第4話 千年越しの
袴姿の男が四人、階段を駆け上がってきた。
草履が階段を叩く音が重なり、呼吸が荒い。闇を切り裂くように本殿前へ雪崩れ込む。
その後ろ――足音の“質”が違う。
ゆったりと、遅れて姿を現した男がいた。
狩衣を纏い、後ろで手を組み、歩みも乱れない。まるでこの場の緊急事態が、自分には関係ないと言わんばかりの余裕。
神主だった。
男たちは床に伏す死体を見て、息を呑んだ。驚きの声が漏れ、視線が一斉に白依へ集まる。
だが驚愕は一瞬で、すぐに武器へ手が伸びた。
尻もちをついていた男にも槍を渡し五人が半円を描くように散り、白依を囲む。
――一方で。
神主は、死体を見ても眉ひとつ動かさなかった。
目線すらほとんど落とさない。死体は、床の汚れと同じ扱いだ。
明らかに、他の者とは一線を画していた。
神主が、口を開く。
「……まさか、ここの封印が解けるとはな」
言いながら、白依の背後――破壊された箱を見た。
そこに何が入っていたのかを、確かめるように。
「まあ、千年前の封印だ。いつ解けても、おかしくはなかったか」
その言葉に、白依は耳を疑った。
(……千年)
胸の奥で、何かがきしむ。
熱が、燃え上がる前に冷たい指で押さえつけられたように揺れた。
(じゃあ――あの陰陽師たちは、もう……)
再び灯ったはずの憎悪の炎が、掻き消えそうになる。
振り下ろす相手のない刃。行き場のない怒り。
神主は続ける。唇が、楽しげに歪む。
「だが……まさか、こんな子どもが封印されていたとはな」
狩衣の陰で、目が細まる。
「……楽しめそうだ」
その下卑た瞳が、白依を刺した。
舐め回すような視線。値踏みする目。欲の匂い。
その瞬間、白依は悟った。
「……そうか」
声が低く落ちる。
白依の赤い瞳が、神主の奥を見抜くように細くなる。
「お前たちも――同じだな。あいつらと」
「……なに?」
神主の眉が、わずかに上がった。初めて感情が表へ出る。
白依は、ゆっくりと言葉を拾い集める。
熱が消える前に、別の形へ組み直す。
「あいつらを、この手で殺したかった」
喉の奥で、憎悪が音を立てる。
「でも……もう、いない」
五人の男が、困惑した顔をする。
何を言っているのか分からない、という表情。互いに視線を交わし、神主の反応を伺う。
白依は、その困惑を見たまま続けた。
「――でも」
赤い瞳が、神主へ戻る。
「あいつらも、お前たちも、同じなら」
白依の声が、静かに冷える。
「……まだ、やれることはありそうだ」
「さっきから何をブツブツ言っている!」
神主の声に、怒気が混じった。
余裕が崩れ、苛立ちが顔を出す。
白依は、笑わなかった。
ただ――答えを落とす。
「……鏖殺だ」
その低く小さな声と同時に、気が爆ぜた。
ばきん、と空気が割れる感覚。
床板が鳴り、五人の男の足が一瞬止まる。身体が反射で退こうとする。呼吸が詰まる。
神主が、苛立ちを怒声へ変えた。
「舐めるな! 行け!」
命令が飛ぶ。
五人の袴姿が、一斉に踏み込んだ。
刀、槍、鎖鎌、薙刀、護符。それぞれの武器が妙な嫌悪を起こさせる。刃と札が白依へ向かって振り下ろされる――。
白依に、もう歯止めはなかった。
一歩。
それは――あの日、じじいが陰陽師へ向けて踏み出した“それ”と酷似していた。
ためらいも、助走もない。ただ踏む。踏んだ瞬間に場の理がずれる。
バキ。
床板が悲鳴を上げる。
