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11.目を覚まして



 木組みの天井がぼんやりと揺れていた。

 少しだけ焦げた薬草の匂い。

 それは、救護室でいつも嗅いでいた香りとは、どこか違っていた。


 ──この香り……。


 エルヴィンはゆっくりとまぶたを持ち上げ、目を細めた。

 夏の終わりを思わせる、やわらかな光が差し込んでいる。

 その眩しさに目をしばたたかせながら、寝台の上で体の感覚を確かめた。


 動ける。息ができる。

 胸の痛みは、まだ少し残っているが……生きている。


「ようやく起きたか」


 横で声がした。

 椅子に腰掛けていたユリスが、腕を組んだままこちらを見ていた。


「……俺……」


「死にかけてた。けど、助かった」


「誰が……」


「“セレナ”って人だ」


「セレナが……? ……セレナが、ここへ来たのか……?」


 エルヴィンは息を呑んだ。

 思わず身を起こしかけて、まだ回復していない身体に重みを感じて横たわったままになる。

 セレナは、魔女だ。

 その存在が衛兵団に知られれば、どうなるか分からない。

 彼女の正体を守るために、あれほど気を張っていたというのに――。


「安心しろ」


 ユリスはその顔色を見て、すぐに言った。


「衛兵団の皆は、もう彼女を信頼してる。誰も追及しちゃいない。お前を助けてくれた。……それだけで十分だと、皆そう思ってる」


 エルヴィンは、目を伏せた。


(……あの人が、ここへ……)


 自分の正体がばれることも、命を狙われる可能性すらも覚悟のうえで、彼女は来てくれた。


「……すまなかった」


 ぽつりと、ユリスが言った。


「なにがだ」


「僕が……告げたんだ。彼女が魔女だってことを。あのとき、そうするべきじゃなかった。あの人は、本当の姿で君のもとへ駆けつけてくれた。それほど君のことを大切に思っていたんだ。僕は……本当に、悪いことをしたよ」


 エルヴィンは、微かに眉をひそめたまま、それでも顔を上げた。


「それは、俺じゃなくて彼女に言うべきだろ」


 ユリスは苦笑して、そっと目を伏せた。


「……そんなの、とっくに済ませてる。君が眠っていた間にね」


 ユリスの言葉を聞いて、安心したようにエルヴィンは、目を閉じた。

 薬草の香りが、まだかすかに漂っている。

 それが、彼女がここにいた確かな証だった。



 静かな病室に、ひぐらしの声だけが遠く響いていた。



***



 西の森には、すでに秋の訪れが色濃く漂っていた。


 朝晩はひんやりとした空気に包まれ、足元の落ち葉がさらさらと乾いた音を立てる。空はどこまでも高く澄み渡り、森の木々はほんのりと色づきはじめていた。風に舞う木の葉が光を受けて揺れるたび、まるで季節が何かを語りかけてくるようだった。


 エルヴィンは、ゆっくりと森の小道を歩いていた。 しばらくは安静が必要だと医師に言われていたが、外出許可が出たのは数日前。傷はまだ完全には癒えていない。歩くたびにわずかな痛みが走り、額には薄く汗が滲んでいた。


 それでも――行かねばならない、と思った。


 何度か通った道。記憶の中にあるその小さな家は、変わらずひっそりと森に溶け込んでいた。扉の前に立つと、控えめな香草の香りが鼻をくすぐる。あの日、目を覚ました時に感じた香りと同じだった。


 ノックをすると、ほどなくして扉が開いた。セレナは、落ち着いた表情でエルヴィンを見つめ、少しだけ眉を寄せた。


「来ると思ってたけど……あなた、まだ本調子じゃないでしょう」


「……バレたか」


 エルヴィンは苦笑しながら答えたが、声は少しだけかすれていた。セレナはため息をつき、扉を大きく開ける。


「中へ入って。無理して倒れられたら困るわ」


 彼女にうながされて椅子に腰を下ろすと、張っていた気がふっと緩み、体の重さを思い出す。セレナが差し出した湯気の立つカップを受け取りながら、エルヴィンは小さく息を吐いた。


「……礼を言いに来たんだ。あの時、助けてくれてありがとう」


 セレナはふっと目を伏せてから、窓の外に目をやった。ほんのりと紅に色づき始めた葉が風に揺れ、木洩れ日が静かに差し込んでいる。


「ただ……あなたには、生きていてほしかったの。――それだけよ」


 その言葉は、どこか暖かくて切なかった。

 沈黙の中で、カップを置く小さな音だけが部屋に響いた。


 ふと、エルヴィンの手がカップを持ち上げる瞬間、セレナの指先と触れた。ほんの一瞬のことだったが、彼女はわずかにまばたきし、その視線が揺れた。


「……もう少しここで休んでいくといいわ」


 セレナの声はそっと染み込むようだった。

 言葉以上に、その仕草や視線が、エルヴィンを気遣っていることを物語っていた。


 秋の森は静かで、穏やかで――

 何も変わらないようでいて、確かに何かが、少しずつ変わり始めていた。



──



 エルヴィンが顔を見せるたび、セレナはどこか困ったような顔をする。


「……本調子じゃないのに、無理に来てもらうと困るのよ?」


 いつものように玄関に立つエルヴィンを見て、セレナは手にした籠を抱え直しながら言う。


「それでも君に会いに来たくてね」


 とエルヴィンは肩をすくめる。


「この身体じゃ、衛兵団の仕事は無理だし、しばらく休みさ。何もしないより、こうして少し歩いて、君に会いに来る方がずっといい」


 ──もちろん、事務仕事ならとっくに復帰できるほどに体は回復している。

 けれど、どうしても足が向くのはこの森だった。

 彼女の笑顔を見たい、その気持ちが、少しばかりの“体調不良”を長引かせている。


「……仕方ないわね。今日は薬草を取りに行くんだけど、ついて来る?」


 セレナは小さくため息をつきながら、ほんのわずかに微笑む。

 それがエルヴィンにとっては、何よりの癒しだった。


 最初は花を摘みながらも、茎を折ってばかりいたエルヴィン。

 けれど、日を重ねるごとに、指先は不器用なりにも優しくなっていった。


「……ずいぶん上手になったわね」


「君のおかげさ」


 二人で過ごす静かな森の時間は、季節の移ろいと共にゆっくりと流れていった。


 だが、傷はすでに癒えている。

 セレナの作る薬も、淹れてくれるハーブティーも、その効果は確かだった。

 そろそろ、終わりが近い。



──


 その日の帰り道。森の小道を歩きながら、エルヴィンがぽつりとつぶやいた。


「もう少し、君といたかったんだけどな」


 セレナはその言葉に小さく笑って、


「また、そんなこと言って」


 と茶化す。

 でも、ふと顔を伏せた。


「……少し、寂しくなるわね」


 ノクが、エルヴィンの足元で「ニャア」と小さく鳴く。

 まるでその気持ちに応えるかのように。


──


 数日後。

 エルヴィンは衛兵団に復帰していた。

 バディは元のユリスに戻っていたが、顔を合わせた瞬間、彼はにやりと笑った。


「やっぱ俺の相棒はお前じゃなきゃな」


「そう言ってもらえると、戻ってきた甲斐があるよ」


 エルヴィンはそう言いながら、ふと、森の静けさと彼女の笑顔を思い出していた。


 ——そして、それは、終わりではなく、

 これから始まる想いの序章だった。



連載初投稿でした。

もし、気に入ってくださる方がいらっしゃいましたら、評価していただけると嬉しいです。


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