第11話 糸引くもの
服など、なんでもいいと思う。
白依にとっては、身を覆ってさえいれば十分だったし、それが普通だった。こだわれるのは、ごく一部の者だけだ。
だが哀が言うには――今の格好のままだと、面倒なことになるかもしれないらしい。
白依の現在の服装は、ダボダボのTシャツを、ワンピースのように一枚で着ているだけ。
それで何が問題なのか、白依にはよく分からない。
「別に、これでいいだろう」
白依がそう言うと、哀は一瞬、固まった。
次の瞬間、火がついたように身を乗り出す。
「よくありません!!」
声が裏返り、哀は慌てて咳払いをした。だが勢いは止まらない。むしろ加速する。
「白依様、それは……その……“下”が見える可能性が――いや違う、そうじゃなくて!今の世のルール的に!通報や補導に繋がる恐れがあって!面倒が増えます!!」
「……補導?」
「こ、国家権力に止められて質問されます!」
「……何のために」
「白依様が、白依様だからです!!」
訳が分からない。
白依が目を細めると、哀は息を吸って、さらに熱弁を重ねた。
「人間は見慣れないものに弱いんです!怖いから見るし、気になるから寄ってくるし、寄ってきた結果、通報もされるし……!白依様はその、存在がもう……目立つので……!」
それは褒めているのか、貶しているのか。
白依が判断しかねている間にも、哀は真剣な顔で畳みかける。
「それに、今の服装は――言い方を選ばずに申し上げると、浮浪の孤児に見えます。私は、それが……っ」
白依は小さく息を吐く。
くだらない、と切り捨てるには、哀の勢いが強すぎた。言葉が止まらない。
そして何より――哀の声には、ただの世間体ではない焦りが混じっている。
白依に余計な手が伸びることを、本気で嫌がっている音。
白依にも心当たりはあった。
かつて、村で周りと違うことで晒されたあの目。
(……それに面倒は嫌だ)
その一点だけで、白依は折れることにした。
「……分かった」
哀の目がぱっと開く。
「本当ですか!」
「服を買う。それでいいのだろ」
哀は勝ち取ったかのように拳を小さく握り、すぐに取り繕って背筋を正した。
「はい!ありがとうございます!すぐに、目立たず、動きやすく、それでいて……」
「それでいて?」
「……いえ、なんでもありません!」
哀は言い切る前に自分でブレーキを踏んだ。遅い。
白依はもう一度だけため息を飲み込む。
――――――――――――
日が登り、街の店が次々と扉を開け始めた頃。
「それでは、白依様。参りましょう」
哀がそう告げると、焔羅はひゅ、と影のように白依の中へ戻り、気配を薄くした。三人で歩けば目立つ――それを、焔羅なりに理解したのだろう。
白依はホテルのロビーを抜け、外へ一歩踏み出した。
眩い。
陽の光が肌に刺さり、思わず目を細める。
マシにはなったが、白依は体質的に元々陽の光に弱かった。
昨夜は暗闇に紛れて気づかなかったが、建物の形も、道の広さも、行き交う人間の格好も、何もかもが異様だった。規則があるようで、ない。統一されているようで、ばらばらだ。千年前とは、根の部分から違う。
哀に案内されながら海沿いの道を歩く。
潮の匂いと、乾いた排気の匂いが混じる。
そこで、すれ違う人間の視線を感じた。
嫌悪でも、恐れでもない。
だが――好奇の視線というのは、別の意味で居心地が悪い。皮膚を撫でるようにまとわりつく。
「……やはり、私一人で行くべきでした」
半歩前を歩く哀が、申し訳なさを滲ませた声で言う。
(お前が気にすることでもないだろうに)
白依はただ、事実を落とした。
「……いい。慣れている」
それを聞いた哀の拳が、きゅ、と握り込まれるのが見えた。けれど白依は何も言わない。言っても、どうにもならない顔だ。
数分歩いた。
やがて視界の先に、巨大な建物が現れる。
壁のようにそびえているそれに吸い込むように人が出入りしている。
