第2話 また
大神は白穢を「白依」と呼んだ。
白い依代。白い百合のように、折れそうで折れない。
白穢はその音を覚え、やがて自分をそう呼ぶようになった。
そして大神は、白依にとって「じじい」になった。
最初は見た目そのままの呼び名だった。皺だらけで、背が低くて、いつも面倒くさそうにしている。だから、じじい。
白依は焚き火の前で大神に話しかける。
「ねえ、じじい」
じじいは枝を火へ放り込み、ぱちりと跳ねた火の粉を眺めたまま、鼻で笑った。
「……誰がじじいじゃ。儂これでも一応、神じゃぞ」
「うそ。神はもっと、こう……すごい感じ」
「すごい感じって何じゃ。雑じゃなあ」
じじいは言いながらも、白依の頭を指の背で軽く小突く。
痛くない。むしろ、それが妙に落ち着く。
「じゃあ、なんて呼べばいい」
「大神様、とか」
「無理。舌がつかれる」
「失礼なやつじゃ」
「じじいの方が、いい」
白依がそう言うと、じじいは一瞬だけ黙った。
それから、面倒くさそうに息を吐いて、焚き火の向こう側へ視線をやった。
「……勝手にせぇ」
許した声だった。
それから「じじい」は、白依にとって世界でいちばん安心できる言葉になった。
呼べば、返ってくる。叱られても、突き放されても、最後に戻ってくる場所の名。
神の山は、人の里と違っていた。
春は花より先に匂いが来て、白依の鼻先だけをくすぐった。
夏は雷が空からではなく地面を這い、遠くで鳴る音が足裏へ先に届いた。
秋は木々が色づく前に霧が色を変え、朝は青く、夕は紫に滲んだ。
冬は雪が降るより先に音が消え、風の擦れる気配だけが残った。
白依は山を走り回った。
今まで白依の世界は、家の中だけだった反動だ。霧の向こうを覗き、夜に揺れる影へ話しかけ、木の根元で眠って怒られた。
「こら、そこで寝るな。湿る」
「だって、あったかい」
「それは根が熱いんじゃ。甘えるな」
「……じじいの背の方があったかい」
そう言うとじじいは、鼻で笑って背を向けた。
けれど次の日、白依が同じ木の根に座ろうとすると、いつのまにかそこだけ乾いた葉が敷かれていた。
白依は普通に笑い、普通に泣いた。
泣く理由は、自分でもよく分からないことが多い。
ただ、村で「穢れ」と呼ばれた名前が、山では呼ばれない。それだけで胸が軽くなる日もあれば、逆に、軽くなった分だけ、空っぽが怖くなる日もあった。
じじいは、そんな白依を「面倒くさい」と言いながら、いつも同じ距離にいてくれた。
――だが、十を数える頃。
白依は気づいた。
自分だけ、止まっている。
いつまでも、同じ小袖の袖口が余ったままだった。
身長も、骨も伸びない。白い髪だけが延び、背中へ落ちていくのに、身体は幼いまま。
白依は焚き火のそばで袖口を掴み、じじいを睨んだ。
「じじい。白依いつになったら大きくなるの」
「ならん」
「……は?」
「ならんと言うとる」
あまりにもあっさり言われて、白依は火の粉より熱いものが胸に上がった。
「なんで」
「この山は妙な場所じゃ。そして白依は妙な体質。妙と妙が重なりゃ、そうなることもある」
じじいは空を仰いで言う。
説明になっていない、と白依は思う。
けれど、じじいはいつもこうだ。
白依は袖を握りしめた。
「……白依、ずっと子どものまま?」
「そうかもしれん」
「やだ」
「やだ言うだけで変わるなら、世の中楽じゃな」
じじいは火へ枝を投げた。ぱちり、と音が跳ねる。
「知りたいなら、まず己を知れ。お前は依代じゃ」
白依の胸が、ひやりとした。
依代。
それは、この山で何度も起こっている“現象”に、名前が付いた音だった。
霧の濃い朝、白依が走ると、風が追い越して髪を揺らす。
水辺で転べば、冷たい刃のような水の妖が指先から滲む。
獣の足跡を追えば、脚が軽くなって跳べるようになる。
最初は偶然だった。
次に、気づいた。
――自分の中へ、何かが入ってくる。
「勝手に入る」
白依が言うと、じじいは面倒そうに頬を掻いた。
「お前は器じゃ。呼んどらんでも寄ってくる」
「嫌だ」
「嫌なら“線”を引け」
「線?」
「ここから先は入るな、いう境目じゃ。曖昧にしとるから、好き放題される」