抜け落ちない、ぎりぎりのところで耐え――その軋みが、白依の足裏から部屋の隅々まで走った。
同時に。
白依の右手にあった槍が、身体の捻りに引かれて横へ走る。
左から右へ。水平。力の限り。
槍がしなり、風が裂ける音すら遅れて聞こえた。
刹那。
――当たった。
いや、“当たった”では足りない。
槍全体が肉を分け、骨を割り、抵抗を置き去りにして通り抜けていく感触が、はっきりと手に伝わる。
ひとり。
続けざまに、ふたり。
三人目の重みが、ほんのわずか槍を鈍らせる。
それでも止まらない。止めない。止まれない。
白依は思った。
もし初めての殺しが、いきなりこれだったなら――自分は耐えられなかったかもしれない、と。
だが。
先の殺しを経て、白依の内側にはすでに“芽吹いた”感情があった。
熱いのに冷たい。荒れているのに澄んでいる。
憎悪という名の芯が、世界を単純に切り分けてしまう。
だから白依は、何も思わなかった。
ただ、振り抜いた。
四人目が“途中”で分かれ、五人目を薙いだ瞬間――
ぱきり、と乾いた音。
槍が、持ち手の先から砕けた。
槍が耐えられなかった。白依の力が、武器の許容量を越えた。
どさっ、どさっ。
びしゃっ、しゃっ――。
真っ二つになった死体が転がり、血が弧を描く。
白依の身体に、壁へ、床へ、柱へ。部屋の中は赤が散り、温度のある匂いが一気に広がった。
五人の袴姿の男は、もう形を保っていない。
切断面から煙のように湯気が立ち、床板が赤黒く濡れていく。
静寂。
血が落ちる音だけが、やけに大きい。
――さすがの神主も、動けなかった。
何が起きたのか、理解できない顔をしていた。
驚愕ではない。恐怖でもない。
“計算が外れた”者の、呆然だ。
白依は折れた槍の柄を、無造作に落とした。
こつ、と木片が床に当たり、転がる。
赤い瞳が、ゆっくり神主へ向く。
次は、お前だと告げるように。
音――血が滴る音と、折れた槍柄が転がった乾いた響き。
そして視線――赤い瞳が、逃げ場のない角度で刺してくる。
それだけで神主は正気に引き戻された。
(なんなんだ、こいつは……)
喉の奥がひゅ、と鳴る。
冷や汗が背を伝い、指先がわずかに震えた。
(文献には“ただの童”と記されていたではないか。封じるべきは穢れの器、依代の――)
違う。
目の前にいるのは、そんな紙の上の分類に収まるものではない。
(こんなの、まるで……)
言葉になる前に、白依の声が思考を叩き折った。
「じじいの核は、どうした」
鈴の音みたいに澄んでいるのに、底が冷たい。
神主は反射で声を荒げる。
「なんのことだ!」
「本当に知らないのか」
白依が目を細める。睨むというより、値踏みだ。
神主の内臓がきゅっと縮んだ。
白依は小さく首を傾げ、ぼそりと呟く。
「ああ……じじいじゃ伝わらないのか。なんだっけ」
まるで、忘れかけた団子の名でも探すみたいに。
その軽さが、逆に不気味だった。
白依の赤い瞳が、一度だけ宙を見て――言う。
「たしか……國陰坐鎮御霊大神、だったか」
神主の顔から血の気が引いた。
目が見開かれ、口が半開きのまま固まる。
「な、なぜ……その名を、お前が知っている」
白依は、その反応を怪訝そうに眺めた。
「それが白依のじじいだ」
当たり前のことを言う口調。
だが、その当たり前が、この場の常識を粉々にする。
「それで。核はどうした」
神主は唾を飲み込み、喉を鳴らした。
