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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第5話 新たに

白依は、目の前の血溜まりを気にも留めず、本殿の外へ歩を進めた。


ぴちゃ、ぴちゃ。

濡れた足裏が板を踏む音。

ずる、ずる。

布を引き摺る音。


それだけが、夜の神社に生きていた。


戸をくぐった瞬間――心臓が、一つ大きく跳ねる。


じじいが最後まで選ばなかった選択を、白依は選んでしまった。

その“後悔”が、棘のように遅れて刺さる。


もう戻れない。

そういう確かな感触が手に残り、舌にはまだ、噛み砕いて吐き捨てたものの不快な味が貼りついていた。


……それでも。


絶望は、ない。


じじいの核。

散ったこと。

呪具として利用されたこと。


その事実を思い出すだけで、後悔も不快感も、簡単に別の熱へ塗り替えられた。

胸の底で、濁った炎が静かに燃え直す。


ジャリ。


左手の方から、砂利を踏みしめる音がした。


白依は、すっと視線だけをやる。


そこに――女が一人。


普通なら、足をもつれさせて逃げる。叫び、吐き、土に転がり、理性がちぎれる。

境内は噎せ返るほど血の匂いが濃く、首が転がり、上下で分かれた躯が無造作に積まれていた。

板の間から流れ落ちた赤が、砂利の隙間へ染みていく。

それでも女は、そこに“留まって”いた。


(まだ、居たのか……)


