プロローグ
プロローグ
――後悔しませんか?
聞こえて来たのは冷たい女の声だった。事務的な淡々とした口調だ。
夏の夜。誰もいない街外れの公園で男は自分の一生を左右しかねない決断をしようとしていた。その極度の緊張のせい か、先程からずっと耳鳴りが続いていた。それでも彼女の声は不思議とはっきりと聞こえた。
男は手に持っていた契約書から一度目を離すと、正面に立っている女性を見つめた。
すらりとした長身と肩の上で揃えられた黒い髪。折れてしまいそうなほど細い手足は白く、そのせいで彼女の着ている喪服がより一層黒く見えた。
素顔を拝むことが出来たなら、きっと美人に違いない。男は場違いにもそんなことを思った。だが、それは叶わない願いだった。彼女は泣いているのか笑っているのか判然としない不気味な仮面 でその顔を覆っていた。
しかし、それらすべては彼女を特徴づけるほんの小さな記号に過ぎなかった。彼女が何者であるのか。それはその頭上で輝く三日月型の刃が雄弁に語っていた。
『死神』
世間では彼女たちをそのような蔑称で呼んでいる。
人の命を買い漁り、売り捌く。生と死の仲介人。世間から畏怖と軽蔑の視線を集める彼女の姿はしかし、男にはとても美しく見えた。
「――本当に後悔しませんか?」
どれくらいそうしていたのか。男が呆けたまま返事をせずにいると再び同じ質問が聞こえて来た。やはり冷たい声だった。およそ感情というものが感じられない。ただ確認しているというだけの口調だ。その声が場違いなことを考えていた男の頭を急激に冷ましていく。躊躇いが消え、覚悟が決まると男はゆっくりと口を開いた。
「後悔は、ありません」
男は契約書にサインをすると、それを死神の女性に渡した。
その時、仮面に空いた二つの穴から彼女の目が見えた。その目が憂いを帯びていたような気がして男は苦笑した。
まさかな。きっと見間違いだ。死神があんな目をするはずがない。現に彼女は、契約書のサインを確認し終えると、その背丈よりも大きくて、歪な形の鎌を振り上げていた。
「痛みはありません。一瞬で終わりますから」冷酷に死神が告げる。
「分かった」男はそう答えると静かに目を瞑った。「……やってくれ」
刹那、風を切る音が聞こえた。
男が目を開けた時には契約はすでに締結されていた。彼女の言うとおり本当に痛みはなく、拍子抜けしたくらいだった。
ただ、体の中を異物が通り抜けた感覚は確かに残っている。
そして、大切な何かが抜け落ちたような感覚も。
その何かは今、死神の抱える鎌の上で青白い炎となって揺れている。それを見て男が尋ねる。
「終わったのか?」
「はい。問題なく。無事、契約は締結されました。ありがとうございます」死神はそう言って一礼すると男の前に銀色のアタッシュケースを差し出した。
それを男は両手で受け取る。取っ手から伝わって来るのは自分の重み。自分の命の重み。軽いのか重いのかそれさえもよく分からない。
ただこれがなければ自分に明日はない。それだけは分かっていた。
「中を確認しますか?」死神が言った。
「いや、さっき一度済ませているから」
「そうですか。では、車を用意しておりますので、そちらでご自宅までお送りします」
「いや、自分で帰れる」
「いえ。クライアント を無事にお返しするまでが我々の仕事ですので」淡々としながらも断固とした口調で死神が言った。
「固いんだな」
「扱っている商品がモノですので……」
商品か。女性の言葉に男は心の中で呟いた。やはり彼女は死神なのだと。
男は公園の出口の所に停められていた車まで案内された。黒塗りの一目で分かる高級車だ。一生掛かってもこんな車を買うことは出来ないだろうと男は思った。その車の扉を死神が開く。そこから車内へと入ろうとしたとき、男は思い出したように足を止めた。
「なあ……」
「何でしょうか?」
あのとき彼女が見せた一瞬の憂い。あれは本当に見間違いだったのだろうか。そう尋ねようとして男は止めた。今更聞いても詮無いことだ。
「すまない。何でもない」
男はそう言うと車へと乗り込んだ。
※
クライアントを乗せた車が見えなくなってから、少女は公園内に設置されていた古びたベンチに腰掛けた。そのまま背もたれに体を預けると空を見上げた。今日はよく星が見える。だが、仕事の後はどんなきれいな景色も少女の目には濁って映った。