白依は、言われた通りに息を整えた。
胸の内側へ意識を沈める。
入ってくるものの気配が分かる。分かるから、怖い。
その日、白依は初めて“失敗”をした。
夕方、霧の濃い谷で、白依の胸へ獣の霊が滑り込んだ。
脚に力が入る。背骨が熱くなる。匂いが鮮明になる。
楽しい。
だから――深く、呼んでしまった。
瞬間、視界が細くなった。
自分の輪郭が薄くなる。名前が遠い。じじいの声も遠い。
代わりに、喉の奥で「走れ」と囁く甘い声が増える。
白依は足を踏み出し、止まれなくなった。
「白依!」
じじいの声が割り込む。
白依は振り返れない。
走りたい。走りたい。山を翔けたい。獲物を――
そのとき、胸の奥へ落ちてきたのは、冷たい“重さ”だった。
「坐せ」
じじいの言霊だ。
ただ一語で、白依の内側の獣が膝を折った。
白依はその場へ崩れ、土に手をついた。
息が荒い。指先が震える。
「……なに、いまの」
「呑まれかけたんじゃ」
じじいは白依の額を指で弾く。
「言ったじゃろ。甘い声ほど危ない。強い霊ほど、優しくする」
「だって、楽しくなって」
「楽しいの先に、戻れんが来る」
白依は唇を噛んだ。
悔しい。怖い。
でも――悔しいのは、生きている証拠だとも思った。
その夜、じじいは白依へ言った。
「修行じゃ」
「やだ」
「やれ」
「……」
「お前の器は、放っといたら山ごと呑みかねん。嫌なら扱え」
白依は焚き火の前で膝を抱えた。
そして、じじいが低い声で教えた言葉を、何度も繰り返した。
「招くな、呼べ。許すな、契れ。飲まれるな、呑め」
白依は覚えた。
失敗で学び、痛みで覚えた。
“呼ぶ”ときは、ただ寄せるんじゃない。
名を与えて、形を決めて、境界を引いて、契約にする。
白依は自分の中へ線を引く術を「線引」と呼んだ。
胸の奥で指をなぞるように境を作り、入ってきたものを、勝手に居座らせない。
霊を呼ぶ手順を「呼水」と呼んだ。
呼ぶ前に、必ず“戻る場所”を確保する。じじいの声を思い出す。自分の名前を思い出す。
そして、入ったものを扱いきる最後を「呑口」と呼んだ。
飲み込むのではなく、飲み込める形にする。
主導権を奪う。
器の主は、自分だ。
それでも時々、甘い囁きが来る。
そのたび、白依の心の輪郭は薄くなりかける。
だから、じじいはいつも同じ言葉で戻した。
「白依。名前を忘れるな」
白依は、じじいの声に支えられて折れなかった。
――そんなある日。
山に、人が来ることがあった。
じじいに会いに来る人。
人ならざるもの。
けれど彼らが結界を越えて近づくと、じじいは必ず白依を木陰へ押しやった。
「隠密の練習じゃ」
「なんで」
「今は隠れろ」
「いつになったらいい」
「いつかじゃ」
白依はむくれて、奥の木へ登り身を潜める。
木々の間から覗く。
人間は、様々な表情で祈っていた。怖い顔、畏れてる顔、安堵の顔。そして、欲深な顔。
じじいはそれを全部受け止めていた。
それでも白依は、時々、じじいの背中が少しだけ寂しそうに見える瞬間を知った。
じじいはたまに、山の外の話をしてくれた。
「団子いうのがある。甘い」
「白依も食べる」
「そのうちな」
「そのうちじゃなくて今」
「今は山の外は面倒じゃ」
じじいはそう言いながら、珍しく笑った。
『いつか白依にも見せてやる』
その言葉が、一度だけあった。
白依はその一度を、何度も反芻した。
反芻するほど、いつかが遠くなる気がして、怖かったのに。
あの日、父が震えた声で言った“いつか”のように。
そんな日々は、いつまでも続くと思っていた。
続くはずだった。
⸻
数十年が経ったある日。
いつものように白依が「線引」の稽古をしていたとき、山の匂いが変わった。
甘い霧が、苦くなる。
地脈が、ざわりと身をよじる。
風が、流れを変える。
――人が入ってきた。
足音ではない。
空気の歪みとして伝わる。
“山に合わない匂い”が、結界の縁を擦っている。
白依の胸の奥が冷えた。
「……嫌な匂い」
言うと、じじいがゆっくり立った。
「来たか。京の連中じゃろう」
「いつもの迷い人?」
「違う。迷って来た者の足じゃない。目的がある足じゃ」
白依の中がざわめく。あの日、村で感じた悪意。
