5.衛兵団詰所
詰所の扉が開くと、昼の巡回から戻ったエルヴィンが無言で足を踏み入れた。赤茶の髪が風に乱れていたが、彼はそれを意に返さず、静かに自分の席へと腰を下ろす。
その様子を横目で見ていたのは、銀髪を襟足に束ねた青年――ユリスだった。陽光に揺れるその髪は、詰所の中でもよく目を引いた。彼は団の中でも一際目立つ存在で、どこか中性的な色気を纏っている。
「ねえ、エルヴィン……最近、よく巡回って言って街の外に出てるよね」
からかうような口調で話しかけながら、ユリスは片肘を机につき、気怠げに笑った。
「……仕事だからな」
エルヴィンはそう答えるだった。額に落ちた赤茶の髪を指で軽く払う仕草が、どこか几帳面に見えた。
「巡回、ねぇ……ふーん。なんか最近、雰囲気変わった気がしてさ。君に女の影なんてこれまで一度も感じたことなかったのに」
茶化すような声とは裏腹に、ユリスの視線はどこか心配げだった。
「……別に何もないよ」
「だったらいいんだけどさ。まあ、変な相手じゃなきゃ俺は応援するよ? ただ、君って本気になると一直線でしょ。だから、ちょっと気になってさ」
エルヴィンは応えなかった。けれど、その目の奥に、一瞬だけ浮かんだ微かな揺らぎに、ユリスはなにかを感じ取った。
「ま、何もないならいいや。俺は近衛のリタさんに呼ばれてるんでね、行ってくる」
ユリスは軽やかに手を振って、銀髪を揺らしながら詰所を出ていった。
残されたエルヴィンは、少しだけ背もたれに寄りかかり、黙って窓の外を見やった。森の方角にある空が、ほのかに茜色に染まり始めていた。
⸻
翌日
「また東の方?」
ユリスが横に並びながら尋ねる。巡回ルートの話だ。最近のエルヴィンは、ほぼ毎日のように東側の森ばかり回っていた。
「西の森は、大丈夫だから」
エルヴィンは短くそう答えた。
「なぜ、そう言い切れるの?」
問い返したユリスの声に、少しばかり探るような色が混じる。
だが、エルヴィンは一瞬口をつぐみ、それをごまかすように軽く笑った。
「まあ……今のところ何の報告もないし。巡回ってそういうもんだろ?」
それきりだった。
けれど、ユリスの中にひとつ、靄のような小さな違和感が残った。
東の森を歩くエルヴィンの足取りは、どこか軽かった。
任務をしているという自覚はあるのに、心のどこかが緩んでいる。
……きっかけは、あの日だった。
「西の森は大丈夫だから」――あの言葉を自分に託した彼女。
森に差す斜光が揺れるたび、金色の髪がふわりと揺れたあの姿が、脳裏によみがえる。
(セレナか……)
心の中で名前を呟いた。
ただそれだけなのに、少し心臓が早くなる。
魔女。
世の常識では恐れられ、存在すら半信半疑で語られる異端。
けれど――
(俺には、彼女がただの“人”に見える)
静かに、けれど確実に、エルヴィンの中で彼女への想いは輪郭を得つつあった。
風に揺れる枝葉の音さえ、どこか穏やかに聞こえる午後だった。
***
―そのころ、森の家では
ちりり、と薬草を煮出す音が静かな室内に広がっていた。
「最近、あの人、よく来るようになったね」
窓辺で丸くなっていたノクが、体を伸ばすついでのように呟いた。
「……気づいてたの?」
セレナは視線を薬草に落としたまま、問い返す。
「うん。西の境のあたり、何度も通ってたよ。」
セレナは小さくため息をついた。
けれど、薬草の蒸気に紛れるように口元がわずかに緩んだことを、ノクは見逃さなかった。
「……あの青年、あなたにはどんなふうに見える?」
珍しくセレナの方から尋ねたその声は、薪がはぜる音に少しだけ紛れていた。
「素直で、誠実。あと、ちょっと不器用」
「ふふ……」
短く笑ったあと、セレナは薬草を瓶に詰め始めた。
その手の動きが、どこか必要以上に丁寧だった。
「……少しだけね。少しだけなら、関わってもいいのかもって……思ってる」
窓の外には、風に揺れる木々と、かすかな足音の残り香。
ノクは言葉にせず、ただ静かに尾を揺らした。
***
焼き菓子の香ばしい香りが、夏を知らせる日差しにゆるく溶けていた。
ユリスは任務の合間、広場の屋台で買ったそれを片手に歩いていた。
そこで、見知った後ろ姿を見つけた。
エルヴィン。
そして、その向かいに立っているのは――老婆。
この街ではどこか浮いた印象の女性。だが、その背中、あのローブ。
(……あれ?)
記憶の奥底にある出来事が、ひとすじの光となって浮かび上がる。
王の生誕祭の日、あのコーヒー騒動の――老婆だ。
ユリスは眉をひそめた。
あの時の老婆と、今、エルヴィンが話しているこの老婆。
印象こそ曖昧だが、どこか似ている。だが、エルヴィンはごく普通に、むしろ親しげに言葉を交わしていた。
(どういう関係だ……?)
その時はそれ以上詮索しなかったが、ユリスの胸の奥には、小さな棘のような違和感が刺さったままだった。
エルヴィンの変化。巡回の選び方。西の森に対する妙な確信。
そして、老婆との親しげな会話。
点と点は、まだ線にはならない。けれど――
ユリスの中で何かが静かに蠢き始めていた。