身体ごと向けた瞬間、女は膝をついた。

地面に落ち、両手を胸の前で組み、涙を流しながら――それなのに、顔は恍惚としていた。


恐怖で壊れそうなはずの顔が、月明かりに照らされ、救われたみたいに緩んでいる。


そして。


「き、きれい……」


白依の目が見開かれる。

瞳孔が、ひらく。


身体が硬直するほどの衝撃が、胸の奥を貫いた。


その言葉は――白依の人生で、ただ一人だけが言ってくれた言葉だ。

霧の中で、倒れた両親のそばで。

あの大神だけが、白依を見て言った。


『……白い。綺麗だ』


女は、自分が何を口にしたのか分かっていない。

飾ろうとした声音でもない。媚びでもない。

思ったままが、そのまま零れ落ちただけの響きだった。


白依は、理解ができなかった。


白依の足元は血で濡れ、周りには無惨な死体が転がっている。

怒り。悲しみ。恐怖。――そういう感情なら、まだ分かる。


だが、目の前の女は何だ。


攻撃してくるわけでもない。

逃げ出すわけでもない。

ただ、膝をつき、こちらを見つめている。


観察でもない。試す目でもない。


それなのに、肩が小刻みに震えていた。

恐怖は、確かにある。喉も、呼吸も、細く切れている。


それはまるで――山に迷い込んだ人間が、じじいに捧げていた“祈り”に似ていた。

畏れて、縋って、許しを乞う姿勢。

それを白依が向けられる側に立っている。


思考が追いつかない。


白依が一歩でも動けば、女は壊れそうだ。

けれど女は、壊れそうなまま、ここにいる。


その沈黙を破るように、女が口を開いた。


「か、神よ……」


声は、微かに震えていた。

泣き声になりきれない息が混じる。


「貴方様の……御名を、知りたく思います」


さらに、疑問が増える。


今まで不気味。穢れ。化け物。

そう呼ばれてきたことは数え切れない。

けれど――神と呼ばれたことは、一度もない。


白依は、血の匂いの中で唇を開く。

自分でも意外なほど、声は落ち着いていた。


「……白依は、神じゃない」


殺意も、憎悪も、さっきより薄い。

湧き上がったものを見つめ、考えた末に出た言葉だった。


すると女は、まるで灯が点いたみたいに涙は止まり、目を輝かせた。

次の瞬間、額を地へつける。土と砂利へ押しつける勢いで。


「白依様、と仰るのですね」


女の声は震えているのに、熱だけが真っ直ぐだった。

息を整える暇もなく続く。


「申し遅れました。私は黒羽哀と申します」


勢いが、異様だった。

白依は反射的に一歩引く。血の粘りが足裏に絡んで、ぴちゃ、と嫌な音がした。


「……お前は何がしたい」


白依は低く問う。

目の前の女と、転がる死体と、散った血と――全部を同じ視界に収めたまま。


「白依は神じゃない。……こいつらを殺したのだぞ」


哀は顔を上げる。


涙の跡は頬に残っている。

肩もまだ震えている。

それなのに、口元だけが――ふっと柔らかく歪んだ。


「私としては、白依様は神様です。そして……」


哀の視線が、すっと冷える。


転がる神主の亡骸へ向けられた目は、さっきの恍惚とも恐怖とも違った。


この神主の声が、蘇る。

叱責。命令。笑いながらの侮辱。

背中の痣が疼くのを、哀は笑って誤魔化していた。

だから――これは運命だと、言い切れた。


声も一段、落ちる。


「それが、この者たちの運命だったのでしょう。……因果応報というやつです」


言い切ったあと、哀の視線は白依へ戻る。

戻った瞬間、冷えは消え、また微笑みに変わっていた。


哀は、続けた。


「私は……白依様と出会うために、今日まで生きてきたのだと、産まれてきたのだと――確信しました」


理屈なんて欠片もない。

それでも「事実」だと言い切る声音だった。震えは残っているのに、言葉だけが揺らがない。


「もし、許されるなら……白依様に、お仕えしたく思います」


そう告げると、哀は再び額を地へつけた。

血と土に頭を押しつけるように。祈りというより、誓いだ。


白依は――頭が、パンク寸前だった。


突然の出来事。

初めての経験の連続。

目の前の人間は泣きながら笑い、神でもないものを神と呼び、死体の前で“因果応報”と言い切る。


理解が追いつかない。

言葉を選ぶ余裕もない。


そのとき。


本殿の方から、妙な“気配”がした。


白依ははっとそちらを向く――と同時に。


ふわっ。


何か柔らかいものが、顔面へ飛びついた。


「我も主に仕えたいです!」


鈴を振ったような声が、鼻先で弾けた。

白依は反射でそれを掴み、顔から剥がす。


掌に収まったそれは――小さな獣。


「……」


白依の赤い瞳が、わずかに細まる。


狛犬。焔羅。


さっき、自分の歯で噛み砕いたはずの式神。

床に吐き出して、白い霧と一緒に消えていくのを見たはずの残り滓。


――なのに、いる。


ただし、違う。

(“芯”だけ辛うじて残ったか……)