呼べばいい。いつも通りに。
――そう思って一歩踏み出した瞬間。
「出るな」
じじいの声は低い。
命令だ。
「使うな」
白依は言葉を失った。
(どうして)
「白依が出る必要はない。これは儂と人の問題や」
じじいは振り返らずに続けた。
「……それに白依。お前が今呼べば、戻れなくなる」
白依は歯を噛んだ。
納得できない。
でも、じじいの声には焦りが混じっている。
焦りを見せないじじいが、見せている。
霧の向こうから、七人、陰陽師の一団が現れた。
装束は整い、札は新しい。
術具の紐の結び目に迷いがない。
歩みが、揃っている。
じじいが前へ出る。
その背は小さいのに、山の影を背負っている。
「――ここは、人の踏み入る場所ではない」
じじいの声は威圧ではない。
ただ事実を告げるだけの声。
陰陽師たちは一瞬、止まった。
だが空気の奥には、すでに決断がある。
「承知している」
先頭の男が言う。
「だからこそ来た。國陰の神よ」
名を呼ばれた瞬間、山が微かに軋んだ。
じじいの眉が、ほんのわずかに動く。
「……帰れ」
それが最後の譲歩だった。
じじいは共存を選んできた神だ。
山を削ることも、里を作ることも、境を越えることも――度を越さぬ限り、許してきた。
男が薄く笑う。
「譲りを乞いに来たのではない。“核”を頂くために参った」
その言葉は乾いていた。
山の冷えよりも、人の欲の方が冷たい。
白依の胸の奥が沈む。
核――じじいの中心。山と結びついた在り方の要。
男の視線が、一瞬だけ白依へ滑った。
興味でも恐れでもない。
道端の石を見るような確認。
じじいが低く問う。
「……お前たち、誰から聞いた」
男は答えない。
答える必要がない、という態度で手を上げる。
その背後で、別の陰陽師が囁く。
「山に不気味な“白い子”がいると噂にあったが、本当に……」
白依の背筋が凍った。
――隠密の練習。
隠れさせられていた時間。
迷い人の視線。
噂が、点と点で繋がる。
じじいは深く息を吐いた。
怒りではなく、諦めに似た溜息。
「帰れ。山は奪うためにあるものではない」
「奪うのではない」
男が淡々と返す。
「“移す”だけだ」
言い終えた瞬間、空気が変わった。
先頭の男が、低く言い放つ。
「――測れ。隠れを許すな」
その言葉に反応して、札の文字が勝手に滲んだ。
霧が一拍遅れて引き、白依の皮膚だけが薄く粟立つ。
陰陽師たちが札を掲げる。声は揃っていないのに、意味だけが揃う。
「測氣陣」
札が宙を舞い、白依の足元へ落ちる。
白依の周囲だけ、空間の“質”が変わる。
音が遠のき、息が重くなり、影が足元に縫い止められる。
同時に、式神が出た。
暗い霧のようなものが獣の形を取り、霧の中を滑る。数が増え、輪になって白依の外周をなぞる。
霧がそこを避ける。
地脈が歪む。
山が嫌がる。
――白依を測る。縛る。そのための陣。
白依の内側がざわめき始めた。
呼べば壊せる。
いつも通りに――
白依が踏み出しかけた瞬間。
「出るな!」
じじいが、今度ははっきり叫んだ。
「使うな、白依!」
白依の力の流れが、一瞬止まる。
その“止まり”を、陰陽師たちは待っていたかのように動いた。
「封脈縛」
札が連なり、地面へ吸い込まれる。
足元の霊脈が、ぶつりと切られた感覚が来た。
山の支援が薄くなる。
霊脈が遮断され、白依の膝がぐらりと落ちる。
囮だ。
子どもを縛り、じじいの足を止める。
“守る”という在り方に寄りかかる、卑劣な術。
「……卑怯な」
じじいが低く唸った。
それでも、なお――人を殺す道を選ばない。
じじいは一歩だけ、踏み出すと同時に気を発する。
たったそれだけで、空気が爆ぜた。
「霧落とし」
霧が“落ちた”。視界が白く潰れ、札の文字が滲み、結びかけた術式がほどけていく。
「土振崩し」
次の踏み込みで地が跳ね、波打つ土が隊列をまとめて叩き上げた。陰陽師が枯葉みたいに宙へ舞う。
輪を描いていた式神も、耐えられなかった。
獣が空中で裂け、霧がほどけ、白い紙片になって散る。
式神の“目”が消えた瞬間、測氣陣の圧が一拍だけ揺らいだ。
強い。圧倒的だ。
術を撃ち合う必要すらない。ここは大神の領域。
