第12話 香坂トンネル その1
世界的に見て平和と言える――少なくとも、そう“思われている”現在の日本でも。
年間あたり、十万人近い行方不明者が出ている。
そのうち見つかるのは、約九割。
数字だけを見れば「ほとんど帰ってきている」ように見えるだろう。
だが、その“帰ってき方”まで含めて見れば――話は変わる。
見つかる者の中には、遺体として発見される者がいる。
息はあっても、心が壊れて戻る者がいる。
名前を呼ばれても反応せず、何を聞いても答えられないまま、ただ震えている者もいる。
無事に戻れた者ばかりではない。
むしろ、「見つかった」という言葉が、救いにならない例の方が多い。
そして、その原因が――人間の手や、事故や、病だけで片付くのなら。
世の中は、もう少し分かりやすかったはずだ。
説明のつかない失踪。
あり得ない距離の移動。
密室のような場所での消失。
戻ったのに、時間の感覚だけが壊れている。
夜のトンネル、廃屋、山間の道――“決まって”同じ場所で繰り返される。
人はそれを、怪異、都市伝説、オカルトと呼ぶ。
怪談や笑い話にし、エンタメに変える。
けれど、笑えない者もいる。
見てしまった者。
触れてしまった者。
そして――“戻れなかった者”。
人の世には、最初から「触れてはいけない場所」がある。
足を踏み入れた瞬間に、境界がずれてしまう場所がある。
そこでは、原因は“誰か”ではない。
病でもない。
災害でもない。
――ただ、在る。
人が知らないまま生きていけるように、隠れているだけのものが。
あるいは、知ってしまった人間を“消す”ことで、隠れ続けるものが。
この国では今も、確かに誰かが消えている。
その一部は、もう“人間の理由”だけでは説明できない場所へ。
――――――――――
移動中の車内。
焔羅は定位置と言わんばかりに白依の膝の上に座っている。青紫の火は小さく、揺れも控えめだ。窓の外を流れていく街灯の明滅に合わせて、尻尾の先だけがぱちり、と瞬く。
白依はシートに背を預け、車のライトが切り裂く道――そのさらに先を、赤い瞳で見つめていた。視線は前方に固定されたまま、瞬きすら少ない。まるで闇の奥に“何か”がいるのを、最初から知っているように。
沈黙に耐えきれず、哀が小さく口を開いた。
「あの……白依様。白依様は、妖や霊を噛み砕いて……力を吸収するのですよね」
白依は視線を動かさないまま、淡々と答える。
「ああ。今はとにかく、力が必要だ」
哀の喉が鳴る。ハンドルを握る指に、わずかに力が入った。
「そ、それは……殺す、ということですか?」
「いや」
白依の声は平坦だった。温度がないのに、妙に重い。
「殺すとは、また違うだろう。あいつらは――生きているとは言えないからな」
哀は息を止めた。たしかに霊は呼吸をしない。妖の“生”も、人間のそれとは違う。けれど、その違いを言葉にされると、胸の奥がひやりとした。
白依は少しだけ顎を引き、続けた。
「だから……壊す、砕く、が正しいか」
言葉は淡々としている。けれど、その淡々さがかえって残酷に響いた。
哀は小さく息を吸い直し、恐る恐る問いを重ねる。
「もし……善良な霊や妖であっても、壊すのですか?」
言ってしまった瞬間、哀は自分の軽さを呪った。口に出す前に分かっていたはずなのに、確認したくなってしまった。
白依の目が、鋭くなる。
声が、低くなる。
「基本的に善な霊や妖など、いない」
一語一語が、夜の車内に落ちた。
「そもそも、善や悪などという概念が――あいつらに適用されんだろ」
哀は呼吸を忘れかけて、慌てて言葉を探す。
「……それは、どういうことですか?」
白依はようやく視線を少しだけ動かし、窓の外の闇へ言葉を投げるように返した。
「例えば、野生の獣は、ほかの獣を殺して食うだろう」
フロントガラスの向こう、ライトの先で闇が揺れる。白依の声だけが静かに続く。
「それは悪か?」
「……えっと。悪では、ないと思います」
哀の答えはかすれた。自分でも、正しいのか分からない。
白依が、間髪入れずに畳みかける。
「では善か?」
哀は、答えられなかった。
口を開けば、どちらかに寄ってしまう。寄った瞬間、それは“人間の都合”になる。
白依はそれを見越しているように、淡々と結論へ置いた。
