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6.真夏の森


 空を仰げば、葉の合間からじりじりと陽光が降り注いでいた。

 蝉の声が耳の奥で響き、湿った空気が肌にまとわりつく。


 その中を、ひとりの女性が歩いていた。

 腰まで伸びた金色の髪を後ろで結い、白いワンピースだけの軽装。普段は羽織るローブも、今日は身に着けていない。暑さがそれだけ苛烈だった。


 小さな籠を片手に、彼女――セレナは薬草を摘んでいた。

 葉の形や茎の色を一つひとつ確かめながら、手慣れた様子で丁寧に摘んでは籠に収めていく。


 (あと少し……ロシュノの花が欲しい)


 その薬草は熱を下げる効能があり、夏場にはとくに重宝された。

 けれど、日当たりの良い場所にしか育たず、採取の際には熱と湿気との戦いになる。


 セレナはひたいの汗を拭いながら、少しでも陽を避けるように木陰を選んで進んでいたが、視界が少しずつぼやけていることに気づいていた。


(……おかしい)


 手先が震え、体が重くなる。呼吸が浅く、視界が揺らぎ始めた。


「っ……」


 ふらりと足がもつれ、セレナの体は地面に崩れ落ちた。

 手から籠が落ち、薬草がぶちまけられる。


(……しまった。熱中症……?)


 思考が途切れそうになる中、金色の瞳がこちらを見つめていた。

 ノク――黒猫が、心配そうに寄り添ってくる。


「……ノク……ごめん……」


 かすれた声でつぶやいたあと、セレナは静かに意識を手放した。


 ノクは一瞬、セレナを見つめて硬直したが、すぐに飛び起きて森を駆け出した。

 迷いなく、一直線にある人物のもとへ向かうように――。



―街道沿い・巡回中


「この炎天下に巡回って……」


 ユリスが腰に手を当てて伸びをしながら、すでに汗でへたりかけている襟元を引っ張った。


「そう言っても、俺らの仕事だからな」


 エルヴィンは淡々と答える。

 その声は涼しげに聞こえるが、彼の襟元も汗でしっかりと色が変わっている。


 「せめて午前と午後に分けるとか、日陰ルートを設けるとか……改革の必要があるって思わない?」


 そんな軽口を叩いていた時、


「……ん?」


 ユリスがふと、視線の先にある影を見つけた。

 石畳の上を、黒猫がこちらに向かって走ってくる。


「猫……?」


 目を細めたユリスの隣で、エルヴィンがその姿を見て息を止める。

 黒猫は真っ直ぐにエルヴィンに向かい、足元に立ち止まると――


「ニャア」


 と短く鳴いた。


 その一瞬、エルヴィンの表情が凍りついた。

 緊張と焦燥が顔に浮かび、目に見えない危機を悟ったようだった。


「……俺、行かなきゃ」


「え? ちょ、おい! 待って!」


 ユリスが腕を伸ばす間もなく、エルヴィンは駆け出していた。

 ノクが振り返り、何度かしっぽを振って合図するように走っていく。


(なんだ……? 今の猫……いや、それよりも……)


 エルヴィンの反応は明らかに“何か”を知っている者のそれだった。


「黒猫、それを追いかける……」


 ユリスは一歩踏み出しかけて、足を止めた。


 胸の奥で、何かがざわついている。

 エルヴィンの“向かう先”に対する漠然とした疑念。それが確信に変わるまで、もうそう遠くないように思えた。



 エルヴィンは息を切らしながら森を駆け、目を凝らす。


(セレナ……セレナ!!)