言えば殺される。言わなければ、もっと早く殺される。
「……知らん」
その一言で、空気が一段落ちた。
白依の気が、じわりと増す。目に見えない圧が床を撫で、血の匂いが濃くなる気がした。
神主は慌てて言葉を継ぐ。
弁明ではない。生存のための吐露だ。
「いや、待て……! 文献には、だ。文献には――」
息を荒らげ、早口になる。
「核は各地に散り、手に入った核は呪具に利用した、とあるだけだ。
どこへ散ったのかも分からんし、記されていない。
その呪具が実在するのか……現存しているのかさえ、私は知らん!」
言い切った瞬間、神主の肩が上下した。
必死に、呼吸だけで生き延びようとしている。
白依の赤い瞳は、瞬きもせず神主を捉えたまま。
その“知らない”が嘘か真か――次に選ぶ言葉次第で、神主の首の運命が決まる空気だった。
「ほ、ほかに聞きたいことは――ないか!」
神主は怒声で押し切るように叫ぶと、背中で組んでいた手をほどいた。
そして懐から、一枚の紙を突き出す。
人の形を象った、薄い紙片。
形代――身代わりの器。
次の瞬間。
紙が、ふっと“裏返った”ように見えた。
墨が滲むのではない。紙そのものの白が、闇へ沈む。
神主が形代へ息を吹きかけた――そう見えた刹那、紙面から黒い霧が噴き出した。
ぶわ、と。
湿った煤の匂いが一気に広がり、月明かりが飲まれていく。
白依は反射で後退した。
床板を踏む音が、やけに遠く聞こえる。
「……っ」
霧は、ただの煙ではなかった。
肌に触れる前から、内側へまとわりつく。
依代の器を“居場所”として嗅ぎつけてくる類の――粘ついた執着。
その向こうで、神主の笑いが弾けた。
「あははははは!」
下卑た響きが、黒い霧を揺らす。
「念の為、準備しといて正解だったわ! 核がどうとか知らんでも――お前を“使える”ならそれでええ!」
霧が、渦を巻いた。
散っていた黒が一点へ吸い寄せられ、絡まり、縒られていく。
最初に浮かぶのは、輪郭だ。
次に、四肢。
そして――牙の形。
闇が、獣の骨格を覚えていくように、徐々に“形”を得ていく。
黒い炎を纏う、犬。
いや、犬というには禍々しすぎた。
毛並みは炎そのもので、燃えているのに光がない。
鼻先から漏れる息は煙となり、地面へ落ちた瞬間、じゅ、と土を焼いた。
黒犬が完成した途端、空気が低く唸った。
喉がなくても、腹の底から響くような“圧”だけが鳴る。
「見ろ! こいつが我が式神――狛犬・焔羅だ!」
神主は胸を張った。
勝ちを確信した声だった。喉の奥まで笑いが混じり、言葉の端が浮ついている。
「お前が殺した男どもは所詮、伍災位。だが焔羅は――参災位!」
“参災位”という響きをわざと噛みしめるように言い、神主はさらに声を張り上げた。
「伍災位を蹴散らした程度で、調子に乗るな!」
白依は答えない。
黒い炎を纏う狛犬――焔羅だけを見ていた。
燃えているのに光がなく、熱いのに空気が冷える。
式神というより、呪いを犬の形に押し固めたものだ。
焔羅が前脚を一歩、踏み出した。
床がじゅ、と焼け、焦げが蜘蛛の巣のように広がる。
神主が、形代を突き出したまま吠える。
「行け!」
命令が落ちた瞬間。
焔羅の黒炎が、爆ぜた。
跳ぶ――いや、滑る。
床を蹴る動きが見えないのに、獣の影だけが一息で距離を潰す。
炎が尾を引き、黒い火の粉が雨のように落ちる。
白依の頬を、熱ではなく“嫌悪”が掠めた。
(……狛犬?)
