「壁の花」以下の地味メイドだと思ったら、女性嫌いで有名な堅物陛下に『君は運命の人だ』とロックオンされ、逃げ道を塞がれて求愛されています!?
王宮の片隅。それが、今の私の世界のすべてである。
エマ・バークレイ伯爵令嬢――その名を捨て、今はただの「エマ」として、私は息を潜めるように生きていた。地味に見せるための分厚い眼鏡、わざと描いたそばかす、くすんだ色の髪。継母や異母妹からの冷たい視線、無関心な父。あの息の詰まる家から逃れるため、私はこの変装魔法で過去ごと自分を塗り替えたのだ。
「エマ、ここの掃除、お願いね」「あらエマ、ちょうど良かったわ。この洗濯物もお願い」
同僚のメイドたちは、私を空気のように扱いながら、面倒な雑用を次々と押し付けてくる。断る気力も、波風を立てる勇気もない私は、ただ黙って頷くだけだ。「どうせ私なんて、壁の花どころか、壁のシミみたいな存在なのだから」そんな諦めにも似た感情が、いつも胸の奥に澱んでいた。このまま誰にも気づかれず、静かに日々が過ぎていけばいい。それだけが、私のささやかな望みだった。
その日も、私は山のような書類を抱え、国王陛下の執務室へと続く廊下を急いでいた。宰相閣下に頼まれた急ぎの届け物だ。重さにふらつきながら角を曲がった、その瞬間。
ドンッ!
「きゃっ!」
硬い壁にぶつかったような衝撃。抱えていた書類が宙を舞い、バサバサと音を立てて床に散らばる。そして、最悪なことに、手元にあった飲みかけの(そして冷めきった)紅茶が、目の前の人物――この国の若き王、ジークハルト・フォン・エルツハイム陛下、その人の豪奢な上着に見事な染みを作ってしまったのだ。
「も、申し訳…ございませんっ!」
血の気が引く。周囲の空気が凍りつくのが分かった。床に這いつくばり、震える手で散らばった書類をかき集めようとした、その時。衝撃でずれた眼鏡の隙間から、床に落ちた自分の素顔が覗いた気がした。
ああ、もう終わりだ。不敬罪でクビどころか、牢獄行きかもしれない。
顔面蒼白で俯く私に、しかし、予想した怒声は降ってこなかった。代わりに、頭上から静かで、けれど有無を言わせぬ響きを持つ声が降ってきた。
「……面白い。名は?」
え? 面白い? 何が?
恐る恐る顔を上げると、氷のように冷たいと噂されるアイスブルーの瞳が、じっと私を見据えていた。感情の読めない、夜空のように深い瞳。吸い込まれそうだ、と思った。
「エ、エマ、と申します……」
か細く、震える声で答えるのが精一杯だった。
すると陛下は、表情一つ変えずに、こう言い放ったのである。
「そうか、エマ。明日から私の傍仕えを命じる」
「……は?」
聞き間違いだろうか。罰ではなく、傍仕え? あの、女性嫌いで有名な堅物陛下が?
混乱する私を置き去りにして、陛下は背を向け、何もなかったかのように執務室へと消えていった。残されたのは、呆然と立ち尽くす私と、散らばった書類、そして床に転がった私の分厚い眼鏡だけだった。
翌日から、私の不可解な王宮生活が始まった。
陛下の執務室の隅に控え、そのお世話をする。それが新たな私の仕事になった。とはいえ、何をすればいいのか全く分からない。
「きっと、あの失態に対する罰ゲームなのだわ」「それか、すぐに飽きてクビにするための気まぐれに違いない」
そう思い込み、私は毎日ビクビクしながら過ごしていた。陛下の視線を感じるたびに、心臓がドキッと跳ねる。しかし、ジークハルト陛下は、特に私に何かを命じるわけでもなく、ただ黙々と膨大な書類に目を通している。時折、私が淹れたお茶を静かに飲むだけ。その無言の時間が、かえって私を不安にさせた。
それでも、何かせずにはいられなくて、私は自分なりに気づいたことを始めた。執務室の空気が乾燥している気がすれば加湿用の魔法具に水を足し、陛下が眉間に皺を寄せているのを見れば、そっと好みの濃さのお茶を淹れ直す。そんな細やかな(そしてお節介かもしれない)行動を、陛下は何も言わずに受け入れていた。ただ、時折向けられる、あの深いアイスブルーの視線だけが、私の心をざわつかせた。
私の”抜擢”は、当然ながら他のメイドたちの格好の噂の的となった。
「あんな地味でドジなエマが、どうして陛下の傍仕えに?」
「きっと何か色目でも使ったのよ!」
そんな心ない陰口が、私の耳にも届く。特に、以前から私を見下していたマリーは、あからさまに敵意を向けてきた。
「あらエマ、陛下のお気に入りだからっていい気にならないでくれる? この荷物、倉庫まで運んでおいて」
ある日、マリーはわざと大量の荷物を私の前に突き出した。明らかに一人では無理な量だ。私が困惑していると、背後から冷たい声が響いた。
「――私の傍仕えに何か用か?」