 ノクがくるりと方向を変え、ある木陰の根元で止まった。


 そこに、白い姿が倒れていた。


「セレナっ!!」


 駆け寄った彼は、すぐに脈を取り、額に手を当てた。

 肌は熱く、顔は真っ赤だ。呼吸は浅く、不規則。


「くそっ、やっぱり……!」


 水筒の水を少しずつ口元に運び、首筋や額を冷やす。

 けれど、こんな処置だけでは足りない。


「――もういい、運ぶしかない!」


 彼は迷わず、セレナの体を抱え上げた。




 やっとの思いでセレナの家まで運び込むと、寝台に横たえ、冷水で手足を冷やし続ける。

 ノクは薬棚から何かを咥えて持ってくるたびに、エルヴィンが頷いて受け取った。


 部屋の空気は、じりじりとした焦燥と祈りの混ざった沈黙で満たされていた。


 そして数時間後――


「……ん、んん……」


 セレナがうっすらと目を開ける。


「セレナ!」


 エルヴィンが身を乗り出す。


「ここは……私、倒れて……?」


「ノクが知らせてくれた。間に合ってよかった」


 しばらく黙って天井を見つめていたセレナが、かすかに呟いた。


「……昔から言われてたの。『魔女は、自分の身体は自分で守れ』って」


「どうして? 医者にかかれば――」


「医者にはね、魔女の不調が見えないの。『どこも悪くない』って言われて終わり。魔女の身体は本能的に弱さを隠すようになってるんだって」


 そう語る横顔は、どこか遠い場所を見ているようだった。


「……今日も、自分の体調くらい自分で管理できるって、たかを括ってた。情けないわ」


 エルヴィンは静かに言った。


「じゃあ――これからは俺を呼んでくれ。薬草採りに行くときも、森へ入るときも。……また倒れられたら、困るから」


 セレナの目が、ほんの少しだけ見開かれる。


「……あなた、本当に……」


「しつこい性格なんだ。だから言うけど、遠慮は要らない」


 数秒の沈黙ののち、セレナはぽつりと笑った。


「……じゃあ、次回は一緒に。薬草、手伝ってくれる?」


「もちろん」


 柔らかい風が、森の小さな家を通り抜けた。





 翌日、陽が高くなる前の時間を選んで、二人は森へ入った。

 昨日の熱の余韻が残るセレナを気遣い、エルヴィンは時折立ち止まって様子を見ながら歩いた。


「本当に、無理はしないで。今日じゃなくてもいいんだろ?」


 そう言いながらも、彼の手には小さな籠が握られていた。

 慣れない動作でも、枝をかき分ける手つきは真剣そのものだった。


「……今日は、ロシュノの旬の終わりなの。明日だと、花が閉じてしまう」


 セレナは帽子のつばを指で押さえ、そよ風を感じながら前を歩いていた。

 昨日とは違い、薄手のブラウスに涼しげなズボン姿だが顔色はまだ青白い。


「だったら、なおさら俺がついてきて正解だったな」


「……ええ、たぶん」


 素直に礼を言うのはどこか気恥ずかしいようで、セレナは視線を草むらに落としたまま応じた。


 しばらく歩いた先、小さな陽だまりに淡い紫色の花が群れて咲いている場所を見つけた。

 セレナはひざをつき、一本一本丁寧に花を摘みはじめた。彼女の手つきは儀式のようで、一切無駄がない。


「それが……ロシュノ?」


「うん。日差しの強い日を好む花。だから、採れる時期はすごく短い」


 エルヴィンも隣にしゃがみ、見よう見まねで花を摘んでみる。けれど、うまく根本を切れずに茎を潰してしまった。


「……うわ、これ、けっこう難しいな」


「ふふ。優しく指で撫でるように、茎をなぞって、切り込みに沿って」


「撫でる……?」


 セレナの手がそっと、エルヴィンの手に重なる。

 温かく、柔らかく。指先で軽く導くように動かされる感覚に、エルヴィンの心臓が跳ねた。


「……こう、ね」


「あ……ああ、なるほど……!」


 目を逸らすようにしてエルヴィンは笑い、セレナも静かに手を離した。


 ふたりの間に生まれた沈黙は、どちらかといえば心地よいものだった。

 森の静寂に蝉の声が混じる中で、かごの中に紫の花が少しずつ増えていく。


「……最初は、あなたが西の境を通るたび、正直、困ってたの」


 摘み取りの手を止めて、セレナがぽつりと呟いた。


「でも……こうして一緒に花を摘んでる今は、ちょっとだけ、悪くないなって思ってる」


 その言葉に、エルヴィンは短く息を呑んだ。

 だがそれ以上、何も言わなかった。ただその言葉を、静かに胸の中で繰り返した。


 ――悪くない。


 もう一度彼女がそう思ってくれるように、自分はこの森を歩いていこう。

 そんな想いが、そっと胸の奥で芽吹くのを感じていた。


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