「ショッピングモールという建物です」
哀がそう言い、白依は言われるまま中へ入った。
空気が違う。
冷たく乾いて、様々な匂いが混ざっている。天井が高く、光が均一で、どこを見ても眩しい。
そして――服屋へ。
そこから先、白依の記憶はあまり繋がっていない。
最初は遠慮がちだった哀が、一着を両手で持ち上げ、恐る恐る言った。
「これを……その、一度着てみてくれませんか?」
妙な作りの純白の衣。
“ワンピース”というらしい。
変なところで強引なくせに、こういう時だけしおらしい。
意味が分からない。
ただ、サイズの確認が必要らしい。
それなら、と白依は試着室へ入った。
――これが間違いだった。
着替えて出るなり、哀が息を呑む。
次の瞬間、両手で口元を覆い、声になりきらない声を漏らした。
「あぁ……天使……」
意味の分からないことをほざいたまま、哀は次々と服を抱えて戻ってくる。
一着、また一着。
そのたび白依は着せられ、哀は震え、焔羅の気配が腹の奥ではしゃいでいるのが分かった。
やがて店を変え、また試着。
さらに店を変え、また試着。
白依は途中から抵抗するのをやめた。
哀の目が本気すぎて、話が通じない。
気づけば、試着したものの“ほとんど全て”を哀が買い上げ、両手に大量の紙袋を抱えている。
哀自身も服を買っていたが、選ぶのは黒い地味なものばかりだった。
長袖。長ズボン。飾り気のない形。
自分のことになると、途端に欲が消えるらしい。
結局、白依は最初に試着した純白のワンピースを身に着けたまま、ホテルへ戻ることになった。
(疲れた……)
ロビーへ入る直前、すれ違う視線がまた集まる。
白依は目を細め、息を吐く。
部屋へ戻ると、哀が扉を閉めたのと同時に、白依は胸の奥へ意識を沈めた。
「……出ろ」
小さく命じると、内側に潜っていた焔羅が、ふわり、と外へ滲み出る。影がほどけ、青紫の火が尾を揺らしながら形を取った。
「ぷはっ」
そのままベッド端に座る。
白依は一息つくように、椅子へ腰を下ろす。
目を閉じ、しばらく――ただ考えた。
千年前と比べて、環境が変わりすぎている。
自然は少ない。
石と鉄と光に囲まれ、地の息づかいが遠い。
霊脈や地脈――脈の力も、薄く弱まっているように感じた。
山で感じていた“満ち”がない。世界の底が乾いている。
(……もっと、知らなければならないことが多いな)
思考を深めかけた、その時。
「も、申し訳ありません!」
哀の声が割り込んだ。
振り返ると、哀は深々と頭を下げていた。肩まで沈め、逃げ道を塞ぐように、謝罪の形を固めている。
「調子に乗りました!その……服を、勝手に……!」
声が震えている。
怒られるのを前提にしている声だ。
白依は、ほんのわずかに眉を動かした。
今さら、あの程度で嫌悪や怒りを覚えることはない。
むしろ――“どうでもいい”。
だから白依は、謝罪を受け取らないまま――哀の声を一旦無視した。
妖も霊も――以前なら、探さずとも勝手に白依へ群がってきた。
怒りや恐怖や渇きの匂いに引き寄せられるように。
夜が濃いほど、脈が満ちるほど、向こうから寄ってきた。
だが、こちらで目覚めてからは集まらない。
(……いや、神社で一度――)
白依は思い出す。
境内を囲んだ十数の気配。群れ。まとわりつくような濁り。
しかし――焔羅が、あれを蹴散らしてしまった。
白依の視線が、すっと焔羅へ落ちる。
焔羅は一拍遅れて気づき、ひっ、と喉を鳴らした。毛が逆立ち、尻尾の青紫の火が小さく縮む。
「な、なんですか主……」
白依はため息をひとつだけ落とし、視線を逸らした。
責めたいわけではない。ただ、状況が違う。
白依は二人に問う。
「はぁ……お前たちは、妖や霊の居場所を知っているか?」
焔羅が唸るように腕を組む。
「うーん……匂いとか、気配を辿れば分かる時もあるけど……今は……」
