お兄ちゃんの授業5
お便所の中でひっくり返っていた私の眼前に最初に現れた混沌とした表象、後から考えれば電灯のともる天井という光景、当初は何の区別もなくただ単に一つの表象としてのみ現れていたこの光景が変化を見せたのは、何故だか分からないけれどいきなりその光景にぐるりと円く線が引かれた、切り口が入った、つまり限ぜられたということからでした。ここに区別が生じたのです。これは何かが、誰かが引いたものなのか、それは分からない。私は限ぜられたと表現しています。皆さんも国語の授業で勉強されましたよね。そう、受動態です。ただしその中に潜む主語は分からない、秘密の主語があるかどうかも分からない、そんな受動態であります。そしてただただ眼前の何の区別も無かった光景に、一つくるりと境界線が引かれた、限ぜられたわけなのです。
限ぜられた、とはそのものとして生じてきたもので、誰かが引いたとかそういうものではないように思われます。何ものかが“限じた”ものではなく、ただその“限”というものがどこからともなく姿を現した、生じてきた、区別が現れてきたのです。
このことが意味する大事なところは、先程電灯と天井を記号として表現しました甲と乙、これらがそれぞれそのものとして生じてきたわけではなく、区別されることによって、限ぜられることによって生み出された、ということです。少々ややこしいですね。でも大切なところですから注意していただきたい。誤解を恐れずに表現すればですね、そもそも甲と乙はそれぞれ元々は独立したものとして私の表象内にあるものではない、甲は乙と区別されることによって、乙は甲と区別されることによってそれぞれ別々のものとして現れている、ということなのです。甲と乙がある、ということに先んじて区別が、そしてそれをもたらす“限”がある、ということなのです。甲は乙ではないもの、乙は甲ではないもの、これが甲と乙の元々の在り方なのです。甲と乙との間には勿論関係があります。甲と乙とは別ものである、乙は甲を取り巻いている、甲は明るくて乙はやや暗い‥‥‥ところがこれらの関係は甲と乙がそれぞれ別個にあってそこから生じてきたものではありません。始めに関係ありきなのです。つまり、限ぜられ区別され、そこに関係が現れてきたことによって甲と乙とが生じたのです。限ぜられることによって、甲と乙とは初めてそれらとして成り立つことになったのです。甲と乙との区別、甲と乙との位置関係、甲と乙との明るさの違い、こうした事柄はそのように区別されているという関係性なのであって、限ぜられるという作用に全て含まれているわけなのです。
このような区別は甲乙のみではない、それから様々な区別が様々に限ぜられることによって丙丁戊己庚辛壬癸と現れて来ることになります。そしてそれらはどれも、それ自体として現れて来るのではない。全ては関係性であります。周囲から区別されるということから個体として成り立っています。そしてそれらを引き起こす“限”というものに全ての関係性が含まれているはずです。なにしろ、あちらこちらにくるりくるりと生じてきた“限”以外のどこにもそうした関係性は見出せないのですから。
こうした関係性というものは、私達が時間と呼ぶものをも産み出します。眼前の混沌が様々に限ぜられ互いに関係付けられ、一旦ばらばらにされた諸表象が再び今度は一つの世界として組み立てられる。その経過の中に“さっき”と“今”を分かつような、限ぜられるような新たな局面が生じて来るのです。さっきと今、その前とさっき、その更に前とその前、という風にどんどん“限”の作用が切断して行く。時間とは、皆さん、その大元はこのようにさっきと今とを際限なく際限なく限じていくような、世界を私達が認識する際に後先というものに幾つにも切断さればらばらと展開しているような、そんなものなのです。だから個々の時間には厚みがあります。瞬間と言ってもある程度の時の経過があります。一秒間を何千何万と切っていったとしても本物の一瞬にはたどり着くことは出来ない。だから今この時と言っても、ある長さを持った時の経過です。このことは、これまで見てきた認識というものの根本、即ち限ずるという根源的な認識能力というものの性格上、どうしてもそう考えざるを得ないのであります。
このような状況から、先程も触れた“あちら”と“こちら”とを分かつ“限”が作用します。“あちら”というのが外界、“こちら”というのが私ということがその後判明しますが、この両者もまた“限”によってもたらされ関係付けられます。そしてこの両者もまた限ぜられることによって生じ、限ぜられることによって互いに相異なるものとして現れて来るものであって、それぞれ別個に独立してあるものではない。“あちら”が無い“こちら”はなく、“こちら”が無い“あちら”はない。“あちら”は“こちら”ではないもの、“こちら”は“あちら”ではないものである、と言いますか、そもそもは“限”というものが生じてきて何の区別もない状態を二つの部分に分けたために生じた両者なのであって、“あちら”と“こちら”が別々に独立して作られたわけではないのです。
“あちら”と“こちら”は限ぜられることによってのみ生じてきた。そして、この両者は対でなければ存在しない。どちらか片方だけでそれ自体として存在しているわけではない―――という風に思われます。そしてこの“あちら”を外界、“こちら”を私と言い換えてみると、私と外界との関係性が見えて来ると思われます。
最初の、“私は考える、故に私はある”という言葉に戻りましょう。これまで詳しく調べてきた私の個人的な体験、皆さんに想像してもらって追体験もどきをしてもらった私の経験なのですが、これを解剖してみましたらこんなような一つの答えが出て来ました。認識の根源においては、世界は“あちら”であり私は“こちら”であり、両者は元々は区別のない一つの状態であったのだが、何らかの作用つまり限ぜられるというある作用によって区別され、それぞれがその差異、位置、時間といった関係性によって係わりあっているという答えであります。
この答えに基づいてあの言葉を解釈してみましょう。“私は考える”というのは、例えば“私はこの世界を考える”と置き換えることが出来る。そのため自分がこの世界を対象として考えているという関係性が見て取れる、元々区別のなかった状態に“限”が作用し自分と世界とが対峙することになり、現在このように自分と世界が相対している、“が故に”“私はある“という風に考えざるを得ないのではないか、とこう私は思うわけです。私と世界とは対になったものであり、どちらか一方のみとしては考えることができない、存在し得ないものである。つまり、あるということは限ずるという作用の中に見出される、極論すれば“限ぜられる”ことによって“ある”という状態が生ずることになるのではないか、従って私と世界とは相対的にのみあるものなのではないか、こう私は考えるわけです。
いかがでしょう。こうして一つの結論を出してみたんですが―――やはりどうも納得いかないですかね。手品見たようにも感じられるかも知れない。煙に巻かれたようにお感じになるかも知れない。しかしですね、私はこのお話をするのに私の体験から始めました。その体験を基に皆さんと一緒に考えてきたつもりです。ですから皆さんがもう一度考えてみることは簡単に出来ることなのです。もやもやしている方は後程是非あらためて考え直してみていただきたい。難しい本を読む必要はない。ただこの私の体験はそうそうあることではないかも知れません。ですから私のその体験について、必要以上かも分からんですけれど詳しく説明させていただきました。そこでその点は想像たくましく、追体験を試みていただいて、じっくり考えてもらえれば、と思います。
* * * * * * * *