――なのに。
じじいは殺しきらない。
潰せるのに、潰さない。
山の怒りを押し留めている。
人は、その隙を突く。
白依の周囲で、空間がさらに歪んだ。
視線が絡みつく。
測る。縛る。切る。
「子どもだ」
誰かが言った。
「先に消せば――」
白依の喉がひくつく。
消す。
それは、殺すということ。
じじいが、はっと振り返った。
その瞬間、白依は理解した。
――狙いは、私じゃない。
私は、餌だ。
國陰の神を引きずり下ろすための“糸口”だ。
「白依!」
じじいが叫び、白依の前に立った。
庇った。迷いなく。反射で。
その背へ、狙っていたと言わんばかりに術が重なる。
「天鎖封核離抽式!(てんさふうかくりちゅうしき)」
神を討つ術ではない。
神を裂き、削ぎ、分解する術。
じじいの身体に、見えない楔が打ち込まれる。
存在そのものを固定し、引き剥がすための術式。
「ぐ……!」
初めて、じじいが苦痛の声を漏らした。
白依の中で、霊が暴れた。
怒りが、憎しみが、呼べと囁く。
白依は叫び、力を呼ぼうとする。今度こそ――
「使うな!」
じじいが叫んだ。
「……お前は呑まれる。戻れなくなる!」
それでも白依は止まれない。
じじいが砕かれる。
村で両親が倒れた朝と同じ匂いがする。
また奪われる。
じじいは、白依を見た。真っ直ぐに。
「……生きろ」
それは命令ではなかった。
願いだった。
次の瞬間、白依の胸の奥に、焼けるような“重さ”が流れ込んだ。
気ではない。血でもない。
声の残り滓――言葉の形をした何か。
じじいは、初めて白依の額に指を置いた時と同じ手つきで、空をひと撫でした。
「止まれ、見失うな」
音は低い。叱責でも怒号でもない。
けれどその一語は山の骨にまで染み込み、白依の内側へ真っ直ぐ落ちてきた。
白依は息ができなくなった。
喉が締まり、心臓の拍が一つ遅れる。
それでも――暴走の縁にあった意識だけは、確かに引き戻された。
同時に、陰陽師の“切る手”が白依に届かなくなる。
触れようとしても弾かれ、札が焦げ、術式が歪む。
「――殺せない……?」
誰かの掠れた声。
「なんだ、これは……ただの子ではないのか!」
「化け物が!」
じじいは最後に、山の力を解放した。
「山斬弩乱」
地脈が暴れる。
霧が渦を巻き、陣が崩れ、陰陽師たちが吹き飛ぶ。
護符が紙屑になって散る。
――だが、術は止まらず完了した。
「神貫」
先頭の男が、淡々と言った。
その言葉が落ちた瞬間、じじいの中心が“引かれた”。
じじいは殺されなかった。
殺すという概念ではない。
存在そのものを、砕かれた。
中心から在り方が引き剥がされ、欠片となって散らされていく。
核が引き抜かれ、術に絡め取られ、空間の彼方へ消えていく。
白依の視界が、白く染まった。
耳鳴りがした。
胸の奥の何かが、穴を開けて崩れていく。
「また、白依のせいで……い、やだ」
言葉は掠れていた。
だが世界は聞かなかった。
白依の意識は闇に沈んだ。
⸻
白依が次に意識を取り戻した時、全身布に覆われている感覚。
木の匂い。
土の湿り気。
古い札の紙の臭い。
結界と布が肌にまとわりつく。
外の音は遠い。
山の気配も薄い。
――封印だ。
本来なら、あの術は白依ごと消していたはずだ。
じじいも、白依も、まとめて。
なのに白依だけが、こうして“残っている”。
殺せなかったのだ。
依代の身体が受け止めたのか、じじいが邪魔をしたのか。
理由はどうあれ、陰陽師たちにできたのは“消す”ことではなく、“閉じる”ことだけだった。
理解した瞬間、哀しみと怒りと憎悪が喉の奥で燃え上がった。
じじいを砕いた奴らを――
だが身体は動かなかった。
札が呼吸を奪い、意識を縛る。
白依は叫び、爪を立て、血の代わりに冷たい涙を流した。
それでも現状は変わらない。
季節は巡る。
音は遠ざかる。
やがて白依は、怒りすら抱けないほど静かになっていった。
どれほどの時が過ぎたのか、分からない。
数十。いや数百。あるいはそれ以上。
白依は数えることをやめ、眠ることさえ忘れた。
ただ、待った。
その時が来るまで、じじいの気配だけを、かすかに、かすかに。