答えになりきらない答え。
焔羅自身もそれが分かっているのか、言いながらしょんぼりしていく。
その横で、哀が静かにポケットへ手を入れた。
薄い板を取り出す。
黒い面に、指先で触れると淡く光が走る。
白依はそれを観察する。
――神社からの移動でも使っていたものだ。
哀が「スマホ」と呼んでいた。
この世の様々なものを知ることができるものらしい。
道も、店も、距離も、時間も。
人間の“知恵”が詰まった板。
哀は画面を覗き込みながら、慎重な声音で言う。
「白依様……“妖や霊が出る場所”は、噂や記録としてなら探せます。事故が多い場所、昔から忌避されている場所、心霊スポット……そういう形で」
そう言いながら白依の前へ見せるように持ってくる。指が滑り、画面が切り替わる。
白依には見慣れない文字と図が流れていく。
哀は一度、白依の顔色を窺ってから続けた。
「ただ……本物がいるかは、行ってみないと分かりません。でも、当たりは付けられます」
焔羅が、目を丸くして覗き込む。
「すげー! それ、妖の巣とかも出るの!?」
「そこまで便利じゃないよ」
哀は即座に否定しながらも、指を止めなかった。
白依は黙って、それを見ていた。
“集まらない”のなら――探すしかない。
探せる術があるのなら――使う。
白依の赤い瞳が、スマホの光を冷たく映す。
一枚の写真が、白依の視界に引っかかった。
画面の中。
暗い穴。湿った空気まで映り込んでいそうな黒。
入口の縁だけが不自然に白く、そこから先が――“見えない”というより、見せない。
白依は指先でそこを示し、短く告げる。
「……ここだ」
哀と焔羅が身を寄せ、スマホを覗き込む。
「香坂トンネル……ですか」
哀が小さく呟く。指先が一度止まり、画面を拡大しようとして――躊躇うように、わずかに動きが鈍る。
焔羅が首を傾げ、白依へ視線を上げた。
「主。なぜここなんです?」
白依は答えを探すように写真を見つめ、淡々と吐き出す。
「……なんとなく」
それで終わる言葉なのに、哀の背筋がわずかに強張るのが分かった。
焔羅の尻尾の火も、ぱち、と小さく跳ねる。
白依は、写真から視線を外さない。
“見た”瞬間に、胸の奥がひやりと鳴った。
嫌悪でも恐怖でもない。もっと原始的な――引かれる感覚。
呼ばれた気がした。
まるで、遠い場所から糸を引かれるかのように。
名も知らぬ何かが、白依の内側へ指を差し入れて、方向だけを示すように。
「今すぐ向かいますか?」
哀がスマホを握ったまま、控えめに尋ねる。
白依は窓の外――昼の白さを一瞥して、短く答える。
「……いや、夜がいい」
それを聞いた哀は、なにか腑に落ちたように頷き、勝手に納得した声音を出した。
「なるほど!確かに夜の方が霊も出ますよね」
白依は内心、鼻で息を吐く。
確かにそれもある。
しかし、理由はもっと単純に白依自身が、陽の光が苦手なだけだ。
あの眩しさは、目だけの問題じゃない。肌の奥まで刺り、身体が熱くなる。
けれど、それをいちいち説明するのも面倒だった。
白依は否定しなかった。
ただ、淡々と話を前に進める。
「……そういうことにしておけ」
哀は「はい!」と妙に元気よく返し、すぐに段取りへ頭を切り替える。
「では、日が落ちるまでに必要なものを揃えます。移動手段はこのまま車で――」
「任せる」
白依の返事は短い。
焔羅がその横で、尻尾の火を小さく揺らしながら嬉しそうに胸を張った。
「夜の狩りだな! 主、任せろ!」
白依はちらりと見て、冷たく落とす。
「……騒ぐな」
「はひ……」
焔羅が目に見えて縮む。
哀は咳払いをし、スマホを操作して予定を組み立て始めた。
白依はベッドへ背を預け、目を閉じる。
哀の言う通り夜の方が霊も妖も活発になる。
それに、呼ばれた場所の“匂い”も、きっと今より濃くなる。
(……夜がいい)
そう、自分に言い聞かせるように。
白依は静かに息を吐いた。