「あいつらの行為の多くは、それに近い。奪う、喰う、寄る、纏う――ただ在り方として、そうするだけだ」
そして、白依は膝の上へ目を落とす。
焔羅がぴくりと耳を動かし、視線を逸らすふりをした。だが尻尾の火は、少しだけ嬉しそうに揺れている。
「……ただ、人間にとって利益となる霊や妖を“善”と呼ぶなら」
白依の声が、ほんの少しだけ柔らいだように聞こえた。錯覚かもしれない。
「“良い霊や妖”という言い方も、できるだろうな」
哀の胸の奥に、熱が刺さった。自分の問いが浅かったことが、今さら骨に染みる。
善も悪も、正しいも間違いも。
時と場合と立場で、形が変わる。
哀は視線を落とし、声を小さくする。
「……なるほど」
返事はそれだけだった。
けれどその一言の中に、恥と、理解と、覚悟の芽が混じっていた。
車は暗い峠道を滑るように進む。
ライトの先、闇の奥で――香坂トンネルへ、ゆっくりと近づいてきていた。
香坂トンネルへ続く峠道へ入り、しばらく。
ヘッドライトが濡れたアスファルトを舐め、木々の影が車体へ流れる。海沿いの町の匂いはもう薄い。代わりに、土と苔と、古い水の気配が窓の隙間から入り込む。
やがて――トンネルの入口が見えてきた。
レンガ造りの口が、闇の中で不自然に整っている。まるで「ここから先は別だ」と宣言するように、周囲の空気だけが沈んで見えた。
入口付近に、無人の赤い車が一台。
「……他の誰かが肝試しでもしているんでしょうか」
哀が少し怪訝そうに言う。ライトに照らされた赤が、やけに生々しく見えた。
だが白依と焔羅は、すでに気づいていた。
(当たりだな)
白依は淡々と心の中で呟き、シートベルトを外した。
「出るぞ」
短く告げ、そのまま車外へ出る。夜気が肌へまとわりつき、いっそう冷える。だがその冷え方は、自然の寒さだけじゃない。
「あ、ちょっと待ってください!」
哀が慌てて路肩へ車を寄せ、ハザードを点ける。外へ出る動きが早い。怖がっているのに、躊躇がない。
哀が駆け寄るころには、白依はもう入口の前に立っていた。
焔羅は白依のすぐ横で、尻尾の火を小さく揺らしている。
トンネル内は薄くライトで照らされているが、ところどころ切れていて闇が点在し、一番奥は闇で見えない。光の筋が届かない“穴”が、いくつも口を開けていた。
白依たちが、一歩。
トンネルへ入った途端――空気が明らかに変わった。
湿り気が増す。温度が落ちる。匂いが濃くなる。
外の夜とは違う、草や土や水、それと錆びた鉄のような匂いが喉の奥へ張りついた。
白依の赤い瞳が、闇の奥を捉える。
焔羅が小さく鼻を鳴らした。
哀ですら、それを感じたのだろう。
肩がわずかに震え、呼吸が浅くなる。ライトが切れた区間へ視線を向けた瞬間、まるでそこに“目”があるように、背筋がすうっと冷えた。
白依は、一度だけ視線をやって告げる。
「車で待ってろ」
命令というより、当然の判断だった。
だが――
「いやです!」
哀の声が、トンネル内で反響した。
跳ね返った声が、壁に当たり、また返ってくる。自分の叫びに自分が驚いたのか、哀ははっとして口を押さえた。
「……っ、申し訳ありません」
謝罪の癖が、反射で出る。
それでも、哀は顔を上げる。震えているのに、目だけは逸らさない。
「でも……ご一緒させて下さい」
白依は一瞬だけ哀を見た。
赤い瞳が、冷たく測る。
それから、興味が失せたように前を向き直し、短く返す。
「……好きにしろ」
許したわけでも、認めたわけでもない。
ただ、止める労力を払う気がない――そんな声音だった。
それでも哀は、その一言に救われたように小さく息を吐く。
焔羅は「甘い」とでも言いたげに鼻を鳴らしかけ、白依の気配がわずかに重くなったのを感じて、黙った。
三人は、闇の点在するトンネルの奥へ歩みを進める。
しばらく歩いた。
足音が、乾いた反響になって戻ってくる。
ライトの届かない闇が、ところどころ口を開けたまま、動かない。
――いや。動かない“ふり”をしているようだ。
哀は、喉の奥で息が引っかかる音を鳴らしながら、震えた声を絞り出した。
「……白依様。これ、おかしいですよね」
声がかすれて、言葉の端が揺れる。
「このトンネルって……そんなに長くないはずです。なのに、まだ出口すら……見えません」
