小さな共感
関原のことを考えているムニエルの表情は、どこか険しく苦しげだ。
彼女は、気がつけば服の上から心臓をギュッと押さえつけていた。
『寂しい涼君の姿、思い浮かべるだけで仮初の器官であるはずの心臓が、人を真似るためだけに作られた、血液さえも運ばない、鼓動を鳴らすだけの物体が、酷く痛みます。寂しくて、苦しくて、泣きそうになります』
人に親近感を覚えてもらうため、天使は人間に近しい姿をしているが、実際は全くの別物だ。
まず、天使は生き物ではない。
呼吸はするが体内に酸素を取り込むことはなく、眠ることはできるが睡眠の必要はない。
同様に食事の必要もないし、排せつもしない。
性的な欲求に関しては抱くことすらない。
当然、他者に恋愛感情を覚えることもないし、そもそも彼らは人間に共感を覚えない。
知性や感情、自我がないのではなく、人間を救済する存在であるはずの天使が人間の暗い感情に引っ張られ、精神に異常をきたすなどして、救いを滞らせたり、かえって人間に悪影響を与えたりすることがないよう、わざと共感できないようにつくられている。
悲しんでいる人間を見たら同じように悲しみで胸を溢れさせるのではなく、強い救済欲求を抱くようになる。
彼らの持つ感情や心の有様は、ある種、人間よりも単調で頑強だ。
天使が人間を理解できないように、きっと、人間も天使のことを理解することはできない。
類似するようで、全くもって人と異なる存在。
それこそが天使だ。
そのため、ほんの少しでも人間に共感し、苦しむ姿を見て胸を痛めるムニエルは天使の中では非常に特異な存在である。
ムニエルはまだ、寂しい関原の姿を思い浮かべては胸に空洞を開け、薬を大量に飲み、パタリと横に倒れてしまう姿を想像しては泣きそうになっていた。
『薬の件、叱りたいです。死んじゃうところだったんですよ、体が二度と動かなくなるような、酷い副作用に襲われるところだったんですよって。未遂だったらいいわけじゃない、二度と、こんなこと考えないでくださいって、何時間も叱ってやりたいです。でも、逆効果なんですよね。かえって追い詰められて、誰も自分のことなんか分かってくれないんだって、深みにはまってしまう。そんな風に講習で学びました』
ムニエルは、小さく、小さくため息を吐く。
『生きるために飲む人も、いるんですってね。死にたくないけど辛いから、生きていたくて薬を飲むって。涼君が薬を飲まなかった理由は、本によると罪悪感と恐怖です。そこからさらに細分化した感情は、載っていなかったのでわかりませんが、でも、死ぬのが怖いって思っていてくれたら嬉しいです。生きていたいって、思っていてくれたらいいのに』
どんなにムニエルが止めても、見張っていても、ふとした瞬間に対象者が死んでしまう可能性は十分にある。
子供なら目を離した瞬間の事故、犯罪、病気の悪化などで。
希死念慮を抱える大人なら……
ムニエルは関原に生きていてほしかったから、仮定した彼の心に希望を見出して、ひっそりと祈った。
手を組んで額に軽く押し当て、目を瞑っていると、エプロンのポケットに入っていたタイマーが可愛らしい音楽を奏でる。
あと一時間程度で関原が帰ってくるらしい。
『あら、もうこんな時間ですか。今日は部屋の片づけをして、涼君の本をもう一度読み込もうと思っていたのに。まあ、仕方がないです。布団を取り込んで、ご飯の準備をして、涼君を待ちますか』
天使としての切り替えの早さを見せたムニエルは鬱々とした心を追い払うと、サッと頭の上からつま先までを指でなぞり、掃除で付着していた体中のちりやほこり、雑菌を吹き飛ばす。
そして、新しいエプロンを身に着けると関原に美味しい食事を用意するべく、ウキウキでキッチンへ向かった。
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