ジークハルト陛下だった。いつの間に現れたのか、その氷のような視線は真っ直ぐにマリーを射抜いている。マリーは怯えたように顔を引きつらせ、「い、いえ、何も…!」と慌ててその場を走り去った。
陛下は私に向き直ると、ぶっきらぼうに、けれどどこか優しさの滲む声で言った。
「気にするな。お前の仕事は、私の傍にいることだ」
その言葉に、また心臓が大きく跳ねた。なぜ、庇ってくださるのだろう。ただの気まぐれ? それとも…。疑問は尽きないけれど、胸の奥に温かい光が灯るような感覚があった。
そんな日々の中、私は休憩時間にこっそり、故郷のレシピで簡単な焼き菓子を作るのがささやかな楽しみだった。誰かにあげるつもりもなく、ただ自分のために。ある日、その焼き菓子を執務室の隅で食べていると、ふいに陛下が近づいてきた。
「……それは?」
「あ、いえ、これはその…」
慌てて隠そうとした私の手から、陛下はひょいと焼き菓子を取り上げ、無表情のまま口に運んだ。そして、一言。
「悪くない」
それだけだったが、なぜか頬が熱くなるのを感じた。後日、私が同僚のメイドにおすそ分けしようとすると、どこからともなく現れた陛下が「それは私が頼んだものだ」と言って、私の手から焼き菓子をかすめ取っていった。書類整理でも、私が独自に編み出した分類法で作業していると、いつの間にか陛下が隣に立ち、「このやり方で全て整理しておけ」と当然のように命じる。
(もしかして、陛下は私のやることなすこと、全部自分のものだと思ってる…?)
その子供っぽいとも言える独占欲に、私は困惑しながらも、くすぐったいような気持ちを覚えていた。堅物で女性嫌いなはずの陛下の、意外な一面。そのギャップに、私の心は少しずつ、でも確実に揺さぶられていたのだ。
その夜、王宮では華やかな夜会が催されていた。煌びやかなドレスを纏った貴婦人や、勲章を輝かせた貴族たちが集う、私のような地味なメイドには縁遠い世界。私は裏方の仕事で会場の隅を通りかかっただけだった。それなのに。
「おい、そこの地味なメイド。邪魔だ、どけ」
酔っているのか、意地の悪い笑みを浮かべた若い貴族が、私の行く手を遮った。彼の取り巻きたちも、下卑た笑いを浮かべている。
「まあまあ、そんな言い方しなくても。少し遊んでやろうじゃないか」
貴族の手が、私の腕を掴もうと伸びてくる。恐怖で体が竦み、後ずさった拍子に、私は何かに躓いて体勢を崩した。
ガシャン!
その衝撃で、かけていた分厚い眼鏡が床に落ちて割れた。同時に、変装のためにかけていた弱い魔法が乱れ、くすんだ色だった髪が本来の艶やかな蜂蜜色に戻り、そばかすも消え、隠していた翠色の瞳があらわになる。
「なっ……!?」
貴族の目が、驚きと卑しい欲望の色に見開かれる。
「へえ、隠れてないで最初からその顔を見せればいいものを……」
下卑た手が、今度こそ私に触れようとした、その瞬間だった。
「――私の大切な者に、なれなれしく触れるな」
音もなく現れたジークハルト陛下が、私の腕を強く引き寄せ、逞しい胸の中に庇い入れていた。その声は、普段の冷静さが嘘のような、静かな怒りに満ちている。向けられたアイスブルーの瞳は、絶対零度の輝きを宿し、貴族を射竦めていた。
「ひっ…! へ、陛下……! こ、これは、その……」
貴族は完全に怯えきり、顔面蒼白になって後退る。
陛下は私を腕に抱いたまま、冷たく言い放った。
「二度とそのような無礼を働くな。失せろ」
貴族たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。会場は水を打ったように静まり返り、すべての視線が私と陛下に注がれている。「陛下がメイドを?」「あんな地味な娘を『大切な者』だって?」「でも、あのメイド、よく見ると…」囁き声が波のように広がる。
陛下の腕の中、私はただただ呆然としていた。守られたことへの安堵と、彼の言葉の意味への混乱。そして、強く抱きしめられた胸の温かさに、自覚したくなかった想いが、確かに形を持ち始めていた。ドキドキと鳴りやまない心臓が、うるさいくらいだった。
夜会が終わった後、私は陛下の執務室にいた。床には割れた眼鏡の破片が転がっている。まだ心臓は落ち着かず、先ほどの出来事が夢だったかのようだ。
沈黙を破ったのは、陛下だった。
「……怖がらせてすまない」
意外な謝罪の言葉に、私は顔を上げた。陛下の真剣な眼差しが、真っ直ぐに私を捉えている。
「エマ。君に初めて会った時から、分かっていた」
「え……?」
「君が隠しているものも、その見せかけの姿の下にある、本当の輝きも。そして、その心根の美しさも」
陛下の言葉に、私は息を呑んだ。まさか、最初から気づかれていたなんて。
「君は、私の運命の人だ」
はっきりと告げられた言葉に、思考が停止する。運命の人? 私が? 地味で、取り柄もなくて、家からも逃げ出してきた、この私が?
