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3.森の小さな家


 夜の森に、青年の足音だけが鳴っていた。

 道なき道を駆けてきた靴は泥にまみれ、息は乱れていた。

 それでも彼の目は、ただ一点を見据えている。

 灯りの洩れる、小さな家の扉。


 胸の内は焦燥に満ちていた。

 あの母親の絶望に濡れた目が頭を離れない。

 頼れる人は、もう――


 青年は扉を強く叩いた。


 数拍の沈黙の後、錠の外れる音がした。

 扉がわずかに開き、ローブの影から女が顔を覗かせた。

 淡い灯りが金の髪をかすかに照らす。


「……どうしてここが?」


 落ち着いた声。だが、わずかな警戒もにじんでいた。


「無我夢中で走っていたんだ……気がついたら、ここに来てた」


 彼女の瞳が揺れた。

 青年の額には汗が滲み、頬には乾いた泥がついている。

 それでも彼は、足を止めずに言葉を続けた。


「街の子供が……高熱を出している。

 今日に限って、医者も薬屋も街を離れていて……

 頼れる人が、他に思いつかなかったんだ」


 一拍。

 彼女は息を吸い、小さく頷いた。


「年齢と症状は?」


「八歳くらい。昼過ぎから熱が上がり、意識も朦朧としている。呼吸は浅い」


 彼女は何も言わず、棚の奥から薬草の束を抜き取った。

 手際よく包みを用意しながら、小さくつぶやく。


「向こうで調合する。……三分で出るわ」


 青年は静かに頷いた。


 黒猫が足元に擦り寄ってきた。青年をじっと見つめるその瞳に、まだ警戒の色は残る。

 彼女はしゃがみこみ、黒猫の額にそっと触れた。


「お願い、留守番してて」


 それだけを言うと、彼女はローブを肩に羽織り、立ち上がった。

 金の髪が揺れる――瞬間、その姿は、街で見かけた老婆“モルカ”に変わっていた。


 戸口を抜け、森の闇に消えていくその背を、青年は言葉もなく追いかけた。







 戸を叩くと、すぐに中から足音が近づいてきた。

母親の青ざめた顔が、戸の隙間から覗く。


 青年の姿を確認し、そしてその後ろに立つ老婆の姿を見て、一瞬不安そうに眉を寄せた。

 けれど、青年の目を見て、何かを悟ったように、すぐに戸を開け放つ。


「どうぞ……あの子は、奥で眠っています。熱が……まだ下がらなくて」


 老婆──モルカは黙って頷くと、肩の包みを持ち直し、家の奥へ進んでいった。


 薄暗い寝室には、小さなベッド。

 その上に、ぐったりとした子供の姿。

 額には熱の気配が色濃く、頬も異様に赤い。呼吸が早い。


 モルカは口を開かないまま、足元に膝をつき、薬草包みを広げた。

 手際は静かで、ためらいがない。


 乾いた葉をちぎり、小瓶に入れた水で濡らし、すり潰す。

 数種の根を調合しながら、香りと色を確かめていく。


 家の中には、すり鉢をこする音と、遠くで鳴く犬の声しか聞こえなかった。


 母親は、ただ両手のひらを胸の前で組んで立ち尽くす。

 青年は、その姿を傍らから静かに見守っていた。


 やがてモルカは、布に薬を染み込ませ、それを子供の額と胸元にそっと当てた。

 次に、湯気の立つ小さな瓶を母親に差し出す。


「これを……一匙ずつ。四時間おきに」


 低く、落ち着いた声。

 その口調に、母親はただ何度も頷く。


「……ありがとうございます」


 震える声で母親が言うと、モルカは何も返さず、そっと立ち上がった。


 そして、青年と目が合う。

 彼の瞳には、感謝と、どこか安堵のような光が浮かんでいた。

 だが彼女は、それに何も言わず、ただローブのフードを目深にかぶる。


「……私は、ここまで。あとはお願い」


 それだけ告げると、モルカは静かにその場を後にした。

 街灯の届かぬ夜道、彼女の姿はすぐに闇に紛れて見えなくなった。


 家を出たモルカの後ろ姿が見えなくなっても、青年はしばらくその方向を見つめていた。


 闇は深く、道の先に灯りはない。

 ただ夜風が木々を揺らし、彼の髪を静かになでていく。


 家の中から、小さな咳の音が聞こえた。

 青年はゆっくりと振り返ると、戸を静かに閉じ、寝室に戻る。


 子供は、先ほどよりも落ち着いた呼吸になっていた。

 額に当てた薬布の下には、うっすらと汗がにじんでいる。


「熱、少し引いたみたい……」


 母親が呟くように言った。


 青年は黙って頷いた。

 その目は、眠る子供から、机の上に置かれた小瓶へと向かう。

 月の光が差し込んだ瞬間、瓶の中の薬がほのかに琥珀色に光った。


 あの薬は、見たこともないものだった。

 けれど、確かに効いている。


 モルカ──いや、あの女性はやはり只者ではない。

 薬の調合、判断、そして動揺も見せずに成すその姿――

 「魔女」という言葉の持つ不穏な響きとは違って、そこにはただ、命に向き合う静かな気高さがあった。


(なぜ、彼女はこんな森の中で、ひっそりと生きているんだろう)


 ふと、そんな思いが胸をよぎる。


 誰かに追われているのか。

 あるいは、何かを隠しているのか。

 それとも――ただ、ここに居たいと願っているだけなのか。


 青年は、薬布をそっと新しいものに替える母親の傍に立ち、もう一度、眠る子供の顔を見た。


 そして、心の中で呟く。


(ありがとう)


 声には出さなかった。

 けれど、その想いは確かにあった。


 夜が深まるにつれ、家の中は静けさを取り戻していった。

 けれど、青年の心の中では、何かが静かに芽吹き始めていた。

 あの夜、森で出会ったあの人。

 変わるはずのない日常に、思いがけず踏み込んできた、ひとひらの魔法。

 まだ名も知らない、けれど確かにそこに在る「誰か」の存在が、彼の世界の輪郭を少しだけ変えようとしていた。


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