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10.東の森


 東の森に、魔獣の大群が現れた――

 その報せが詰所に飛び込んできたのは、日が傾きかけた頃だった。


「大変です! 魔獣が、東の森に……群れで出てきました!」


 伝令の兵の顔は青ざめていた。


 かつてない規模の魔獣の集団。

 その数に怯えながらも、衛兵団は即座に準備を整え、総出で森へと向かった。


 森の奥、湿った空気と獣の臭いが混じる中、視界の先で地を揺らして迫る影があった。

 十、二十ではない。獣の唸り声が混ざり合い、地鳴りのように響いてくる。


「来るぞ! 全員、構えろ!」


 エルヴィンが声を張り上げ、剣を掲げた。


 そして、戦いが始まった。


 魔獣の爪が空を裂き、牙が肉を狙って跳ねる。

 衛兵たちは盾を構え、必死に反撃するが、数が違った。

 森の奥から次々と湧き出す魔獣たち。

 その一頭一頭が、町を襲うには十分な脅威だった。


 仲間の一人が、魔獣の爪に足を裂かれ、倒れた。


「くそっ!」


 エルヴィンがすぐさま駆け寄った。

 倒れた衛兵を庇うように前に出て、剣を高く構える。


「下がってろ、ここは俺が――!」


 その瞬間、横手の茂みが揺れた。

 視界の外から、もう一頭の魔獣が跳びかかってきた。


 振り返る間もなかった。

 エルヴィンの脇腹に、魔獣の爪が深々と突き立ち、彼の身体は宙を舞い、地面へと叩きつけられた。


「エルヴィン―――!!」


 ユリスの叫びが響く。


 怒りに任せて、ユリスは前へ出た。

 仲間が止めるのも聞かず、血の滲む剣を握りしめ、目の前の魔獣に飛びかかる。


「エルヴィンに……手ェ出すな!!」


 一太刀、また一太刀――

 剣が深く肉を裂き、魔獣が呻く。

 倒れ伏したそいつの隣にいた魔獣もまた、ユリスの気迫に気圧されたのか、距離を取り始める。


 やがて、衛兵団の奮戦により、森に鳴り響いていた獣の声が途絶えた。

 地は血に濡れ、ところどころ木々は薙ぎ倒されていたが、魔獣たちはすべて駆逐された。


 戦いの後、負傷した者たちは次々と担架で運ばれた。

 血まみれの包帯、呻き声、すすり泣く者――

 その中でも、エルヴィンの容態は群を抜いて深刻だった。


「団長、エルヴィンが……!」


 脇腹から背中にかけての裂傷は深く、既に意識はなかった。

 医師がすぐに診察を始めたが、表情は厳しい。


「……命は、繋ぎ止めました。ただ、意識は……」


 医師は言葉を濁した。


「いつ目を覚ますか……それは、誰にもわかりません」


 ユリスは拳を握りしめた。

 喉の奥が熱くなり、何かを叫びたくなる。

 自分の目の前で、エルヴィンが――


(助けてくれる人がいるはずだ)


 森に暮らす、あの人。

 薬屋の店主が信頼していた魔女。


 ユリスは立ち上がった。

 迷っている時間はない。

 


