悪魔に堕ちる前に
『た、助かりました。もう、嗅がずに済みます! うぅ……最近の私は本当にダメダメです。涼君には甘えられると凄く嬉しくなっちゃいますし、求められる以上に抱っこして、キスしたくなっちゃいますし、離れたく、なくなっちゃいますし。朝も、危なかったです』
激しい死闘を繰り広げた後のようにゼェゼェと荒い呼吸を繰り返す。
ムニエルの頭の中にあるのは、今朝の少し甘くて苦みのある記憶だ。
彼女は朝、関原が仕事に行ってしまうのが寂しくて、五分か十分ほど彼を家に引き留めようとしてしまった。
『涼君は電車を使っているから、場合によっては遅刻をしてしまうかもしれない。ただでさえ涼君は、職場で叱られたり、失望されたりすることを恐れているんです。それを分かっていて引き止めたくなるなんて、一歩間違えば対象者の社会性を損なわせるようなことをしてしまいそうになるなんて! そんなの、天使の行いではありません! 悪魔の所業です!!』
真っ青な顔でわなわなと震えるムニエルは随分と大袈裟な様子だが、言い換えれば、天使は普段、それだけ対象者のことを考え、彼らに尽くしていると言える。
その状態を常識、あるいは理想として考え、行動し続けていたムニエルにとって、件の出来事や最近のアレコレは到底許容することのできぬ出来事だった。
『昨夜も眠っている涼君の無垢な唇を奪おうとしてしまいました。私は悪い天使様です! ごめんなさい、涼君! 神様!』
もう一つ、罪を思い出し、未だに会ったことのない、存在するのかどうかも分からぬ神に懺悔する。
『最近、こんな状態だから涼君の自立も促せてないですし。涼君はアレコレうるさく言わなくなった私を見て、作戦が成功したと思っているようですが、本当は違います。本当は、私が寂しくて、涼君を手放したくなくなってて、天使としての職務を放棄し始めているだけ。こんなことでは、天使様を名乗れません。最低です。本当に』
懺悔と後悔と自己嫌悪の三つの感情が胸の中で入り交ざるムニエルは複雑だ。
体の中心に溜まった淀みを外に出すために、ムニエルは深く息を吐きだした。
『私は天使。感じないはずの寂寥や胸の痛みを感じてしまうこと。それは、この際、いったん忘れてしまいましょう。私ではどうすることもできぬ不具合なのですから。そして、その上で改めて、涼君の自立を促しましょう。己の苦しさに負けて対象者を自分に依存させたり、縛りつけたりするような真似をしたら、私は私を決して許せませんから』
爪が食い込んで手のひらから血が出てしまうほど強く、激しく己の手を握り込んで、それからドンドンと自身の胸を叩く。
ジクジクと痛む内側からの痛みを、外からの刺激で相殺してしまうように。
『そろそろ、涼君にお友達を、私以外の頼れる人物を作れるよう、促してみましょうか。かわいくて、優しくて、素敵な笑顔を持つ涼君なら、それが、できますから』
止まりがちになる思考を、太ももを数度、打つことで何とか動かす。
鞭で急き立てられる馬のようにムニエルは自身を追い込み、ずっと取りやめていた関原の自立計画を再開することにした。




