黒に灯る希望
トクンと優しく胸が鳴って、少し前に学んだっきり、すっかり奥に引っ込んでいた人間の希望が、心臓の隙間から顔を覗かせた。
『涼君……好きです。大切です。愛しています。また、名前を呼ばれたいです。ムニエルって』
ムニエルは、苦痛に耐えるのに夢中で、気がつけば握り締めていた果実を、ゆっくりと持ち上げると、それから一口齧った。
その時、体中に満ちた人間の感情は、羞恥と自己嫌悪だった。
「あっ! うっ、あぁぁっ!」
絶叫して、再び体を捻じる。
だが、今度は無意識ではなく、シッカリとリンゴを胸に抱いて、底の見えない闇の上で跪いた。
「ごめっ、なさ、涼君。私、人間を汚いって。あんなに大好きだったのに、今まで助けた皆も、涼君も、綺麗だって思ってたのに、今も思うのに、それでも浅ましいって、汚れてるって、思ってしまいました!」
何度も叫んだせいで切れかける喉で懺悔をし、ボロボロと涙を溢す。
それから、ムニエルは息を整える前に、震える唇で果汁を啜った。
流れ込む人間の感覚から、人の傲慢さを知る。
同時に、天使が持つ傲慢さも知った。
『ろくでもない存在です、天使も。傲慢で、愚かしくて、救済欲求だけの化け物。私だって、何かを見下してばかりのゴミ屑です。何にもなりたくない。消えてしまいたい。そう、思ってしまいますけど、でも……』
ムニエルは、楽しそうに自分と食事をして、満足そうに風呂から上がってきて、それから、幸せそうに自分の胸の中で眠った関原を心に浮かべた。
美しく生きる人間の姿を思い出した。
『綺麗ですね、涼君。今、ここにいたら、キラキラって光ってるでしょうか。天使様よりも美しく、人間よりも色とりどりに輝いて、闇の底だって教えてくれるでしょうか。ねえ、涼君、人間って、良いものですか? 素敵ですか? かわいくて、愛しくて、堪らないですか?』
関原は答えてくれなかったが、代わりに、自分の心臓がトクン、トクンと優しく鳴って、穏やかに返事をしてくれた気がした。
『ふふっ、私は、やっぱり涼君が大好きですね。ねえ、私、私は、涼君と同じものになれるって思ったら、頑張れますか? 後二つ、物理的な痛みを教えてくれる果実と、人間の心の厄介さを細部まで教えてくれる果実を、食べきることができますか?』
先ほどと同じように問うが、今度は答えを聞くまでも無い。
ムニエルは静かに体を起こすと、それから、片手で涙をぬぐいきって、見えない果実と向き合った。
『やりますよ。だって、どうしても、涼君の元に帰りたいですから。人間の依存や執着を学ぶのはこれからですけれど、でも、この心は、天使だった頃から持っていたもので、私の想いですから。これを持ったまま、涼君との思い出を持ったまま、絶対に貴方の元へ戻ります』
キッと暗闇を睨みつけて、手ごと齧る勢いで果実を頬張り、絶叫する。
しかし、ムニエルは倒れ込みそうになる体を、地面をしっかりと踏みしめることで支え、痛みに耐えた。
『ちょっとだけ、ちょっとだけ、寂しがってくれていたら嬉しいです。そしたら、余計に、やる気出ちゃいますから。早く貴方の元に帰らなくちゃって、思えますから。自分のために愛しい人の不安定さを望むとは、本当に愚かしい生き物ですね、私は』
ムニエルは、潤んだ瞳のまま、黒い天に向かって明るく微笑んだ。




