4.西の森
迷っていた。
子供の容態はどうだったのか、薬が効いたのか。伝えに行くべきなのはわかっている。けれど、彼女がそれを望んでいるのかどうか――それがわからなかった。
そんなとき、衛兵団に新たな報せが入った。
「街に魔獣の気配がある。森から下りてきてるらしい」
街の者たちの間に、不安が走っている。
彼女の住まいは、西の森の中――。
しばらく逡巡したのち、青年は足を森へ向けていた。
木々を抜け、ひっそりと佇む家が見えてくる。
それなりに整えられた造りだが、どこか慎ましく、人の気配はなかった。
留守か。
青年は扉の前で少しだけ躊躇ったが、すぐに思い直して森へ足を踏み入れた。
薬草を採りに出ているのなら、このまま何も伝えずに帰るわけにはいかない。もし魔獣と出くわせば、それこそ危ない。
森の奥へと入ってしばらく、風に揺れる葉音の合間に、小さな毛づくろいの音が混じった。
ふと見上げた先に、黒猫が一匹。
草陰の中、凛と座って身づくろいをしている。気品を纏ったその佇まいは、森に溶け込みながらも、不思議と目を引いた。
だが、黒猫の背後。
藪を押し分けて、ずっしりとした足音が近づいてくる。
魔獣だ。低く唸るような気配が、空気をざらつかせる。
黒猫はまだ気づいていないように見える。
青年は剣の柄を握った。
考えるより先に、体が動いていた。
茂みから飛び出し、一気に魔獣との距離を詰める。
剣を振るう――鋭く、重く。
刃が魔獣の脇をかすめ、甲高い悲鳴を上げて、魔獣は驚いたように森の奥へと逃げていった。
息をつく青年の前に、黒猫がひらりと跳び降りてきた。
「……あんな下級魔獣、ボクでも倒せたけどね」
涼しげな声で、しかしどこか苛立ちを隠すように言う。
そのとき、木々の間からもうひとつの足音が響いた。
草を分けて現れたのは、金の髪を風にそよがせたあの女性。
薬草の袋を抱え、表情にわずかな驚きを浮かべていた。
「あなた、どうしてここに?」
青年は一歩進み、落ち着いた声で告げる。
「街に魔獣が出ているって報せがあったんだ。君の家が森の中だから……心配になって、様子を見に来た」
「街に魔獣が……?」
戸惑いの顔を見せる彼女。
「この森、西の森はね、魔獣が街へ降りないように、私が境目を見ているの」
「……君、ひとりで?」
青年は問う。
彼女は肯定も否定もしなかった。ただ、少し遠くを見ていた。
「誰も知らないけれど、誰かがやらなきゃいけないことって、あるでしょう?」
青年は何も返せなかった。
それはきっと、彼女が長い時間の中で、自然に引き受けてきた役目なのだ。
「だから、もし魔獣が出たっていうのなら――それはきっと、東の森。そっちは、私の目が届かない」
彼女は、遠くに向けた目を青年に戻した。
「巡回するなら、東を。できるだけ、気をつけて見てあげて。…お願い」
その声音は、命令でも、頼みごとでもなかった。
ただ静かで、けれど揺るがない芯の強さを帯びていた。
青年はは頷いた。
それが自然なことのように。
木々がそれを歓迎するかのように揺れる。
そして、青年は思い出したことを一つ。
「……あの、名前を教えてもらってもいいだろうか」
青年は、まだ彼女の名前を知らなかった。
「君が良ければ、でいい。薬屋が呼んでいた“モルカ”は……仮の名前だったみたいだから」
魔女はほんの少し眉を動かした。
問いかけの裏にある気配を探るように、青年の目を見つめる。
そして、一拍置いて答える。
「……セレナよ」
青年は静かに微笑んだ。
「エルヴィンだ。よろしく」
ふいに、二人の足元にいた黒猫が、ひとつ鳴いた。
毛並みを整えるのをやめ、尻尾をぴんと立ててこちらを見上げる。
「その子は……?」
セレナが視線を落とし、答える。
「ノク。私の使い魔」
「使い魔……」
エルヴィンは目を見開いたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、少しだけ口元が和らぐ。
それは驚きというよりも、ようやく点と点がつながったという安堵に近いものだった。
ノクはエルヴィンを一瞥したあと、しれっと木の根元に丸くなって座り、毛繕いを始めた。機嫌は、悪くないようだった。
ふと風が吹いて、木々の間から陽が差し込む。
その光の中で、セレナの金色の髪がきらりと揺れた。