毛皮は黒ではない。月明かりを吸ったみたいに白い。

そして纏う炎は、黒い焔ではなく――青紫。夜の底で揺れる鬼火みたいな色で、静かに燃えていた。


焔羅は白依の手の中で尻尾を振り、堂々と胸を張る。


「主。……我、もう噛みましぇん。噛みました!」


白依は、言葉を失ったまま、哀と焔羅を交互に見た。


「主は神の核……? を探してるんですよね! お手伝いします!」


焔羅が、場違いなくらい元気な声で言った。

青紫の炎が、ぱちり、と小さく跳ねる。


「わ、私も……! 力になれるか分かりませんが、お手伝いしたいです!」


焔羅に触発されたように、哀が声を張り上げる。

膝はまだ土に触れているのに、背だけが起きた。黒い瞳の奥に、熱が宿る。


焔羅が哀を見て、む、と鼻を鳴らした。


「主に仕えるのは我が先です!」


「は、はあ!? 先とか後とかじゃなくて……!」


二人が、見えない火花を散らして睨み合う。

血の匂いの濃い境内に、不釣り合いな温度が生まれかけた。


――だが、神の核と聞き白依は思考を戻しぽつりと言った。


「……お前たち」


それだけで空気が変わる。


哀は、はっと息を詰め、その場で身動きを止めた。

焔羅も、白依の掌の中でぴたりと静まり、顔を伏せる。炎がすっと小さくなり、喉の奥で息を飲む気配だけが残った。


白依は二人を見ず、どこか遠いところを見るように目を伏せた。


「白依は……穢れと呼ばれた」


声が、掠れる。

自分の名を口にするだけで、胸の奥が痛む。


「呪いみたいに、周りを巻き込んでしまう」


両親の顔。雪。松明。怒声。

霧の中の手。淡い水色の瞳。

思い出すたびに、喉の奥が焼ける。


「それで……両親も、じじいも……」


言葉の先が詰まった。

白依の表情が悲痛に歪み、目の奥が熱くなる。こぼれる前に堪えようとして、唇が震えた。


その瞬間。


「「それでも」」


哀と焔羅の声が、重なった。


哀は土に額をつけたまま、震える息で言う。


「それでも、私は……白依様に救われた。それに報いるためにも傍にいたい」


焔羅も、掌の中で顔を上げずに、低く――けれど真っ直ぐに鳴いた。


「我も主に救われました!主のあるとこに我あり!です!」


血と夜の匂いの中で、二つの声だけがまっすぐ残る。

白依の胸の奥で、冷えて固まっていた何かが、ひび割れるように軋んだ。


「人間も妖も――白依は、信用できない」


白依の声は静かだった。

怒鳴っているわけでも、責めているわけでもない。

ただ、言い切っていた。積もりに積もった事実を、淡々と並べるみたいに。


哀の肩が、びくりと跳ねた。

焔羅も掌の中で耳を伏せ、炎が一瞬だけ小さく揺れる。


――事実だった。


人間には大切なものを尽く奪われ、壊された。

妖は常に白依の器を求め、甘い声で唆し、隙あらば入り込もうとしてきた。


だからこそ、白依の中にはずっと「殺す」があった。

守るための刃。奪われないための刃。

迷いの天秤が揺れるたび、何度も持ち上がってきた刃。


けれど今――


白依の胸の奥で、その刃がすっと沈んでいくのが分かった。

消えたわけじゃない。ただ、いま振るう相手ではないと、身体が決めてしまった。


白依は息を吸い、二人を見下ろす。


「お前たちは――ただ、白依の言うことに従え」


それは命令だった。

けれど、命令の形をした“選択”でもあった。


「従っているうちは、傍に居てもいい」


哀の喉が小さく鳴った。

焔羅は、掌の中でじっと息を潜める。

二人とも、次の言葉が来るのを知っている顔をしていた。


白依は、そこで言葉を切った。


沈黙の一拍。


その一拍の間に、空気が落ちる。

血の匂いがいっそう濃く感じられるほど、境内が静まり返る。


白依は、圧を放った。


見えない重みが、哀の背を押さえつけ、焔羅の炎を内側へ押し込める。

抗えない。逃げられない。

それは“威嚇”ではなく――境界線だった。


「でも……」


哀の指先が、土を掻いた。

焔羅の喉が、低く震える。


白依の赤い瞳が、二人を貫く。


「白依の邪魔をしたら……殺す」


言い切った瞬間、白依の胸の奥がひりついた。

脅しの言葉の形を借りて、白依は自分自身に釘を打つ。


――ここから先は、戻らない。

――揺れるな。迷うな。折れるな。


哀は、息を呑んだまま顔を上げられない。

けれど、その震えの中に――逃げの気配はなかった。


焔羅もまた、掌の中で小さく身を縮めながら、炎を消さずに耐えている。