 ユリスは彼女の元へと向かっていた。

 自分が蒔いた種だ。彼女に迷惑をかけたとわかっていながら、それでもこのお願いは間違っていると、何度も思った。

 けれど、もはや他に手段はなかった。


 病室で、深い傷を負ったまま眠り続けるエルヴィン。

 意識を取り戻す気配はない。まだ、ちゃんと謝れていない。

――どうか、また目を覚ましてくれ。

 あの頃のように、またバディとして並んでくれ。

『俺の相棒は、お前なんだ』

 そう、信じているから。


 東の森の奥、魔女の住む家へと辿り着いたユリスは、ためらいながらも扉をノックした。

返事はない。家の中はひっそりとしていて、まるで誰もいないかのようだ。


 だが、ここで引き返すわけにはいかなかった。

扉の前に立ち、声を張り上げる。


「衛兵団のユリスです! 東の森で魔獣の大群が現れ、エルヴィンが……重傷を負いました! どうか、力を貸してもらえませんか!」


 しばらくの沈黙のあと、扉の向こうでかすかな気配が動いた。

 ぎい、と軋む音とともに、ゆっくりと扉が開く。


 そこに立っていたのは、若い女性の姿をした魔女だった。肩には黒猫。短く、「ニャ」と鳴き、まるで“こいつと話すな”とでも言いたげに睨んでいた。


「エルヴィンが……?」


 彼女の声は静かで、けれど確かに揺れていた。


「はい。どうか、衛兵団の救護室まで来ていただけませんか。今すぐに」


 彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。


「わかったわ。準備する」


 手早く荷をまとめると、彼女はフードを深く被り、若い女性の姿のままユリスの後を追った。

 黒猫がひらりと肩を飛び降り、あとに続く。

 こうして、ユリスと魔女は、ふたたび同じ道を歩き始めた――エルヴィンを救うために。




 救護室の扉が軋んで開き、ユリスの後ろから若い女性──魔女セレナが姿を現すと、その場にいた者たちの視線が一斉に集まった。


「若い……女?」


 誰かが小さく呟いた。


 この国では、医療に関わる者といえば、経験を重ねた壮年の男たちがほとんどだった。人の命を預かるという責任の重さに加え、年齢と実績がそのまま信頼に繋がる。若い女性が医療の現場に立つなど、例がないわけではないが、患者や周囲の人間に不安を与えることが多いのも事実だった。


 だがセレナは怯まずに進み、重傷を負って横たわるエルヴィンの元へと歩み寄った。その動きは静かで無駄がなく、まるで長年の経験を持つ者のような正確さを感じさせる。


 彼女は手早く薬草を取り出し、調合を始める。淡い香りが立ちのぼり、不思議な静けさが部屋に広がる。 小瓶の中身を混ぜる音、包帯をほどく指先、その一つ一つが確かな手応えを持っていた。


「毒が、まだ体に残っている。早く対処しなければ」


 医者が訝しげに眉をひそめる。


「毒など……我々の診察では──」


「見えないのよ、普通の方法では。けれど、私は気づける」


 セレナはそう言い、エルヴィンの胸に手を当てる。目を閉じ、静かに彼の命に触れるような時間が流れた。やがて彼女は薬を唇に運び、額に冷たい布を乗せる。


「大丈夫。もう、危機は過ぎたわ。目を覚ますまでに少し時間はかかるかもしれないけれど……戻ってくる」


 彼女の声は冷静で、どこか祈りのようだった。


 その光景を見つめていた衛兵たちの間に、微かなざわめきが起きる。


「まさか、本当に……助かるのか?」


「今の手際、ただ者じゃないぞ……」


 医者の一人が、肩をすくめながら呟いた。


「……あんな若い娘に、できるはずがないと思っていた。だが……認めざるを得ないな」


 もともとセレナは、薬草を届ける際には老婆の姿をしていた。若い姿では、人々がその薬を信用しないと知っていたからだ。年老いた姿であれば、経験を積んだ者の言葉として受け入れられやすい。だからこそ、彼女はずっと『老婆』として人々の間にいた。


