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8.非番の昼下がり


 薬屋の前を通りかかったユリスは、ふと立ち止まった。

 小柄な老婆が、杖をつきながらゆっくりと店の扉へ向かっている。その足元を、黒猫がぴたりと寄り添うようについて歩いていた。


「またあの猫……」


 小さくつぶやいたユリスの眉が、わずかにひそめられる。

 最近、なぜかやたらと目に入る――あの黒猫。

 別に珍しくもない猫なのに、見かけるたびに胸のどこかがざわつく。


 老婆が薬屋の中へと姿を消すと、猫はその場に残り、入口の前でちょこんと座った。まるで誰かを待っているかのように、じっと。


 ユリスは手に持っていた小さな紙袋を見下ろした。

今日は久しぶりに、街のカフェでサラと会う約束だった。

 だけど――どうしても気になってしまう。


(悪いな、サラ)


 掲示板に伝言を残し、ユリスは猫の後を追うことにした。


 やがて店から出てきた老婆に猫がぴたりと寄り添い、二人――いや、一人と一匹は、人通りの少ない道を歩き始めた。

 その足取りは迷いがなく、まっすぐに西の森のほうへ向かっている。


(まさか……)


 先日、エルヴィンが訪れたあの一軒家が頭をよぎる。そんな偶然があるだろうか?

 けれど、ユリスの勘が告げていた。これは偶然なんかじゃない、と。


 森の小道を抜けると、見覚えのある屋根が見えた。

やはり、あの家だ。


「一緒に住んでる……?」


 ぽつりと漏れた声を風がさらう。

 そのとき、老婆が足を止めた。家の前でふと立ち止まり、そっとフードを外す――その瞬間、ユリスは目を疑った。


 そこに立っていたのは、老婆ではない。

 あの時、エルヴィンと親しげに話していた金髪の女性だった。


(変わった?……いや、変身した?)


 自然すぎて一瞬見落としかけたが、間違いない。

 たしかに、老婆の姿だったのが、いつの間にか、彼女になっている。


(まさか……魔女?)


 背筋にぞわりと冷たいものが走った。

 信じたくない、でも目の前で起きたことを否定できない。


 黒猫が女性の足元に絡みつく。彼女は慣れた手つきでその背を撫で、静かに扉の中へと入っていった。


 ユリスは、その場に立ち尽くすしかなかった。


(エルヴィンは……知っているのか?)