守る神の獣を名乗りながら、その在り方は侵す側だ。
神主の欲が、犬の顎を借りて牙を剥いているだけ。
焔羅の口が裂ける。
黒い炎の奥で、歯列が白く――獣の形をした刃が覗いた。
次の瞬間、咆哮が来る。
声ではない。腹の底へ直接叩きつけてくる振動。
床板がびりびりと震え、血の匂いが揺れた。
白依は一歩も退かなかった。
ただ、息を吸う。
胸の奥で、線を引く。
呼び水を落とす。
呑み口を開く。
――じじいの声が、骨の奥で鳴った気がした。
そして、焔羅の黒炎が、白依の目前で牙となって落ちてくる。
白依は、ゆっくりと手をかざした。
焔羅が跳びかかる、その“黒炎の中心”へ。
触れた瞬間――熱でも痛みでもなく、濡れた煤のような嫌悪が指先へまとわりつく。
次の刹那。
焔羅は、掻き消えた。
いや――白依の中へ、入った。
神主の目から見れば、焔羅が空中で霧散したように見えただろう。
命令も、刃も、咆哮も。全部が唐突に途切れて。
神主は言葉を失い、口を半開きにして立ち尽くした。
勝ちを確信していた顔が、そのまま“分からない”に塗り潰されていく。
だが白依の内側では――違う。
焔羅の“声”が、木霊していた。
(噛み砕く)
(切り裂く)
(殺す)
黒い怨嗟が、耳ではなく胸郭の裏側へ響く。
牙の欲が、骨を舐めるように蠢く。
その中で。
白依は、ひとつだけ聞き逃さなかった。
(……たすけて)
掠れた、ほとんど消えかけの震え。
火種が息をする最後の瞬間みたいに、弱々しく――それでも確かに“助け”を求めていた。
白依は、じじいとの修行を思い出す。
招くな、呼べ。
許すな、契れ。
飲まれるな、呑め。
(……呼べ。契れ。呑め)
白依は、内側へ意識を落とす。
入ってきた焔羅の輪郭を掴む。黒炎のかたち、牙の向き、怨嗟の継ぎ目。
それを“式”として数え直し、崩れた境界を結び直す。
――主導権を、奪う。
黒い狛犬は暴れた。
殺せ、裂け、と吠えた。
だが白依の中の線引きが、ぴたりと止める。
そして白依は、焔羅へ――心の中でだけ囁いた。
(ごめんね)
助けられない。
戻してやれない。
できるのは、終わらせてやることだけだ。
白依は焔羅を、縮める。
黒炎の毛並みを剥いで、牙を折り、怨嗟の束を丸め――
小さな球体へ。
喉の奥へ運ぶ感覚がある。
口に上がってくるのは、焦げと鉄と、長い憎しみの味。
そして。
ガリ。
奥歯で噛み砕く。
硬い。
“命令”と“呪い”が、歯の間で潰れていく。
白依は、吐き出した。
「ぺっ」
吐き出しても、焦げた鉄のような味だけが舌に残った。
床へ落ちたそれは、黒ではなかった。
白い霧を、ふわりと上げながら――消えようとしている。
焔羅の名残は、炎の熱ではなく、怨嗟がほどけた色にも見えた。
神主が、恐る恐る口を開く。
「……お前、なにをしたんだ……」
白依は、床の白い霧から目を離さず、静かに返した。
「お前こそ――この狛犬に、何をした」
神主の喉が詰まる。
言い訳の言葉が形にならず、口の中で転がるだけだ。
白依は、もう聞かなかった。
聞く必要もない。聞きたくもない。
白依は顔を上げ、神主を見た。
「もう、終わらせよう」
声は鈴のように澄んでいるのに、底が冷たい。
指先へ、気を集める。
細く、鋭く――刃の形に。
空気が裂ける寸前の静けさが、室内へ落ちた。
白依は、その指を神主へ向ける。
神主は口をぱくぱくと動かした。
命乞いか、呪詛か、命令か。
どれでも同じだ。
白依の耳には、入らない。
神主が外へ逃げようと、背を向けた――その瞬間。
「風斬」
目に見えない刃が、走った。
音は遅れて来る。
肉が裂け、骨が断たれる鈍い響き。
神主の頭が、ころりと宙へ浮き、参道の方へ――飛んでいった。
室内から音が消えた。
転がった死体も、割れた床板も、剥がれた札も――何ひとつ喋らない。
ただ、咽せかえるほど濃密な血の匂いだけが、消えずに残っていた。




