【後日談6-7】傷
「坂井さん、しば吉って覚えてます?」
再び広がった、不快ではない沈黙の中、関原がポツリと問いかけた。
坂井は身に覚えのない様子だ。
「しば吉、しば吉……随分と特徴的な名前だな。うちの従業員に、そんなやついたっけかな」
首を捻って、誰かを思い出そうと苦心する。
関原は苦く笑って首を振った。
「いや、人間じゃないんで、多分、坂井さんの想像してるような存在じゃないです」
「人間じゃない? じゃあ、なんだ? 犬猫のたぐいか?」
「惜しいっすね。しば吉は、ぬいぐるみです。柴犬の」
「ぬいぐるみ? いや、やっぱ、心当たりねーな。うちはぬいぐるみ置くような店じゃねーし、姪っ子にプレゼントしたのはクマだし」
坂井はピンと来ない様子で、変わらず、首をかしげている。
過去、自分を苦しめた発言を、存在ごと記憶から消し飛ばしてしまっていることに、関原はなんとも言えない寂しさを覚えた。
それと同時に、「きっと、その程度のことだったんだ」と、気がついた。
傷心すると同時に、どこかホッとするような、余計に軋むような心臓に、関原は苦笑いを浮かべた。
「坂井さんは忘れちまったかもしれないですけど、俺、高校の時、自分のぬいぐるみの話、坂井さんにしたんですよ。小さいころから持ってて、その、一緒に寝たり、しゃべったりしてたって。高校生だったのにっすよ、ちょっと、恥ずいんすけど、でも、そうだったって」
再度、秘密を打ち明けるような、取り返しのつかないことをしているような気分になった。
治りかけの古傷がえぐられるか、あるいは回復してまっさらな肌になるかは、坂井次第だ。
関原の心臓がバクバクと鳴って、背中には冷たくて肌に張り付く、嫌な汗が流れた。
『ん……? なんか……』
緊張の最中、ふと、視線を感じて後ろを振り向く。
すると、真剣な表情で坂井を見つめるムニエルが目に入った。
いっそ、関原よりも念の込もっていそうな様子に、思わず、彼は吹き出しそうになってしまった。
『ムニエルは、一生懸命だな』
きっと、傷つけられたらムニエルが坂井に怒って、自分の分も悲しんで、大丈夫だと慰めてくれるから、関原は安心できた。
ふんわり、心が軽くなった。
落ち着いた心持ちで、坂井の様子を確認することができた。
改めて見た坂井は、やっぱり合点のいかない表情をしていた。
「忘れちまいましたか」
関原が困ったように笑って問いかける。
坂井はコクリと頷いた。
「悪いな。マジで思い出せねえ。そのぬいぐるみが、どうかしたのか?」
関原は少し考えて、それから、フルフルの首を横に振った。
「いや、ただ、坂井さんと話してて、なんか懐かしい気分になって、それで、聞いてみただけです。なんでもないっすよ」
どこか爽やかで吹っ切れた様子の関原に、坂井が「そうか」と頷く。
当時のことを謝ってほしかったわけではない。
ただ、しば吉を否定されなかった。
今回は、それだけで十分だった。