「で、でも、私は…ただのメイドですし、陛下にはもっと相応しい方が…」
口ごもる私に、陛下は静かに首を振った。
「君が何者であろうと関係ない。私が欲しいのは『エマ』、君自身だ」
その力強い言葉に、涙が溢れそうになるのを必死で堪える。
「女性嫌いの噂は、事実ではない。ただ、政略のための道具として扱われるのも、心から惹かれる相手以外に時間を使うのも、無意味だと考えていただけだ。……君に出会うまでは」
そう言って、陛下はほんの少しだけ、照れたように視線を逸らした。その人間らしい一面に、私の胸はきゅっと締め付けられた。これまでの勘違い。陛下の不可解な行動の理由。すべてが腑に落ちていく。堅物な仮面の下に隠されていたのは、不器用で、けれどとても一途な想いだったのだ。
溢れそうになる涙を堪えきれず、私はしゃくり上げながら、自分の素性を打ち明けた。伯爵令嬢であること。家族との確執。逃げるように家を出て、メイドとして働くしかなかったこと。みっともない身の上話だと思ったけれど、陛下は黙って、最後まで聞いてくれた。
そして、私の涙を指で優しく拭うと、力強く、けれどどこまでも優しい声で言った。
「辛かっただろう。だが、もう心配いらない。これからは私が君を守る。どんな者からも。君の過去も、すべて受け止めよう」
その言葉は、私の凍てついていた心を、じんわりと溶かしていくようだった。
「ずっと、こうしたかった」
陛下はそう囁くと、私の頬に優しく触れた。変装のためにかけていた、もう効果の薄れた魔法の残滓を、慈しむように指でなぞる。そして、私の本来の姿――蜂蜜色の髪、翠の瞳を、愛おしそうに見つめた。
「もう、どこにも行かせない」
その囁きと共に、彼の顔が近づき、唇がそっと重ねられた。それは、今まで経験したことのない、甘くて優しいキスだった。驚きと、喜びと、そして確かな愛情が、私の全身を満たしていく。ああ、私はこの人に、こんなにも愛されていたのだ。
数ヶ月後。
私は伯爵令嬢エマ・バークレイとしての身分を取り戻していた。陛下が陰ながら手を回し、私の実家との問題も解決してくれたらしい。今は王妃教育を受ける日々だが、時折、陛下たっての希望で、私は昔のメイド服に着替えることがある。
「やはり、君の淹れる茶が一番落ち着く」
執務室で、陛下は私の淹れたお茶を飲みながら、満足そうに目を細める。その表情は、以前の堅物ぶりが嘘のように穏やかで、私にだけ向けられる特別な甘さを含んでいた。私も、そんな陛下の隣で、心からの笑顔を浮かべている。
「まったく、陛下も人が変わられたものですな」
扉の隙間から、宰相のオルデン閣下が、面白そうにこちらを見守っているのが見えた。
「壁の花」以下だと思っていた地味なメイドは、今、この国で一番大切な存在として、不器用で一途な国王陛下に、それはもう、これ以上ないほど甘やかされているのだった。私の居場所は、もう王宮の片隅ではない。彼の隣、ただそこだけが、私の帰るべき場所なのだから。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
無愛想だけど一途なジークハルト陛下と、健気なエマのハッピーエンド、楽しんでいただけましたでしょうか? 不器用ながらも溺愛しちゃう陛下と、戸惑いながらも絆されていくエマを書くのは、とても楽しかったです!
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それでは、また別の物語でお会いできる日を楽しみにしております。本当にありがとうございました!