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神も人も〜人に砕かれた神の核を巡る、現代妖異譚〜  作者: 佐藤 潮


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第10話 食べる

陰務省本部へ夜空を飛ぶ梟。

――ただし、その影は“鳥”の大きさではなかった。


翼をひと振りするたび、夜気がざわりと裂ける。

陰務省が保有する移動用式神。巨大な梟の背に、籠杜と御影は直立していた。


「さっきは焦ったねー」


籠杜が、いつもの軽い口調のまま笑う。だが面の奥、呼吸だけは少し早い。


御影は夜風に声を落とした。


「まさか天狩がいるとは思いませんでした。……逃げ切れたのは幸運ですね」


その言葉に、籠杜は短く鼻で息を吐く。


「いやー。あれは“逃げ切れた”っていうより――ただ、逃がさせてもらえただけだと思うよ」


「……え?」


御影の目が、わずかに見開かれる。


籠杜は夜を見据えたまま、面の下で眉を寄せた。


「まさか、あそこまでの実力とは思わなかったな」


言い終えた瞬間、籠杜の額に汗が滲む。

御影が息を飲んだ。


遠い闇の底に、あの赤い着流しの気配がまだ残っている気がして――背筋が冷える。


籠杜が、苛立ちを紛らわせるように言った。


「鷹宮家が、しかも天狩が動くなら、早く言ってくれればよかったのに!戻ったら文句言ってやる!」


御影は苦笑に近い息を零し、釘を刺す。


「……ほどほどに、ですよ」


梟の翼が大きくうねり、風圧が二人の身体を押し付ける。

速度が一段上がる。


巨大な影はそのまま闇夜を裂き、音もなく――夜の奥へ溶けるように消えていった。


――――――――――


移動から数時間。

白依たちは兵庫県南部、海沿いの町へ辿り着いた。潮の匂いと、街灯の白い光が混じる場所だ。

白依が自動ドアに驚いたり、「私などが白依様と同じ部屋なんて」などと一悶着あったが、哀は迷いなく宿を選び、手続きも終え、鍵を受け取るまで早かった。


部屋に入ると、乾いた空調の風が頬を撫でた。

白い壁。規則正しく並んだ照明。二つの“ベッド”と呼ばれるもの。窓の向こうに、遠く黒い海。


「白依様。しばらくは、こちらで寝泊まりします」


哀の声はいつも通り丁寧で、どこか落ち着いていた。


白依は見慣れない造りの室内を眺め、千年という“時間の厚み”を、じわりと実感する。山の湿り気も、木の匂いもない。空気の質が違う。


「……ん」


短く返すと、白依は奥のベッドに腰を下ろした。

ふわり、と沈む。想像よりも柔らかく、身体の重さを受け止める感触が遅れて返ってくる。


……だが、もういちいち反応するのはやめた。


哀の視線や反応がうるさいことは、この短い間で十分分かった。

移動中も、白依が何かに反応するたび、哀は押さえ込んでいるつもりなのだろうが――その目が妙に生暖かい。見守るような、面白がるような、勝手に安心しているような。


(はぁ……あんなに怯え、泣いていたくせに)


白依は、哀という得体の知れない人間に、心の中で小さくため息を零した。


哀は扉の近くで立ったまま、静かに口を開いた。


「本日は……もう、お休みになられますか?」


白依はしばし考えるように視線を落とし、やがて小さく頷く。


灯りの下で、白依が横になる。

その足元へ焔羅がころりと丸く収まり――早くも寝息を立て始めていた。規則正しい呼吸に、尻尾の青紫の火だけが小さく揺れる。


哀はそれを確認すると、隣のベッドへ静かに身を横たえ、スイッチへ手を伸ばした。

部屋の明かりが落ち、夜の輪郭だけが残る。


「……おやすみなさいませ」


小声気味に告げる哀に、白依は鼻を鳴らして答えた。

そして哀へ背を向けるように寝返りを打つ。


(こいつらを信用はしない。……でも)


白依は目を閉じたまま、胸の奥で言葉を転がす。


(思ったより、使えるな)


哀と焔羅――二つの評価が頭の中で静かに並ぶ。

明日からの動きも、自然と組み立てられていく。


もし、じじいの核を黒杖家が本当に所持しているのなら。

取り返す。


――ただし、白依は理解している。


人間は、妖などより強いわけではない。

だが、弱いわけでもない。


数。術。連携。

それらは本気ではないにしろ、“神であった”じじいをも屠った事実として残っている。


(それに……)


白依は、わずかに眉を寄せる。


(白依の身体も、少し変だ)


