幸福の感覚
『やっぱり変ですね。涼君がくれた部分だけ、美味しかったです。こんな人間みたいに不可思議で幸福な感覚、天使の私に存在するわけないのに』
ムニエルは天使だ。
姿かたちは似ていても、人間ではない。
そのため、彼女は人間的な味覚を持たない。
甘い、しょっぱい、酸っぱい、苦い。
様々な味を感じ取れたとしても、その複雑な味の絡み合いを「美味しい」として認識できないのだ。
『いつも分かるのは、その味が人間に適切であるか否かだけです。子供たちに貰ったクッキーも、例のムニエルも、心が嬉しかっただけで味覚的に美味しいとは思えなかったのに、どうして涼君だけ?』
試しに一口、自分の分の鮭を齧ってみても、ムニエルは『美味しい』という感覚を覚えられなかった。
あるのは、粉でまぶしてバターで焼いた鮭を食べているという事実だけだ。
みそ汁を食べても、白米を頬張っても、やはり感覚は変わらない。
食事を終えたムニエルが空の食器を見つめていると、対面の関原がからかうように口角を上げた。
「どうした、ムニエル。食い足りねぇのか? お前は本当に食いしん坊だな。そうだ! 今日はいいもんがあるんだ! 持って来てやるよ」
どこか急いているような、ワクワクとしているような、浮足立った雰囲気の彼が楽しげに台所へと去って行く。
数分もしない内に戻ってきた彼が手に持っていたのは、小さな真っ白い紙箱だった。
中には二つ、かわいらしいイチゴのショートケーキがしまわれている。
「ほら、ムニエル、やるよ」
自分の前に置かれたケーキに、ムニエルの瞳がまん丸く見開かれる。
「涼君、これは?」
「これはも何も、見ての通りケーキだろ。その、別に、俺が頼んだわけじゃねえぞ。俺が頼んだわけじゃねえし、別に、俺にはおまえなんか必要じゃねえけど、でも、その……それでも、ムニエルには世話になってるから、一応、日々のお礼がわりというか、なんというか、まあ、そういうケーキだ。た、たまにはいいだろ! たまには!」
プレゼントを渡す時くらい気持ちのいい言葉をかけてやったらいいだろうに、関原はモニョモニョと言い訳のような言葉を募らせると、ヤケクソのように雑に話を終わらせてそっぽを向いた。
両耳は真っ赤に染まりきっている。
「なるほど! 『いつもありがとう』のケーキですね! こちらこそありがとうございます、涼君!」
太陽光がキラキラと反射するような、弾ける笑顔で明るく礼を言う。
関原は一度だけ、恥ずかしそうに頷いた。
「涼君、いただきますね!」
ムニエルは、美味しいものは美味しいと感じられるうちに、さっさと食べてしまう派だ。
そのため、最初にイチゴの乗っかった生クリーム部分をフォークに乗せ、大きな口でカプリと齧りつく。
舌の上でとろける濃厚ながらもあっさりとしたクリームや、口内の油分をサッパリと流すイチゴの果汁に、ムニエルの締まらない口角がゆるゆると緩みきって幸せそうにフニャフニャと持ち上がる。
やはり、天使としては異常なことに、ムニエルは関原がくれたケーキが、とんでもなく美味しかった。
「美味しいです~」
うっとりとため息を吐くムニエルに、関原が柔らかく笑った。
「それは良かったな。その店、スポンジ部分も旨いんだ。食べてみろよ」
「本当ですか!? わっ! 本当だ。フカフカで素朴で、程よく甘々です~」
「やっぱお前、食べるの大好きなんだな。ほら、俺の分もイチゴの所やるからさ、味わって食えよ」
「ありがとうございます~!」
ホクホクと満足そうなムニエルが、ケーキと一緒に甘い幸福を噛み締める。
ケーキを食べきったら、お茶でも淹れてお喋りでもしようか。
そんなことを考えている彼女は心の片隅に違和感を引っ掛けたまま、関原と楽しい時間を過ごした。