少しウトウトしてきたので、それに身を任せ、意識はゆっくり闇へ沈んでいく。
(……早く、おいで……)
囁きは遠いのに、耳の奥へ直接触れてくるように鮮明だった。
――ハッ。
白依は跳ねるように目を開ける。
布団が掛けられていた。先程までの空調の乾いた匂いに、微かな柔軟剤の香りが混じっている。
部屋は暗く、窓の外もすっかり夜だった。
(寝ていたのか……)
カチャ。
ドアの音。
入ってきたのは、哀と焔羅だった。
「あ、お目覚めになったんですね」
哀は小声で言って、すぐにいつもの丁寧な口調に戻る。
「今、車に必要そうなものも詰め込み終わったので……いつでも出られますよ」
焔羅も同じように頷き、尻尾の火を小さく揺らした。
「主!準備万端です!」
白依は上体を起こし、額に手を当てる。
眠りの底から引き上げられた感覚がまだ残っている。胸の奥が、妙にざわつく。
白依は、ぽつりと呟いた。
「さっきの声は……」
哀が瞬きをする。
「え……?」
焔羅が少し近づいて、覗き込むように言った。
「主? どうされました?」
その心配そうな声音に、白依は軽く手を上げて制す。
(……まあ、いいか)
白依はベッドから足を下ろし、立ち上がる。
夜の冷たさが、身体の奥までしっくりくる。
「行くか」
短い一言に、哀はすぐに背筋を正した。
「はい。参りましょう」
焔羅は嬉しそうに尻尾の火をぱち、と弾かせる。
「夜だ! 主、行こう!」
白依は歩き出しながら、窓の外の闇を一瞥した。
――――――――――――
兵庫県南部。
市街地から外れ、街灯の数も途切れていく。
車一台がやっと通れるほどの狭い峠道を、ライトだけを頼りに進んだ先――そこに、それは口を開けていた。
レンガ造りの古いトンネル。
縁だけが妙に整っていて、くぐり抜けるための“穴”というより、最初から何かを迎え入れるための“器”のように見える。
レトロ、と呼べば聞こえはいい。だが実際には、古さより先に湿った不気味さがまとわりついてくる。
このトンネルには、噂が尽きない。
車で通れば、バックミラーに女の霊が映る。
フロントガラスや窓に、内側から押し付けたような手形が浮かぶ。
エンジンが急に止まる、ライトが消える、助けを呼ぶ声が聞こえる――
上げればきりがない。
それでも、人は来る。
肝試しと称して、面白半分に、怖いもの見たさに。
連日のように、この“口”へ吸い寄せられる。
――今夜も。
赤い車がトンネル入口で止まり、足音が響いた。
コツ、コツ、と乾いた反響が何度も返ってくる。
男女二人の影。
「うわー、たっちゃん……雰囲気あるね」
女が笑うような声で言う。
懐中電灯の光が、レンガの壁を揺らした。
「だな。まあ、雰囲気だけだろうけどな」
男が軽く返す。
肩の力の抜けた声だった。怖がっているのを誤魔化すように、わざと強めに。
二人は少し進む。
空気がぬるく、湿っている。
外の夜とは違う匂いがする。土と鉄と――古い水の匂い。
「ゔわー、だっぢゃん……雰囲気あるね」
女が、もう一度言った。
しかし、その声は先程少し違って聞こえた。
男が足を止める。
「あ?」
懐中電灯が一瞬だけぶれて、光の円が壁を這う。
「何、同じこと言ってんだ?」
苛立ち混じりに、男は彼女の方を向いた。
ふざけて驚かせようとしているのか――そう思った。
だが。
そこに、“彼女”はいなかった。
居た。いや、あったのは――両足のみ。
膝から上が、無い。
断面からは、血が今もとくとくと流れている。
ぬるい赤が、トンネルの僅かな傾斜に沿って細い川になり、男の靴先へ近づいてくる。
「……は?」
声が抜けた。
「は? は? おい、みさ――」
名前を呼びかけた瞬間。
背後の闇が、ふっと笑った気がした。
ライトが床に落ち、転がる音だけがトンネル内に響いた。
この場所は香坂トンネル。
またの名を「人喰いトンネル」。




