表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

1.出会い


 王の生誕祭。

 一年で最も華やかな祝祭の日が、街を包み込んでいた。


 通りには色とりどりの布飾りが揺れ、屋台の甘い香りと香辛料の匂いが風に乗って流れる。

 人々の笑い声が絶えず響き、子どもたちは手をつなぎながら走り、祭りの喜びに溶けていた。


 広場の中心では、王家の建国伝説を題材にした演劇が披露され、見物人たちは目を輝かせて見入っている。

 王族の名を冠したその劇は、代々この祭りの目玉として受け継がれてきた。


 その賑わいの中に、フードを目深にかぶった一人の老婆がいた。

 背は曲がり、深い藍色のローブに身を包み、手に杖を携えている。

 首元には、黒い猫がひょいと巻きつくように乗っていた。その毛並みは艶やかで、瞳は琥珀色に輝いている。



「なんとも、賑やかね……ふふ」


 老婆の口元が、わずかに緩む。





 町の広場を見渡せる角で、衛兵団の制服を着た若い警備隊員が2人、巡回の途中でひと息つこうとコーヒーを片手にベンチを探していた。

 そこへ駆けてきた子供とぶつかり、熱い液体が弧を描いて隣を歩いていた老婆の袖を濡らした。


「あっ、す、すみません!」


 青年は顔を青ざめさせ、焦って老婆の腕に手を伸ばす。


 ——だが老婆は、すっと彼の手をかわすようにして、静かに腕を引いた。


「大丈夫ですから」


 表情に怒りはない。ただ、それ以上触れさせまいとする。

 老婆はそっとローブの袖を押さえ、言葉少なに頭を下げると、そのまま群衆の流れの中へ足早に紛れていった。


 青年は少し驚いたまま、手を引っ込めた。


 そのすぐ後ろで、ぶつかった子どもが不安そうに立ち尽くしている。

 青年はそちらに向き直り、少しだけ表情を和らげて言った。


「走ると危ないからね。気をつけて」


 子どもはこくんと頷き、小走りにまた人混みへと戻っていった。


 その背を見送りながら、青年はふと先ほどの老婆の腕を思い出す。

 ほんの一瞬、袖の内側から覗いた肌——それは、妙に白く、しなやかで、年寄りのものとは思えなかった。

 (……あれ?)

 不意に違和感が胸に残る。顔立ちはしわがれ、歩き方も年相応に見えた。だが、あの一瞬だけ、別の何かを見たような——。


「ユリス、悪い」


 青年はそう言って、持っていた紙コップの残りを隣の同僚のユリスへ差し出した。


「ん? どうした」


「ちょっと、気になることがあって」


 返事も待たず、青年はすでに視線の先、老婆が消えていった方へと向かっていた。

 すでに見失っているかもしれない。だが、どうしても気になった。あの違和感。あの肌。あの目。


 ——人混みをすり抜け、青年は静かに歩を速めていった。





 老婆は人通りの絶えた森へ差し掛かる野道を歩いていた。

 城下町の賑わいはもう遠く、かすかに祭囃子の音が風に乗って聞こえてくる。

 早足だった歩調が徐々に落ち着き、ようやく立ち止まる。


 肩に巻きついていた黒猫が、静かに口を開いた。


「……腕、大丈夫だった?」


 巻きついていた黒猫が首元から顔を出し、小さくつぶやいた。


「だから言ったでしょ。袖の中までちゃんと変装しなきゃって」


 老婆は小さく笑い、答えた。


「ごめんごめん。まさか見られそうになるとは思ってなくて」


 そのまま、手をローブのフードへとかける。

 フードを下ろすと同時に、魔法が解けはじめる。

 背筋はすっと伸び、手の皺はなめらかな肌へと変わっていく。

 巻きついた髪がほどけ、金色の光を含んだ長い髪が肩に流れた。

 目元の影が晴れ、若々しい顔立ちがあらわになる。


 変身は一瞬だった。けれどその変化はなめらかで、音もなく、まるで衣を脱ぎ捨てるように静かだった。



 猫がちらりとその顔を見上げる。


「見つかってないよね?」


 彼女はふっと視線を町の方へ向ける。

 遠くに見える屋根の群れと、空に滲む祭りの気配。

 その目に確かな色はないが、かすかな緊張が残っていた。


「大丈夫。追ってきてはいないと思う」


 そう言って、彼女は肩のローブを整えた。

 金色の髪が、その動きに合わせてさらりと揺れた。


 その瞬間――


 背後の木陰から、わずかな気配が漏れた。

 草を踏む音でも、息づかいでもない。

 何かが、たしかに「動いた」。


 彼女はすぐに振り返る。

 首に巻きついていた黒猫が、静かに地面に降り、低くうなった。

 その視線の先、影に溶けていた人影がわずかに揺れる。


「……誰?」


 彼女はすぐに振り返った。

 足元で黒猫が唸り声を上げる。

 視線の先、木の陰で何かがぴくりと動いた。


 青年はそこにいた。

 息を呑んだ拍子に気配を漏らしたのだ。

 見つかったと悟った彼は、静かに木陰から姿を現す。


 両手を見える位置に出しながら、ゆっくりと。

 その眼差しに怯えも敵意もなかった。


「驚かせるつもりはなかったんだ」


 彼女は目を細める。

 街で出会った――あの青年。


「さっきの……」


 ぽつりと漏らしたその言葉に、自分ではっとする。

 その時、彼女は“老婆”だったのだから。


 しかし、青年は追及しなかった。

 ただ一言、静かに打ち明けた。


「君が、姿を変えるところを……見てしまった」


 風が、草を撫でて通り過ぎる。

 彼女は何も言わず、その場に立ち尽くしていた。


 足元の黒猫が低く唸る。だが、木陰から現れた青年の目を見た瞬間、唸り声はぴたりと止まった。

 それでも、尾をぴんと立てたまま、鋭い視線は緩めない。


 青年は数歩、ためらいがちに近づく。

 言葉を選ぶように、少し口を開けてから、静かに問いかけた。


「君は……魔女、なのか?」


 その言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。


「そうよ」


 黒猫が甲高く、短く鳴いた。キーッ、と。

 まるで「答えるな」と咎めるように。


「もう見られたんだから仕方ないじゃない」


 猫に目を向けたまま、彼女がつぶやいた。


 猫は顔をそむけ、もう知らないとでも言いたげに背を向けた。


 沈黙が落ちる。

 その沈黙を、魔女のほうが破った。


「で? 私を衛兵団に突き出すの?」


 その声には、どこか焦りとも怒りともつかない、乾いた音が混じっていた。

 青年はすぐには答えず、ただ首を横に振った。


「いいや、そんなつもりはない。ただ……本当に気になっただけなんだ。ごめん」


 魔女は一度目を伏せ、ふっと小さく息を吐いた。

 風が一筋、金の髪を揺らす。


「だったら、もういいでしょ。見なかったことにして、帰って」


 青年は頷いた。


「……そうだね。誰にも言わないよ」


 そのまま踵を返し、野道をゆっくりと戻っていく。

 彼女は、去っていく背中をしばらく見つめていた。


 足元に、黒猫がするりと擦り寄ってくる。柔らかな毛並みが裾を揺らし、彼女の足首にそっと触れた。


「しばらくは気をつけなよ」


 黒猫が目を細めて、静かにそう告げる。


 魔女は、小さくうなずいた。


「うん」


 その声は、ほんの少しだけ、心配と安堵が混ざっていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