幕間 白依とじじい①
山の朝は、やたらと早く忙しない。
鳥が鳴いて、風が葉を揺らし、沢がさらさらと喋っている。白依が目を開けた時には、もう全部が始まっていた。
山に来てからは、このボロ小屋で寝起きしている。
「起きとるなら、さっさとこい。粥が焦げる」
外で火の番をしているじじい――大神が、ぶっきらぼうに言った。
白依は布を肩に掛け直し、寝床から抜け出す。裸足で土を踏むと、ひやりと冷たい。冷たさは嫌いじゃない。冷たいものは、いつだって正直だ。
火の近くへ行くと、鍋から湯気が立っていた。米の匂い。煙の匂い。塩気の匂い。全部が混ざって、山の朝の匂いになっている。
「……焦げていない」
「焦げる“前”に言うとるんじゃ」
じじいは匙で鍋を混ぜ、白依を横目で見た。
「水、汲んでこい。今日は少し濃なった」
「濃いのは、良い」
「味の話じゃ。術の話ちゃう」
白依は桶を持って沢へ向かった。
足元の小石が、ころりと転がる。転がった石が、別の石に当たる。そういう小さな連鎖が、白依には面白い。
沢の水は透明で、石の丸みがはっきり見える。白依が桶を浸すと、水面がふわりと揺れた。
白依は、ほんの少しだけ指先を動かす。
水が寄ってくる。
寄ってきたことが嬉しい、というより、言うことを聞いたことが面白い。犬が尻尾を振るのと似ている。白依は犬を見たことがないが、じじいが「似とる」と言ったから、そういうものなのだろう。
「……またやっとる」
後ろから声がした。
振り返ると、じじいが腕を組んで立っている。いつの間に来たのか分からない。いつもそうだ。
「水は手で汲める。呼ばんでええ」
「呼んでいない。寄ってきただけ」
「それを呼ぶ言うんじゃ」
じじいは桶を覗き込み、ふん、と鼻を鳴らした。
「便利に慣れるな。怠け癖が付く」
「怠けていない。歩いてきた」
「屁理屈を言うな」
じじいは桶を持ち上げ、白依の手に戻した。わざと、少しだけ重く感じるように。
「ほら。ちゃんと重い。これが現実じゃ。重さを覚えとけ」
白依は桶を抱え直し、頷いた。
「重い」
「そうじゃ。重いもんは、落としたら割れる。人も同じじゃ」
じじいはそう言って、先に歩き出した。白依はその背中を追う。
小屋に戻ると、粥がよそわれていた。器は欠けているが、欠けているところが指に馴染む。
白依が一口食べると、じじいがすぐ言った。
「熱いぞ。猫舌なら火傷する」
「猫は知らない」
「じゃあ犬舌じゃ」
「犬も知らない」
「知らんもんばっかりじゃな、お前は」
じじいは呆れた顔をしてから、少しだけ声を落とす。
「……まあ、それでもええ」
白依は粥をもう一口食べた。
「……薄い」
「お前は率直すぎる」
「事実」
「腹立つのう」
じじいは塩壺を、ひょいと白依の前に置いた。
「自分で入れろ。ほれ」
白依は塩をつまみ、粥の上で落とす。白い粥に、黒い粒が散った。白に黒が混じるのが不思議で、白依はじっと見てしまう。
「……汚れた」
「汚れちゃう。味が付いたんじゃ」
「味」
「そうじゃ。味はな、混ざってできる」
じじいは粥を食べながら、白依の視線を見て、わざと軽く言った。
「お前も混ざれ。全部白いままじゃと、目立つ」
「目立つのは、悪い?」
「悪い時もある。良い時もある。……世の中は面倒なんじゃ」
白依はその言葉を、分からないまま飲み込んだ。粥と一緒に。
食べ終えると、じじいが「ほれ」と布を投げてよこした。白依の髪を束ねるための、古い布だ。
「髪、邪魔じゃろ。結べ」
「邪魔ではない」
「邪魔じゃ。お前は邪魔と思わんから厄介なんじゃ」
白依は布を持ったまま、じじいを見る。
「じじいが結ぶ」
「なんでそうなるんじゃ」
「手が届かない」
「届くわ!」
じじいは大きく溜息をついて、白依の後ろに回った。指が髪に触れる。じじいの指はごつごつして、温かい。髪を梳く動きは、意外と丁寧だった。
「……髪はな、結ぶだけで違う。気が散らん」
「気」
「気じゃ。……まあ、ええ。分からんでも」
じじいは小さく咳払いをして、布を結んだ。少しきつい。
「痛い」
「我慢しろ」
「痛い」
「……少し緩める」
じじいはぶつぶつ言いながらも、結び目を解き、やり直した。今度は丁度いい。
白依は触って確かめる。
「良い」
「そらよかったな」
じじいは誇らしげに言いかけて、すぐに「違う」と言い直した。
「……当然。わしがやっとるんじゃから」
白依は一瞬だけ、口の端を上げた。笑う、というより、そういう形になった。
じじいがそれを見て、目を細めた。
「今、笑ったか?」
「笑っていない」
「笑ったじゃろ」
「笑っていない」
「……可愛げのある否定じゃな」
じじいは勝手に満足して、外へ出る準備を始めた。籠を手に取って、背負う。
「今日は山菜取りじゃ。腹の足しにもなるし、薬にもなる薬草も見とけ」
「薬草は苦い」
「苦いのが効くんじゃ」
「甘いのが良い」
「甘いのは……たまにでええ」
じじいはそう言いながら、懐から小さな木の実を一つ出し、白依の手に置いた。
甘い匂いがした。
白依は目を瞬かせる。
「……なんで」
「昨日、よう動いたからな」
「白依はいつも動く」
「今日は“よう”動いたんじゃ」
じじいはそれ以上言わず、先に歩き出した。照れたのかもしれない。白依はその背中を追い、木の実を一口齧った。
甘い。
甘いものは、口の中に残る。残るから、長く覚えてしまう。
道中、じじいはやたらと喋った。
「その葉はあかん。痒くなる」
「それは採ってええ。煎じたら寝れる」
「勝手に触るな。あとで手を洗え」
「お前、歩幅合わせろ。置いていくぞ」
「置いていかない」
「口だけじゃ。遅い」
「遅くない」
「遅い」
言い合いをしながら、山の中を歩く。白依は時々、じじいの背中を見て、何かを思う。思うが、それが何かは言葉にならない。
薬草を採り終え、戻る途中。
白依がふと立ち止まった。
「……じじい」
「なんじゃ」
白依は木々の隙間を見た。風が通っているのに、そこだけ音が薄い気がした。
「今、静かだった」
じじいは一瞬だけ足を止め、すぐに何でもないように言った。
「気のせいじゃ。ほら、帰るぞ」
その声はいつも通り乱暴で、いつも通り温かい。
白依は頷き、じじいの後ろを歩いた。
山の朝の音は、また元通りに忙しくなる。鳥が鳴く。沢が喋る。葉が笑う。
何事もなかったように。
――白依の舌に残る、木の実の甘さだけが、少しだけ長く残った。




