2.再開
森の奥、苔むした石畳を踏みしめ、風の音だけが通り抜ける静かな家。
その住人は、あの日から本当にしばらく、街へ出ていなかった。黒猫に釘を刺されたのもあるが、何より、自分でも少し心を乱されていたのかもしれない。
けれど、薬草を待つ者がいる。街の薬屋には今も、調合に必要な素材が届けられるのを待っている患者がいる。
放ってはおけない。
籠に薬草と薬効を書き記した紙束を詰め終えると、魔女は鏡の前に立った。
ローブを羽織り、顔の輪郭を歪ませ、背を丸めてしわを増やす。指先まで年老いた皮膚へと変えていく。
老婆の姿が、鏡の中にできあがった。
「行ってくるね」
黒猫は窓辺の陽だまりで尻尾を一度だけ振った。
街は、すっかり普段の顔を取り戻していた。
王の生誕祭の装飾は取り払われ、ざわめきもなく、日常の音が戻っている。
露店の跡は片付き、代わりに野菜籠を持った人々が、穏やかに行き交っていた。
薬屋は街の角にある、小さな木張りの店。
老婆が店へと入っていく。
薬草名、薬効、用法容量の説明をし、店をあとにしようと扉に手をかける。
「ありがとう!モルカさん、助かりました!またお願いしますね!」
「ええ、また来ますよ」
魔女が頭を軽く下げて店を離れようとした、そのとき。
「モルカさん、とおっしゃるんですね」
すぐ近くから、低く丁寧な声がした。
魔女は足を止め、ゆっくりと振り返る。
祭りの日の青年だった。礼儀正しく、真面目そうな顔に、あの日と同じまなざしが浮かんでいる。
老婆は目を細め、少しの沈黙のあとに言った。
「この姿のときはね」
そう言って微笑むと、魔女は薬屋の店先から踵を返して去っていった。年老いた背中に見えるはずのない、不思議な気品と輪郭が、青年の中に残る。
魔女──その言葉は、古い伝承や子ども向けの物語の中にあるものだと、誰もがそう思っている。知識としては確かに語り継がれているが、実際にいると信じている者はほとんどいない。だからこそ、街で見かける老婆の姿が魔女だなどと誰も疑いはしないし、また、そうであってはならないのだ。
もしも正体が知られれば、異端として突き出されかねない。過去に行われた魔女狩りの記憶は、人々の間に薄く残り続けている。時代は変わっても、根深い恐れだけは容易には消えない。
それでも、魔女たちは完全に孤独ではいられない。隠れるように生きながらも、人と関わり、時には助け、時には助けられながら、社会の隅で息をひそめるように暮らしている。寄り添いすぎず、離れすぎず。人の目に触れぬよう、その輪郭だけをそっと重ねるようにして。
目の前に現れた彼女も、そんな一人なのだろう。
青年は、その背中を目で追いながら、ふと胸の奥に重みのようなものを覚えていた。