白依は歩みを止め、短く返した。
「後ろを見てみろ」
「え、」
哀は反射で振り返った。
――そして、顔から血の気が引いた。
「……うそ」
入口が、ない。
先程まで確かにあったレンガの縁も、外の夜の匂いも、車のライトも、何も。
あるのは前方と同じ、黒い闇だけ。
まるで――最初から、外なんて存在しなかったように。
「なんで……入口は……?」
声が小さく途切れ、哀の肩が震える。息が浅くなり、指先が冷える。
白依の赤い瞳が、闇の奥を見据えたまま言った。
「……そろそろか」
その声は淡々としているのに、周囲の空気が一段重くなる。
焔羅が、白依の脇で小さく唸った。
「主……」
「ああ」
白依は、そこで初めて歩みを止めた。
静かに息を吸い、吐く。
「もう――やつの腹の中だ」
言い切った瞬間、トンネルの闇が“ひとつ”にまとまった気がした。
壁も床も天井も、ただの構造物ではなくなる。
――ここ自体が、喰うための器だ、と。
次の瞬間だった。
壁の影が、じわりと濃くなる。
ただの影が“剥がれて”、形を持ち始めた。
細長く伸び、刃の曲線を描き――鎌。
それは音もなく哀の足元へ滑り、狙い澄ましたように足首へ喰らいつこうとする。
「ひっ――」
哀は短く悲鳴を漏らすことしかできなかった。
身体が言うことをきかない。息の仕方も忘れる。逃げるという選択肢が、頭から抜け落ちる。
――だが、その一瞬の“止まり”に割って入った影がある。
「──させるか!」
焔羅が跳ねた。白い毛が闇を裂き、青紫の火が尾を引く。
ガギンッ!
鋼鉄同士がぶつかり合うような音が、トンネルに凶暴に木霊した。
焔羅の爪が、影の鎌を真正面から弾き返す。
刃は壁へ叩き戻され、影は一度ぐにゃりと歪み、壁の黒へ溶ける。
哀は、遅れて息を吐いた。
膝が笑い、腰が抜ける。
その場にへたり込み、冷たい地面に手をつく。指先が震えて止まらない。
「あ、ありがと、焔羅……」
声を絞り出す。
「うん!」
「……狙いは、お前のようだな」
白依が哀へそう告げた、その刹那。
――ぱつん。
灯りが切れたように、トンネルの中が“真っ暗”になった。視界から世界そのものが消える。
呼吸の音だけが、やけに大きい。
哀の喉がひゅ、と鳴った。焔羅の尾の火すら、どこにあるのか分からない。
――ぱっ。
それも一瞬だった。
今度は逆に、いきなり“明るく”なる。
眩しいほどの白い光が、壁を、床を、三人の影をくっきりと浮かび上がらせた。
その灯りは、先程までの電気の灯りとは違い、まるで意思があるかのようだった。
そして、哀と焔羅は目の前の光景に息を飲んだ。
――天井。
そこに、おびただしい数の“足”が吊るされていた。
膝から下だけ。
切り落とされた断面は見えない。代わりに、足首のあたりへ黒い紐のような影が絡みつき、まるで獲物を干すようにぶら下げている。
足には靴が履かされていた。
スニーカー、パンプス、ローファー。
どれもサイズも形も違うのに、揃って“女の足”だと分かる。細い足首。タイツの繊維、靴下の縫い目。――日常の匂いが、ここでは腐った記念品のように見えた。
光に照らされ、足たちは微かに揺れる。
ぎぃ、と。
空気が軋むような音がした気がして、哀の背筋が粟立った。
吊るされた足が揺れるたび、地面に斑な影が落ちる。
影は足の形のままではなく、途中で溶けて、別のものに見える。
伸びる。縮む。絡む。這う。
まるで、地面そのものが“足を欲しがっている”ように。
怯えている哀を他所に、白依は天井を見つめたまま、考えていた。
確かに――写真を見た瞬間から、引かれていた。
夢の底でも、あの声が呼んだ。
けれど、今この場で“狙われている”のは哀だ。
吊るされた足。影の鎌。入口も出口も消えた腹の中。
全部が、哀の足首へ向けて形を持っている。
(まさか……)
胸の奥で、嫌な記憶が噛み合う。
あの日もそうだった。
白依を餌にして、じじいを引きずり出した。
“守る”という在り方を踏み台にして――核を奪った。
白依は、ひとつの結論に辿り着く。
(白依を呼ぶことで、哀を釣った)
呼び声は餌。
この場は檻。
そして哀は――獲物。
「……チッ」
白依の舌打ちは小さかった。
けれど、湿った闇に吸われず、トンネルの奥へ薄く木霊した。




