿勢。
けれど、どこか子どもみたいで――哀は息を殺して、丁寧に髪を乾かした。
乾いた髪を櫛で梳く。
白い糸が、指の間でするりと滑る。
その穏やかな手つきのまま、哀はぽそりと話し始めた。
ただの身の上話だ。
傷跡を見ても拒絶しなかった白依に、自分のことをもう少しだけ知ってほしい。
それだけの、取るに足らない願い。
「……私、これでも……御三家と呼ばれる、陰陽師の血を引く家の分家なんですよ」
その瞬間だった。
白依の背が歪んで見えたと同時に。
ぴし――。
鏡の表面に、細い亀裂が走る。
次いで、ぱんっ! と電球が爆ぜた。
社務所の空気が、ぐらりと歪む。
床が震えた。
いや――社務所だけじゃない。
この土地全体が、底から揺れている。
そして――
ドシン、と。
外から、何か巨きなものが崩れ落ちる音がした。
振動が遅れて足元へ突き上げ、建物全体がびり、と揺れる。
哀は息を呑んだ。
(……鳥居)
封印、結界の要。
あのやけに赤い鳥居が――今、崩れた。
境内の“質”が変わるのを、肌で感じた。
縛られていた空気がほどけ、代わりに、もっと生々しい圧が流れ込んでくる。
哀の顔から血の気が引く。
喉が鳴り、息が詰まる。
(……あ、)
理解した。
何が地雷だったのかは分からない。
言葉のどこが引き金になったのかも、分からない。
けれど原因だけは、明白だった。
自分の軽はずみな一言が――
我が神を、怒らせてしまったのだと。
哀は凍りついたまま、白依の背後に立つ。
手にした櫛が、かたかたと震える。
「陰陽師……系譜か……」
冷えきった声が哀の耳から離れない。




