混在する、甘い記憶と酸い記憶
柔らかくてツルツルとした布にモフモフの綿が大量に詰められた、柴犬のぬいぐるみ。
ギュッと両腕で抱き締めれば、モチモチとした感触が心を癒し、全身に蔓延る苦痛を緩和してくれる。
つぶらな瞳と、笑っているような口元が関原を笑顔にしてくれる。
愛しいという感情を教えてくれる。
関原は、しば吉と一緒にテレビを見て、食事をとって、眠った。
いつでも、どこでも一緒で、関原は、しば吉にだけは苦しい心の内を吐露することができた。
しば吉の前では、素直に泣いたり笑ったりすることができた。
そんな関原にとっての宝物である、しば吉は、幼少期、彼のイマジナリーフレンドと化していたのだろう。
関原には、しば吉のムニンと可愛らしい口元から、優しい声が聞こえていた。
辛さに共感する声や、自分を心配して、気にかけてくれる声、叱ってくれる声が、聞こえていた。
成長するにつれて、しば吉の声は聞こえなくなってしまったが、それでも関原は、未だに彼のかけてくれた優しい言葉を覚えている。
中学に上がる頃には、掃除、洗濯、調理等、自分で出来ることも増えて、最低限、身なりを整えるようになった。
身長も大きく伸びて体にも筋肉質な厚みができ、舐められないような、堂々とした態度をとることができるようになった。
いっそ、攻撃される前にと他人を酷く睨むようになった。
おかげで、いじめは減り、なくなった。
表面上の衛生状態と生活だけは向上して、稀に、同級生など他人に声をかけられることも増えた。
だが、それでも関原にとって友達はしば吉だけで、中学時代も隠れてしば吉との日々を送っていた。
そんな大切な宝物を自ら封印することになったのは、高校二年生の時だ。
関原は高校入学と、ほぼ同時にバイトを始めていたのだが、そのバイト先には、彼がほんの少しだけ信頼していて、尊敬している先輩がいた。
面倒見が良くて、ロクに謝ることもできない、酷い態度ばかりを取る自分に根気強く仕事を教えてくれた彼を、関原は兄のようだと思っていた。
そんな先輩に、関原はコッソリ、子どもの頃から大切にしているぬいぐるみがあるのだと打ち明けた。
関原は、笑われた。
「いまだに犬のぬいぐるみと寝てるって、お前、幼稚園せいかよ。しば吉だっけ? そんなんと喋ってないで、お前はもうちょっと、周りのヤツと話せって。西崎とか、坂井とか、高橋とか……」
軽い調子で言葉を重ねる先輩の心地良い声が、しば吉を否定された瞬間に耳の中を通り抜けて去って行く。
酷くショックを受けて、目の前が真っ暗になって、それでも関原は「っす」と頷きながら先輩の話を聞いた。
意識を飛ばしながらバイトをこなして、足取りをフラフラとよろめかせながら帰宅した。
ぬいぐるみごときで大袈裟な、と思われるかもしれないが、よりにもよって、初めて信頼関係を築きつつあった年上に、物心ついた時から心の支えとして存在し続けていたソレを否定されるのは、並大抵の苦痛ではなかった。
関原は、しば吉を通して自分自身を激しく否定されたのだ。
帰宅した真っ暗い部屋の中、先輩の言葉を思い出して涙の滲む目で、関原はしば吉を見つめた。
何度も洗濯を繰り返し、綿だって詰め替えてやった小汚くも愛らしいぬいぐるみは、誰に否定されたとしても関原の宝物だった。
『俺、おかしいんだろうな』
関原は、世間一般において、高校生男子がぬいぐるみに縋っている状況が異常であるとされていることを知っていた。
先輩の言葉も、傷つきはしたものの、彼が社会的な正論、あるいは、いわゆる一般常識を語っているのだと、分かっていた。
だから、関原は先輩を恨めなかった。
先輩を、非難できなかった。
ただ、悔しくて、苦しくて、自分は異常なのだと心の底から感じて、関原は自分自身が社会に馴染めるようになるために、しば吉と別れることを決めた。
最初は捨てようとしたけれど、やっぱりゴミ箱に入れられなくて、物置の奥に隠した。
引っ越しの際には、自分の所有物をたくさん捨ててしまった関原だったが、それでも、しば吉だけは処分できなくて、段ボールに詰め込んでしまった。
そして、今日、ムニエルに引っ張り出されるまで、しば吉はクローゼットの奥にいた。