 だが、今。

 若い女性の姿のままで、目の前で命を救った。


 セレナが動くたびに、周囲の空気が変わっていくのが、ユリスにも感じ取れた。


 これまで『魔女を捉えるべきではないか』という警戒心がわずかに残っていた空気が、徐々に溶けていく。

 不信は、確信へと変わりつつあった。

 彼らはもう、彼女を『怪しい女』ではなく、命を繋いだ者として見始めていた。


 黒猫が彼女の足元で尻尾をゆっくり揺らしながら、小さく鳴いた。

 まるで、『遅いな、お前たち』とでも言いたげに。


 救護室を出ると、夏の終わりを告げる光が、やわらかく街を包んでいた。

 ざわつく声や足音は、扉の向こうに遠ざかっていく。


 ユリスは足を止め、振り返った。

 背後には、若い女性の姿をしたセレナが静かに立っていた。老婆の面影など、どこにもなかった。


「……ありがとう」


 ユリスは真っすぐ頭を下げた。


「命を救ってくれた。あんな場所に……敵陣のような場所に、わざわざ来てくれて」


 セレナは少しだけ目を伏せて、口元を緩めた。


「……あの人が死んだら、私も困るから」


 ぽつりと、そんなふうに言った。

 淡々とした言葉の奥に、ほんの少しだけ情がにじんでいた。

 それが誰のことなのか、ユリスにはすぐにわかった。


「……魔法だったな」


 ユリスはぽつりと呟いた。


 あの処置を、この街の者ができるはずがない。

 薬草の選別、傷の洗浄、止血の手際。

 すべてが的確で無駄がなかった。まるで“それを日常として生きてきた者”のように。


 けれど、それは天賦の才などではない。

 生まれながらに身につけたのではなく、誰かから、確かに伝えられた技術だった。

 薬草の知識も、命を繋ぐ術も。

 その“誰か”もまた、魔女だったのだろう。


「……俺が街の者に、“魔女がいる”と話してしまった。」


 ユリスは言いながら、悔しげに目を伏せた。


「すまなかった」


 セレナは少し目を見開いたが、やがて穏やかに首を横に振った。


「気にしていないわ。私が身分を隠していたのも、事実だから」


 そう言って彼女は、自らの姿を見下ろすように視線を落とす。


「街の人たちは、見た目で判断するもの。だから私はずっと老婆の姿でいたの。経験を重ねたように見せれば、薬も少しは信じてもらえるから……」


 だが、今日それを脱いだ。


「本当の姿じゃなきゃ、できない処置だったの。……今の私でなきゃ、あの人を助けられなかった」


 だから、迷いはなかった──セレナの瞳がそう語っていた。

 本来の姿をさらすことは、この街で生きていく上では大きな賭けだったはずだ。

 それでも彼女は、その命を助けることを選んだ。


 ユリスは、彼女をまっすぐに見た。

 恐れも、疑念も、もうそこにはなかった。


「……名前を、教えてもらっても?」


 ユリスの問いかけに、セレナは一瞬だけ戸惑ったようにまばたきをした。

 けれどすぐに、ゆっくりと頷く。


「セレナよ。ユリスさん」


 その名を残し、セレナは背を向ける。

 森の方角へ、静かに歩き出す。


 その肩に、いつの間にか黒猫のノクがふわりと跳び乗った。


 午後の陽が、木々の間からこぼれ落ちる。

緑の香りと薬草の匂いが、かすかに風に乗って通り過ぎた。


 ユリスはただ、彼女の背を見送っていた。

 あの薬屋にいた“老婆”は、

 やはり──ただの薬売りではなかったのだ。






 夕暮れを過ぎ、夜の気配が森の奥から忍び寄ってくる。

 蝉の声はいつのまにか止み、虫の音が静かに響いていた。


 森の小道を、セレナはひとり戻っていく。

 足取りは重くはなかったが、胸の奥には、乾ききらないものが残っている。

 黒猫がぴたりと歩を止めた。セレナの足元を見上げて、かすかに鳴く。


「……そうね。分かってるわ。あれは危険すぎた」


 誰に言うでもなく、セレナはつぶやいた。

 手に持った籠の中には、使いかけの薬草や小瓶が雑然と詰まっている。

 あれだけの医術を、あの街で見せたのだ。

 正体が露見したのも、もはや時間の問題だろう。


 だが、それでも――


「それでも、あの人が死んだら……私が困るのよ」


 そう言って、セレナは自分の手を見た。

 爪の間に、エルヴィンの血がわずかにこびりついている。

 水で洗っても、落ちない気がした。

 もしかすると、これからずっと、この手は彼の命を救った感触を覚えているのかもしれない。


 薬草の知識も、医術の技も――

 生まれながらにして持っていたわけではない。

 森の奥で、ある魔女からすべてを教わった。

 彼女がこの世を去るとき、セレナに言ったのだ。


「人は薬を信じるのではなく、薬を渡す者の顔を信じるのよ」


 だからセレナは、街に薬を届けるとき、老婆の姿で現れていた。

 若い女では誰も信用してくれない。

 経験を積んだ者に見えなければ、薬そのものが疑われる。


 ――それでも、今日は。


 本当の姿で現れた。

 本当の技術を見せた。

 そして本当の想いで、彼を助けた。


「セレナよ、ユリスさん」


 名乗るのに、迷いはなかった。


 そうして、彼女は小屋の扉を開けた。

 夜の森が、また静かに彼女を包み込んでいく。



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