いくつか千年前とは違う変化があった。

胸の奥に残る、あの重さ。

初めて人を殺した際のじじいの言霊のような――あれは、いったい。


闇の中、焔羅の寝息だけが続く。

哀の呼吸も、静かに一定になっていく。


白依は目を閉じたまま、ふと思う。

(お腹すいた……)


――翌朝。


ガサガサ、と。

聞き慣れない擦れる音で、白依は目を覚ました。


むくりと上体を起こす。昨夜の柔らかい寝台――ベッドの沈み込みには、もういちいち驚かない。

視線を落とすと、足元から元気な声が飛んでくる。


「主! おはようございます!」


焔羅が尻尾の火をぱちぱち弾かせ、無駄に胸を張っている。


それに続いて、少し離れた位置から、哀の声。


「白依様、おはようございます」


頭を下げながら告げる哀の手には、見知らぬ質感の包みが抱えられていた。紙とも布とも違う、薄くて、つるりとしたもの。そこから先程の音が出ていたらしい。


白依は目を細める。


「それはなんだ」


哀は一瞬、言葉に詰まるように口を開き――すぐに整えた声音で答えた。


「その……お食事を。昨日は何も召し上がらずにお休みになられたので……」


言いながら、哀はちらりと白依の表情を窺う。

怒りを買っていないか、機嫌を損ねていないか――そんな慎重さが、目の動きに滲んでいた。


腹は減っていた。気が利く。――そう思ったのも束の間、次の問いで台無しになる。


「えっと……白依様は、お食事を取るのでしょうか?」


こいつは白依を何だと思っているんだ、と一瞬だけ思う。

すぐに、呆れ半分で思い出した。


(……ああ。神だと思っているんだったか)


白依はため息を飲み込み、短く返す。


「食べる」


その瞬間、哀の表情がぱっと明るくなった。

緊張がほどけるというより、“許された”ような安堵が先に出てしまった顔。


「よかった……」


小さく零してから、哀は慌てて言い直すように続けた。


「お口に合うか分かりませんが、色々買ってまいりました」


そして包みを机の上へ置き、次々と中身を並べていく。

不思議な材質の器。色のついた包み。甘い匂い、塩の匂い、油の匂い――空気が一気に“人の朝”に染まっていった。


見慣れない食べ物が机いっぱいに並ぶ中で、白依は――その中でもまだ“形”を知っているものを手に取った。


おにぎり。


三角の塊が、つるつるした薄い包みに覆われている。

白依はそれをじっと観察する。どう剥がすのか。どこから開くのか。触れば触るほど、包みの感触だけが指先へ残って、要領を掴めない。


その様子を見ていた哀が、遠慮がちに口を出した。


「白依様。このようにすれば……食べられますよ」


そう言って、哀は包みの端を摘まみ、迷いなく引いた。

するり、と音もなく薄い膜が割れ、綺麗に形が露わになる。器用な手つきだった。


白依は無言でそれを見て、同じようにやってみる。


――だが。


包みを引く力が僅かに強かったのか、角が少し崩れた。


一瞬、眉間へ熱が集まる。

ほんの些細なことなのに、妙に癪だった。


けれど、哀の視線があるのを感じる。

期待と緊張が混じった、あの生暖かい――いや、違う。確かめるような目。


白依は何も言わず、崩れたままおにぎりへ齧りついた。


次の瞬間。


目が、見開かれる。


(……うまい)