少女が仮面を外すと彼女を労うように風がそっと吹いた。蒸し暑い夏の夜。本来ならその風は心地よく感じたかもしれない。しかし、今はそんなことに気を向けている余裕はなかった。
段々と動悸が早くなっていくのが分かる。じわじわと汗が噴き出し、手が震えはじめ、そしていつものように吐き気が込み上げて来た。だが、そこで、見計らったように耳障りな拍手が聞こえて来た。いかにもわざとらしい人を馬鹿にしたような拍手だ。少女は吐き気を全力で抑えると平静を装ってその拍手の主へと目を向けた。
べったりとした笑みを顔に貼り付けながら、その男は公園の入り口から少女の元へとやって来た。
見るだけで人を不快にさせる笑顔がこの世にあるということを少女はこの男と出会って初めて知った。
「那由多さん……」
少女が男の名を呼ぶと、拍手の音が止んだ。代わりに鼓膜に絡みつく様な声が聞こえて来た。
「ご苦労様です」
少女は那由多から視線を逸らすと無愛想な声で答える。
「どうしたんですか? 今日は別に用事があると聞いていましたが?」
「ええ、まあ、そうなんですがね……」那由多は勿体つけるように間を置く。「でも、やはり、かわいい部下が上手くやれているか心配で様子を見に来たというわけですよ」
白々しい。信用できないから監視に来たとはっきり言えばいいものを。
「そうですか」少女は素っ気なくそう答える。
「しかし余計な心配だったようですね。見事な手際でした」
「見ていたんですか?」批難の視線を那由多に送りながら少女が言った。
だが、那由多はまったく意に介した様子もなく、「ええ」と答えた。
「ですが、あれは頂けない」
「あれ?」
「そう。最後にあなたが言ったあの言葉です。本当に後悔しませんか? あれでは相手に翻意を促しているようなものです」那由多はそう言うと、笑顔のまま目だけをすっと細めた。「我々の仕事は人の命を買い取ること。その為には一縷たりとも相手に迷いがあってはならない。我々が行う契約には互いの同意が必要不可欠。それには書面上だけでなく精神的な同意も含まれています。あなたならこんなことをわざわざ説明する必要もありませんね?」
「……はい」
「では、なぜあんなことを言ったのです?」
笑顔の奥から鋭く刺すような視線を送る那由多に対し、少女は慎重に言葉を選んで答える。
「那由多さんは私の言葉が相手に翻意を促しているようなものだと仰いましたが、そうではありません。むしろその逆です」
「逆?」
「ええ。あのとき、彼の中にはまだ迷いが残っていた。そのことに気付かせるために私はあえて彼にあのような事を言ったのです」
「つまり、必要なことだったと?」
「はい」
少女がそう答えると、那由多の視線から鋭さが消えた。
「なるほど、なるほど。そういうことでしたか。それは失礼しました。私はてっきり、あなたがクライアントに対して情でも抱いてしまったのかと心配したのですが」
「まさか」少女は呆れたような口調でそう言った。「そんなまともな神経でこの仕事は務まりません」
「そうですね。でも、少しは気になったりはしませんか? 人が命を売ってまでお金を得ようとする理由を」那由多は少女を試すように尋ねる。
「いいえ、まったく」
少女が興味無さそうに答えると、那由多が肩を小さく揺らす。
「まあ、そういうことにしておきましょう」那由多はそう言うと、腕時計に目を向けた。「もうこんな時間ですね。私はそろそろ失礼します」
「はい」
「あなたもあまり遅くならないうちに帰宅して下さい」
那由多はそう言い残し公園から去って行った。
その後ろ姿が見えなくなると少女はすぐ傍の水場まで駆け出した。そして、堪えていたものをすべて吐き出した。食事をあまり取っていないせいか胃液ばかりが出た。蹲った態勢のまま落ち着くのを待つと水道から水を出し口を濯いだ。
そこから動けるようになるまで十分ほど時間が掛かった。だが、以前に比べれば大分マシになった方だ。この仕事を始めたばかりの頃は丸一日動けなかった。そう思うと、この仕事にも大分慣れてきた気がする。
「全然、嬉しくないけどね……」
溜息交じりにそう呟いた少女はポケットから携帯電話を取り出した。ディスプレイに映ったデジタル時計が午後十時を指していた。
今日は日曜日。明日からまた学校が始まる。
早く帰って寝るために、少女は足早に帰路へとついた。
だが、今夜も眠れないことは分かっていた。