 考えがまとまらない。

 だが、ひとつだけ確かなのは――

 この一件は、自分が思っていた以上に深い何かに繋がっている。


 小枝を踏まぬよう、ユリスは森の影へと身を引いた。

 そして息を殺し、音もなくその場を後にする。


 向かう先は、エルヴィンのもと。

 答えを聞かせてもらうために。





 昼の合図を示す鐘が響く頃、エルヴィンの部屋の扉が激しく叩かれた。


「エルヴィン! 開けろ!」


 扉越しの声に覚えがあった。だが、その声音には明らかに怒りが滲んでいる。


「……ユリス?」


 扉を開けると、ユリスが立っていた。険しい目つきで、黙って中を覗き込むようにしている。


「話がある。中で話そう。……聞かれたらまずい」


 エルヴィンは少し目を細めたが、すぐに頷きユリスを部屋に招き入れた。

 ドアが閉まると、昼の明るさとは裏腹に、重たい空気が二人を包んだ。


「……知ってたのか?」


「何の話だ」


「とぼけるな!」


 ユリスが一歩踏み込む。


「君が、あの女と会ってることだよ!」


 エルヴィンはわずかに眉をひそめ、言葉を探すように一瞬視線を落とし、肩をすくめた。


「……女性と会ってたって、別に悪いことじゃないだろ」


「それだけだったら俺も応援するさ!」


 声を荒げるユリスの目が、ほんの一瞬、悲しげに揺れた。


「だけど、あの人……魔女なんじゃないのか?」


 エルヴィンの瞳が鋭くなった。声を出しかけて、ぐっと飲み込み、しばらく押し黙る。


「っ……なぜそう思うんだ」


「見たんだ」


 ユリスは息を詰めながら言った。


「老婆が、目の前で――若い女性に変わるのを。人目を忍ぶようにしてね。あれは……人間の技じゃない」


 エルヴィンは、まるで何かを決断するように目を閉じ、それからゆっくり息を吐いた。


「そうか。……見たのか」


 そして、目を開けて静かに言う。


「そうだ。あの人は魔女だ。――だからなんだっていうんだ」


「だから? 君、正気か! 魔女だぞ? 何をするかもわからない存在だ。お前は――騙されてるんだよ!」


「騙すって……何をだ」


 エルヴィンは唇を結び、拳を握りしめる。


「俺は、自分の目で見てきた。彼女が何をして、何をしていないか。彼女の言葉、態度、力……全部、誤魔化しのようには見えなかった」


 一瞬、口をつぐみ、それから自嘲するように笑った。


「尊敬しているんだ。あの人を。……気にもかけてる。そう、たぶん……惹かれているのかもしれないな」


 静寂が落ちた。


 ユリスの顔から色が失せた。何かを言いかけ、唇を震わせたが、結局何も言わず、目を逸らした。


「……見損なったよ」


 ユリスは唇を噛み、鋭い視線を投げつけてから踵を返した。残されたエルヴィンは、その背中を追おうとしなかった。


 ただ一人、窓から差し込む光の中に立ち尽くす。その光はどこか冷たく彼を照らしていた。






翌日、バディは解消された。


 エルヴィンとユリスが担当していた巡回ルートには、別の二人が割り当てられた。

 誰に何を問われても、「少し馬が合わなくなってな」と、それぞれが口を揃えてそう言っただけだった。


 エルヴィンは淡々と任務をこなしていた。いつもより少しだけ口数が少なく、笑顔も影を潜めていたが、業務に支障をきたすことはないかった。

 だが、彼を知る者ほど、その静けさに違和感を抱いた。


 一方で、ユリスは目に見えて調子を崩していた。以前のような覇気はなく、何かを背負っているような、沈んだ目をしていた。

 誰もが心配しながらも踏み込めずにいたが、一人だけ違った。


「ユリス、ちょっと付き合え」


 呼び止めたのは、団長だった。

 入団当初からよく気にかけてくれていた、面倒見のいい先輩。

 人目のない会議室へユリスを呼び、椅子に腰かけると、静かに切り出した。


「エルヴィンと、何かあったか」


「……別に。今まで一緒にいすぎただけで、これが普通なんです」


「そうか。だがな、お前が元気ないのは誰の目にも明らかだ。周りはみんな、心配してるぞ」


 沈黙が落ちる。

 しばらくの間、ユリスは視線を落とし、何かをぐっと堪えるように息を詰めた。

 やがて、堰を切ったように口を開いた。


「……実は」


「うん」


「エルヴィンのやつ……魔女に心を奪われているんです」


 団長の眉がわずかに動く。


「魔女、だと?」


「見たんです。あの女が、老婆の姿から若い女性に変わるのを。見間違えなんかじゃない。絶対に、魔女です。エルヴィンは……騙されてるんです!」


 言い終えたあと、ユリスは深く息を吐いた。ようやく言えた、というように。


 団長はしばらく黙っていた。

 だが、やがてゆっくりとうなずいた。


「……打ち明けにくいことを言ってくれて、ありがとう。あとは、こちらで対処する」


「ありがとうございます」


 ユリスはようやく肩の荷が下りたかのように、静かに頭を下げた。


 だが、彼の知らぬところで、水面に投げられた小石は、想像以上の波紋を広げ始めていた。


 衛兵団の空気が、わずかに変わった。

 密やかに、けれど確実に──ざわめきが広がっていた。


 エルヴィンが、魔女に心を奪われている。

 その魔女は、街に潜んでいる。

 放っておけば、危険なことになるかもしれない。


「見つけ出して、捕らえるべきではないか」


 そんな声が、いつしか囁かれ始めた。


 ユリスの告白は、密やかだったはずだった。

 だが、それは確かに、衛兵団という組織に小さな火種を植え付けてしまった。



 団長は「慎重に調査するように」と通達を出していたが、噂というものは、言葉よりも速く、強く、まるで風のように街を駆け巡り、人の心をざわつかせた。

『魔女が街にいるらしい』『若い衛兵が騙されているそうだ』――そんな話が、井戸端から店先へ、通りの影から人の口を介して広がっていった。


 誰とは名指しされていない。だが、誰もが心のどこかで、心当たりを探し始める。

『あの人じゃない?』『前からどこか怪しいと思っていたんだ』

 魔女らしき人物にされた者たちは、人々の視線を避けられ、ひそひそ声とともに距離を置かれていった。


 ユリスは焦りを感じ始めていた。


(こんなつもりじゃなかった)


 自分の中では、衛兵団に知らせれば、冷静に対処してくれると信じていた。だが現実は違った。歯車は思わぬ方向に回りはじめていた。

 団長に何度詰められても『魔女の居場所は知らない』とだけ答え、口を固く閉ざした。


 そんな中、モルカの姿で街を訪れたセレナは、空気の変化にすぐに気づいた。

 街の人々がどこかそわそわと落ち着かず、誰もが周囲を気にするように歩いている。まるで、自分の隣に魔女が立っているかのような不安と疑いが漂っていた。

 セレナは薬屋に薬草の束を納品し、店主と短く言葉を交わしたあと、足早に街をあとにしようとした。


 だが、通りを曲がった先で、衛兵団の若い団員に声をかけられた。


「すみません、少々お尋ねします。お住まいはどちらですか?」


「街の外れの方だよ」


 モルカは穏やかな声で答えたが、衛兵の目にはわずかな警戒がにじんでいた。

 一瞬、声の調子を変えるか、いつものように霧の魔法で視線を逸らすか、考えかけたそのとき――


「東の森に魔獣が出たぞ!」


 別の衛兵団員が駆け込んでくる。声をかけてきた団員は顔をしかめ、周囲を見渡した。


「ここはひとまず、後回しだ」


 モルカの顔を見返しながらも、衛兵は仲間とともに騒ぎのほうへと走り去っていった。


 街中の人々が、慌てて家へと戻っていく中、モルカはざわめきに紛れ、フードを目深にかぶり直し、ひっそりと西の森へと姿を消した。


(この街…何かが変わってる)


 セレナの胸に、冷たい不安が広がり始めていた。彼女の足音は、静かな森の奥へと消えていった。


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