塩でも米でもない。けれど、確かに米の甘みがある。

中に潜む具の味。油の香り。柔らかいのに噛み応えのある食感。

千年前に食べていたものとは、まるで別物だった。


白依は黙ったまま二口、三口と飲み込み――気づけば、二個目へ手が伸びていた。


今度は、包みも上手く開けられた。

白依の口元が、ほんの僅かに満足げになる。


哀はその変化に気づいて、胸の奥が緩むのを抑えるように息を吐いた。

焔羅も哀に開けてもらった唐揚げなるものを前脚を器用に使い、口いっぱいに頬張りながら尻尾の火をぱちぱち弾かせている。


やがて、三人とも食事を終えた。


机の上に残るのは、空になった包みと、軽い匂いだけ。


その沈黙を破るように、焔羅が口を開いた。


「主。これからどうしますか? 黒杖家を潰しに行くんですか?」


呑気な声だった。無邪気に、次の遊びの相談でもするかのように。


その言葉を聞いた瞬間――哀は、ほんの少し身体が強張るのを感じた。

背筋が固くなり、指先が一瞬だけ冷える。


白依の赤い瞳が、静かに焔羅と哀を捉える。

部屋の空気が、また少しだけ重くなった気がした。


「――まずは、力を得る」


白依は淡々と言った。

机の上に残った包みを視界の端へ追いやるように、視線を窓の方へ流す。


「妖や霊を……吸収する」


その一言に、哀と焔羅が同時に固まった。


「……え?」


焔羅の間の抜けた声。

哀も同じ顔をしている。言葉が出ない、というより“理解するのを拒む”ような表情だった。


白依は二人を見ず、続ける。


身体の変化のひとつ。

黒かった焔羅を身体へ呼び込んだ時、初めて知った。


妖や霊は、取り込める。

ただ取り込むだけではない。――噛み砕き、潰して、己の内へ溶かす。


それで力を得る。


白依は息を吐き、言葉を選ぶでもなく事実を並べた。


「白依も、焔羅を取り込んだ時に初めて知った。妖や霊は……取り込み、噛み砕けば、力にできる」


焔羅が「我、噛み砕かれたの!?」とでも言いたげに目を見開くが、白依は構わず続ける。


「今の陰陽師――いや、“災位保持者”だったか」


そこで一拍置く。

哀の説明を思い出し、呼び方だけを修正する。


「それがどれ程の力を持っているのか、分からない」


白依の声が、少しだけ低くなる。冷える。


「分からないなら、備えるしかない。じじい程の力――もしくは、それ以上が必要になる」


言い切った白依は、ようやく二人へ視線を戻した。


哀は覚悟を決めたような目をしている。

焔羅は、先程までの呑気さが消えて、尻尾の火が小さく揺れた。


哀が、ふっと息を整えてから口を開いた。


「――それでは、まず服を買いに行きましょう」


声音は真剣そのものだった。

冗談でも、取り繕いでもない。白依の“次”を現実へ落とし込むための提案。


けれど、あまりに唐突で部屋は静寂に包まれた。


――――――――――


宮城県某所――黒杖家本邸・工房。


日が登り始め、薄く世界が照らされる時間。

カンッ、カンッ。

鋼を打つ音が梁を伝い、工房の奥まで澄んで木霊した。


炉の腹は赤く裂け、揺らめく灯りが壁の煤を照らす。熱気は肌にまとわりつき、息を吸うだけで喉の奥が乾く。だが、それ以上にこの場所を満たしているのは――温度ではない。


声になりきれない呻き。

唸りとも、祈りとも、呪いともつかない、湿った気配が常に漂っていた。


筋骨隆々の男が、炉の前に立っている。

槌を握る手は分厚く、指の節は硬い。袖口から覗く皮膚には、おびただしい古傷と火傷の跡が走り、血の気のない肌に影のように沈んでいる。


男は無言で鋼を叩き続けていた。

一定のリズム。迷いのない角度。叩くたび、火花が散って床を跳ねる。


――カン。


その音が、唐突に途切れた。


槌がぴたりと止まる。

工房の空気が、一瞬だけ重さを増したように感じた。


男は顔を上げない。

けれど、黒く濁った瞳だけが鋭さを増し、熱の揺らぎの向こう――何かを“聞いた”ように細まる。


「……」


言葉は落ちない。

ただ、胸の奥で何かが一度だけ鳴った気配がした。


次の瞬間。


カンッ、カンッ。


再び槌が振り下ろされる。

先程までと同じはずのリズムが、ほんの僅かに――硬く、冷たく変わっていた。


――――――――――――


大分県――言祝家本邸。


まだ朝露が滴る浅い時間。山の稜線を切り取るように、空が遠い。

雲は薄く、風は乾いて、鳥の声すら妙に間が空く。


本邸の奥。

人の出入りが少ない廊下の先にある、古い縁側。


そこに、災位保持者が一人。


気だるげに背を預け、片膝を立てたまま、はるか遠くの空を眺めている。

表情は動かない。眠そうにも見えるし、退屈そうにも見える。――けれど目だけは、どこか“合っている”。


耳にはヘッドホン。

外界を遮るはずのそれを付けたまま、それでも彼女は、遠い遠い“ざわめき”を逃していなかった。


空の向こう。

海の向こう。

もっと向こう。


言葉にする前の“気配”が、風の流れと一緒に肌を撫でていく。


彼女は小さく、鼻で息を吐く。

まるで、面倒事の匂いでも嗅いだかのように。


「……僕も、かな」


独り言は音になりきらず、喉の奥で消えた。

それでも――縁側の板が、ほんのわずかに軋んだ。


言祝の家は、言葉で縛り、言葉で救い、言葉で殺す。


その家の空気が、静かに“準備”へ傾く。


彼女はヘッドホンの端を指で軽く弾き、目を細めたまま、なおも空を見つめ続けている。

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