第三話
学校に到着し、教室に入ると、茉里奈は一時間目の予習を始めた。時間があれば少しでも勉強に充てておく。高校に入学したときからの彼女の習慣だった。
それからしばらくして朝礼のチャイムが鳴り、ほぼ同時に担任の男性教諭が姿を現した。彼は簡単な連絡事項を伝えたあと、一枚のプリントを配った。それは進路希望に関するアンケートだった。茉里奈はもう志望大学も希望する職種も決まっていた。だから、すぐにプリントの空欄を埋めることが出来た。
「茉里奈はやっぱり将来弁護士になるの?」朝礼が終わった後、千絵がこちらにやって来て言った。
「うん」
「すごいね、弁護士かあ。私には考えられないなあ」少し遠い目をして千絵が言った。
「何言ってんのよ。去年はずっと学年トップの成績だった癖に」
「昔の話よ。この前の学期末試験も散々だったし……」
高校一年生の頃の千絵は才色兼備で有名だった。総合成績は常にトップでさらにその優れた容姿もあって、同学年はおろか学校中で彼女のことを知らない者はいないほどだった。
だが、昨年度の三学期に行われた学期末試験で、千絵は初めてトップの座を茉里奈に明け渡した。千絵を目標として勉強を続けていた茉里奈はそれを素直に喜んだ。しかし、すぐにおかしなことに気が付いた。千絵はその時の試験で、五十位以内にさえ入っていなかった。
そして、今回の学期末試験。千絵は更に成績を落としていた。茉里奈たちの学校では廊下に総合順位で百位以内の生徒の名前が掲示されるが、そこに千絵の名前は載っていなかった。
「ねえ、千絵」
「ん、なに?」
「あんた、なにか悩みとあるんじゃない?」
「え、どうして?」
「だって、やっぱりおかしいじゃない。あんたがあんな成績を取るなんて」
「別にそんなことないよ。あれが私の実力」あっさりとした口調で千絵が答える。
「去年はずっと一番だったのに?」
「ただの偶然よ。マグレ、マグレ」
ここ最近、千絵はこの手の話題になると話を逸らしたがる。わざとおどけて見せたり、無駄に明るい態度を取ったりする。以前の彼女はそこまで自分の態度を変えたりすることはなかった。
「百合ちゃんも心配してたわよ」
「百合が?」
「ええ。朝、一緒に来る時に言ってたわ。あんた、最近、やけに帰りが遅い時があるみたいじゃない」
「あの子、余計な事を……」
「どうして?」
「それは……」千絵は少しだけ悩むようにしてから答える。「実は、バイトがちょっと長引いちゃって。それで帰りが遅くなったの」
「バイト? あんた、バイトなんてやってたの?」
「うん、まあ……」気まずそうに千絵が答える。「あ、でも、このことは百合には秘密にしておいて」
「学校にはじゃなくて?」
「それもあるけど」
「どうして、百合ちゃんには秘密なの?」
「それは、その、……言ったら絶対怒られるし」
子供か、と茉里奈は口中で呟く。
「まあ、いいけど。それで、あんた、どんなバイトしてるの?」
「ど、どんなって、それは……。別に、普通のバイトだけど」
あからさまに怪しい。千絵は嘘をつくとすぐに態度に出る。今の態度は明らかに嘘をついている時のそれだった。何か嫌な予感がした茉里奈は千絵に尋ねる。
「千絵。あんた、何かおかしなことに首を突っ込んでないでしょうね?」
「おかしなことって?」
質問に質問で返すのは、何か後ろめたいことがあるからか。茉里奈は一番不安に思っていることを訊いてみる。
「たとえば、エッチな……、その、法に触れるようなこととか」
「法……?」千絵はそう呟くと、はっきりとした口調で答える。「それなら心配いらないわ」
そう断言する千絵を見て、茉里奈は少しだけほっとする。少なくとも茉里奈が心配しているようなことはなさそうだ。
「ならいいんだけど。でも、やっぱり、百合ちゃんに心配かけるようなことはしちゃだめよ。せめて、帰りが遅くなる時は連絡の一つくらい入れなさいよ」
「うん」千絵は頷くと、微笑を浮かべる。「何か、茉里奈ってお母さんみたいだよね」
「は?」
「だって、すぐ人の世話を焼きたがるし。何か、いいお母さんって感じがする」
これは褒められているのだろうかと、茉里奈は首を傾げた。ただ、千絵の顔を見る限りでは、からかわれている様子はない。今、千絵が見せている優しい笑顔は妹の百合を見ている時のそれとよく似ていた。
「まあ、褒め言葉として受け取っておくわ」
「だから褒めてるんだって」笑いながら千絵が言った。
何か話を有耶無耶にされてしまった感は否めないが、とりあえず、千絵が不良になってしまったということはなさそうだ。
茉里奈が心の中で安堵の溜息をついたとき、一時限目の開始を告げるチャイムが鳴った。