1.出会い
王の生誕祭。
一年で最も華やかな祝祭の日が、街を包み込んでいた。
通りには色とりどりの布飾りが揺れ、屋台の甘い香りと香辛料の匂いが風に乗って流れる。
人々の笑い声が絶えず響き、子どもたちは手をつなぎながら走り、祭りの喜びに溶けていた。
広場の中心では、王家の建国伝説を題材にした演劇が披露され、見物人たちは目を輝かせて見入っている。
王族の名を冠したその劇は、代々この祭りの目玉として受け継がれてきた。
その賑わいの中に、フードを目深にかぶった一人の老婆がいた。
背は曲がり、深い藍色のローブに身を包み、手に杖を携えている。
首元には、黒い猫がひょいと巻きつくように乗っていた。その毛並みは艶やかで、瞳は琥珀色に輝いている。
「なんとも、賑やかね……ふふ」
老婆の口元が、わずかに緩む。
町の広場を見渡せる角で、衛兵団の制服を着た若い警備隊員が2人、巡回の途中でひと息つこうとコーヒーを片手にベンチを探していた。
そこへ駆けてきた子供とぶつかり、熱い液体が弧を描いて隣を歩いていた老婆の袖を濡らした。
「あっ、す、すみません!」
青年は顔を青ざめさせ、焦って老婆の腕に手を伸ばす。
——だが老婆は、すっと彼の手をかわすようにして、静かに腕を引いた。
「大丈夫ですから」
表情に怒りはない。ただ、それ以上触れさせまいとする。
老婆はそっとローブの袖を押さえ、言葉少なに頭を下げると、そのまま群衆の流れの中へ足早に紛れていった。
青年は少し驚いたまま、手を引っ込めた。
そのすぐ後ろで、ぶつかった子どもが不安そうに立ち尽くしている。
青年はそちらに向き直り、少しだけ表情を和らげて言った。
「走ると危ないからね。気をつけて」
子どもはこくんと頷き、小走りにまた人混みへと戻っていった。
その背を見送りながら、青年はふと先ほどの老婆の腕を思い出す。
ほんの一瞬、袖の内側から覗いた肌——それは、妙に白く、しなやかで、年寄りのものとは思えなかった。
(……あれ?)
不意に違和感が胸に残る。顔立ちはしわがれ、歩き方も年相応に見えた。だが、あの一瞬だけ、別の何かを見たような——。
「ユリス、悪い」
青年はそう言って、持っていた紙コップの残りを隣の同僚のユリスへ差し出した。
「ん? どうした」
「ちょっと、気になることがあって」
返事も待たず、青年はすでに視線の先、老婆が消えていった方へと向かっていた。
すでに見失っているかもしれない。だが、どうしても気になった。あの違和感。あの肌。あの目。
——人混みをすり抜け、青年は静かに歩を速めていった。
老婆は人通りの絶えた森へ差し掛かる野道を歩いていた。
城下町の賑わいはもう遠く、かすかに祭囃子の音が風に乗って聞こえてくる。
早足だった歩調が徐々に落ち着き、ようやく立ち止まる。
肩に巻きついていた黒猫が、静かに口を開いた。
「……腕、大丈夫だった?」
巻きついていた黒猫が首元から顔を出し、小さくつぶやいた。
「だから言ったでしょ。袖の中までちゃんと変装しなきゃって」
老婆は小さく笑い、答えた。
「ごめんごめん。まさか見られそうになるとは思ってなくて」
そのまま、手をローブのフードへとかける。
フードを下ろすと同時に、魔法が解けはじめる。
背筋はすっと伸び、手の皺はなめらかな肌へと変わっていく。
巻きついた髪がほどけ、金色の光を含んだ長い髪が肩に流れた。
目元の影が晴れ、若々しい顔立ちがあらわになる。
変身は一瞬だった。けれどその変化はなめらかで、音もなく、まるで衣を脱ぎ捨てるように静かだった。
猫がちらりとその顔を見上げる。
「見つかってないよね?」
彼女はふっと視線を町の方へ向ける。
遠くに見える屋根の群れと、空に滲む祭りの気配。
その目に確かな色はないが、かすかな緊張が残っていた。
「大丈夫。追ってきてはいないと思う」
そう言って、彼女は肩のローブを整えた。
金色の髪が、その動きに合わせてさらりと揺れた。
その瞬間――
背後の木陰から、わずかな気配が漏れた。
草を踏む音でも、息づかいでもない。
何かが、たしかに「動いた」。
彼女はすぐに振り返る。
首に巻きついていた黒猫が、静かに地面に降り、低くうなった。
その視線の先、影に溶けていた人影がわずかに揺れる。
「……誰?」
彼女はすぐに振り返った。
足元で黒猫が唸り声を上げる。
視線の先、木の陰で何かがぴくりと動いた。
青年はそこにいた。
息を呑んだ拍子に気配を漏らしたのだ。
見つかったと悟った彼は、静かに木陰から姿を現す。
両手を見える位置に出しながら、ゆっくりと。
その眼差しに怯えも敵意もなかった。
「驚かせるつもりはなかったんだ」
彼女は目を細める。
街で出会った――あの青年。
「さっきの……」
ぽつりと漏らしたその言葉に、自分ではっとする。
その時、彼女は“老婆”だったのだから。
しかし、青年は追及しなかった。
ただ一言、静かに打ち明けた。
「君が、姿を変えるところを……見てしまった」
風が、草を撫でて通り過ぎる。
彼女は何も言わず、その場に立ち尽くしていた。
足元の黒猫が低く唸る。だが、木陰から現れた青年の目を見た瞬間、唸り声はぴたりと止まった。
それでも、尾をぴんと立てたまま、鋭い視線は緩めない。
青年は数歩、ためらいがちに近づく。
言葉を選ぶように、少し口を開けてから、静かに問いかけた。
「君は……魔女、なのか?」
その言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。
「そうよ」
黒猫が甲高く、短く鳴いた。キーッ、と。
まるで「答えるな」と咎めるように。
「もう見られたんだから仕方ないじゃない」
猫に目を向けたまま、彼女がつぶやいた。
猫は顔をそむけ、もう知らないとでも言いたげに背を向けた。
沈黙が落ちる。
その沈黙を、魔女のほうが破った。
「で? 私を衛兵団に突き出すの?」
その声には、どこか焦りとも怒りともつかない、乾いた音が混じっていた。
青年はすぐには答えず、ただ首を横に振った。
「いいや、そんなつもりはない。ただ……本当に気になっただけなんだ。ごめん」
魔女は一度目を伏せ、ふっと小さく息を吐いた。
風が一筋、金の髪を揺らす。
「だったら、もういいでしょ。見なかったことにして、帰って」
青年は頷いた。
「……そうだね。誰にも言わないよ」
そのまま踵を返し、野道をゆっくりと戻っていく。
彼女は、去っていく背中をしばらく見つめていた。
足元に、黒猫がするりと擦り寄ってくる。柔らかな毛並みが裾を揺らし、彼女の足首にそっと触れた。
「しばらくは気をつけなよ」
黒猫が目を細めて、静かにそう告げる。
魔女は、小さくうなずいた。
「うん」
その声は、ほんの少しだけ、心配と安堵が混ざっていた。