白依はそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。


信用はできない。

けれど今だけは――傍に置くと決めた。


白依が放っていた圧を、すっと引いた。


張り詰めていた空気がほどけ、境内の夜が戻ってくる。

血の匂いは消えない。それでも、息が通るようになった。


哀の肩から力が抜ける。

焔羅も掌の中で小さく息を吐き、伏せていた耳をわずかに起こした。


白依は一度だけ、深く息をつく。


その隙を待っていたかのように、哀が口を開いた。


「白依様。……今は、とりあえず身を清めませんか」


早速、勝手な提案だった。

命令される側のくせに、緊張しながらも言い方だけは妙に真っ直ぐで。


白依は返事をしない。

ただ、ゆっくりと自分の身体へ視線を落とした。


ぼろ布が肌に貼りつき、血で濡れた裾が足首を重く引く。

指先から肘まで、乾きかけた赤黒いものが斑にこびりついている。

足元は血溜まりで、踏み出すたびにぴちゃり、と嫌な音がした。


白依は目を伏せ、短く鼻で息を吐いた。


「……分かった」


少し不貞腐れ気味にそれだけ言って、視線を上げる。


哀の表情が、緊張から嬉しそうな色へ変わっていく。

その切り替わりの速さが、白依の神経を逆撫でした。


眉が、わずかに寄る。


「……」


言葉にはしない。けれど、胸の奥で小さく苛つきが跳ねた。


「主ー」


掌の中から、少し弱々しくなった焔羅の声がする。


白依は視線を落としもせず、冷たく返した。


「お前はなんだ」


「ここって、居心地悪くないですか? 身が削がれていくというか……」


白依にも、言いたいことは分かる。

この場の空気は、肌にまとわりつき、縛られているような。呼吸をするたび、器の内側が擦られるような感触がある。


「……あれのせいだろうな」


白依はそう言って、正面の鳥居へ目をやった。

やけに赤い鳥居。結界の要。境内全体の“質”を固定している楔。


「てか、お前は普通に動けていただろ」


戦闘の記憶がよぎり、白依は焔羅へ問う。


焔羅は一瞬、言いよどんだ。


「あの時は……神主の式神として存在していたので……」


声が沈む。

掌の上の白い毛が、ひと撫でされたみたいに伏せた。


白依は、鼻で息を吐く。


「そうか。なら今は――白依の中にでも入ってろ。なにかしたら、今度こそ砕く」


「はいぃー……」


分かっているのかいないのか、気の抜けた返事だけ残して。

焔羅はふわりと掌からほどけ、白依の中へ沈んでいった。


白依は一拍置く。


「それで」


視線を向ける先。

未だ膝をついたままの哀。


「どうするのだ」


哀は背筋を伸ばし、はきはきと答えた。


「はい。奥の社務所にて、白依様を清めさせて頂きます」


「わか――」


白依は言いかけて、口を止めた。

その言い回しが引っかかる。


「……させて頂きます?」


聞き返すと、哀の目がさらにきらりと光る。


「はい! 是非、私の手でやらせてください!」


白依は間髪入れず、切り捨てた。


「いらん」


即答だった。


哀の顔が、分かりやすくしゅん、と沈む。

それでも落ち込むだけで、折れないのがまた厄介だ。


白依は踵を返した。

(なにがこいつをそこまでさせるのか……)


「案内しろ」


哀は一瞬だけ息を飲み――すぐに頷く。


「……はい、白依様」


膝をついた土を払う暇もなく、哀は立ち上がり、奥の社務所へ向けて先を歩き出した。


――――――――


この日――新たな“神”と呼ばれるものが、現代に生まれ落ちた。


それは祝詞で名付けられたものではない。

祀られて形を与えられたものでもない。


ただ、血の匂いが残る社で、ひとつの器が「もう戻らない」と決めた瞬間。

その決意が、神域の皮膚を内側から破り、世界へ滲み出た。


山が震えた。


風が一度、逆巻いた。

鳥居の結界が、見えない糸を張り替えられたように軋み、霊脈が“今までとは違う流れ”を作り始める。


――気づかないはずがない。


人の世に隠れて生きる“もの”は、匂いで知る。

術を継ぐ家は、波で知る。

そして、祈りを食う存在は、飢えで知る。


遠い土地の古い社で、灯が勝手に揺れた。

封じられた札が、誰にも触れられていないのにひび割れた。

眠っていた呪具が、箱の中で小さく鳴った。

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