15.もう今日は帰って眠った方がいいよ、おやすみ
「それで、ハリーったら酷いんです! ダニエルさん! ハリーのこと、シェアハウスから追い出して貰えませんか!?」
「い、いや、それは流石にちょっと……」
壁に背を預け、淡いピンクのヒトデクッションを抱えていたダニエルさんが困った顔をする。ルームウェアなのか、ゆったりとした黒いTシャツと灰色のズボンを着て、黒縁眼鏡をかけていた。会ったばかりとは比べ物にならないぐらい、清潔感があって、黒髪も短く切り揃えてある。
「ですよね……? いいんです、冗談だから」
「ほ、本当に冗談だった? メイベル」
「……はい」
「そ、そっか……良かった」
ここはダニエルさんの部屋で、相変わらず狭い。小さなテーブルもなかった。奥に傷付いたデスクと椅子、ベッドがあるだけ。何も無いので、無垢床に直接座り、目の前でゆらゆらと炎を揺らがせている、丸いガラス付きの燭台を見つめた。年代物なのか、少しだけ汚れてる。でも、綺麗。暗闇の中で温かな光を放ち、揺れ動いてる。落ち込み、うつむいていると、ダニエルさんが心配そうな顔で体を起こした。
「えっと、俺から、その、ハリーに注意しておこうか……?」
「でも、聞かないと思います。絶対に」
「だ、だよね……ええっと」
なんて言うべきか迷い、また壁へと背中を預けた。……だめだ、私ったら。明日、ダニエルさんはお見合いなのに。午後からだけど、きっと早く寝て備えたいはず。ぎゅっとラベンダー色のズボンを握り締め、うつむく。ちょっとだけ肌寒い。私もパジャマじゃなくて、もう少しちゃんとしたものを着てきた方が良かったかもしれない。
「ごめんなさい。急にこんな……押しかけたりして」
「いや、別にいいよ。でも、辛かったね。メイベルも」
「そっ、そうなんです……!! せっかく告白しようと思ったのに! アレンにも八つ当たりしちゃったし」
ヘンリーにもずいぶんと気を遣わせてしまった。反省しなきゃ、私。落ち込んで溜め息を吐いていると、ダニエルさんがへんにょりと眉を下げる。
「ええっと、でも、また機会はあるだろうから……」
「そう、そうですよね? でも、私、あの時に全部勇気を振り絞っちゃったんじゃないかって、そう思ってて……もう二度と、あんな風に言える気がしないんです。怖い」
ハリーから電話がかかってきた時のことを思い出し、苛立って燭台に手を伸ばすと、慌てて止められた。
「めっ、メイベル、ここ、火事になっちゃうから……!!」
「ちょっと炎を近くで見て、気を静めようと思っただけです! 流石にこんな素敵な燭台を投げたりしませんよ!? それにこれ、ダニエルさんのものですし」
「あっ、ご、ごめん。かなりこわ、おも、思い詰めた顔してたから……」
「そんな顔してました? 私。でも、確かに気がめいってしまって」
もう一度、深い溜め息を吐く。ハリー……。やっぱりアレンの言う通り、二人だけで行けば良かった。照れ臭くて断っちゃった。
(ああ、いけない。ここでぐずぐずして、ダニエルさんに迷惑をかけちゃ)
人に迷惑をかけたくない。気を取り直して見つめてみると、少しだけ口の端を持ち上げ、苦笑した。優しい。苛立ちもせず、さっきからこうやって私の話を聞いてくれてる。
「ごめんなさい、ダニエルさん。ありがとうございます……明日はお見合いなのに私、どうでもいいことでぐずぐずと言ってしまって」
「いや、大丈夫だよ……。それに、ええっと、俺、緊張してて眠れないんだ。だから、その」
いつの間にかクッションを手放し、膝を抱えていた。おそるおそる腕を伸ばして、ちょんと、指先で燭台に触れる。
「これ、出して……見つめてたら眠れるのかなって思ってたんだけど、む、無理だった……」
「そうなんですね……。でも、ダニエルさんは以前よりもずっとずっと素敵になったんだし、きっと大丈夫ですよ! それに小さい頃、いじめっ子から助けたんですよね? ふふふ、なんだかロマンチック」
ダニエルさんが微笑んだまま、押し黙り、指先を引っ込め、膝を抱え直した。緊張すると言うだけあって、ちょっと明日のお見合いがストレスなのかも? ここにいていい口実が得られたような気がして、ほっとする。
「あの、私で良ければ話、聞きましょうか……? 今、沢山聞いて貰っちゃったし。ダニエルさん?」
そう言いながら腰を上げて立ち上がると、少しだけ怯えた顔をした。意識して優しく微笑みかけながら、隣に腰を下ろす。緊張してしまったのか、ほんの僅かに距離を開けて、座り直した。
「だ、大丈夫……俺なんかよりも、メイベルは? 大丈夫?」
「あ、ありがとうございます……!! やっぱり、ダニエルさんって優しいですよね。ハリーとは違って」
「お、怒ってる? かなり」
「はい。私の大事なお人形を近所の男の子がぐちゃぐちゃにして、汚した時以来です。こんなに腹が立ったのは!」
「やっぱり、メイベルはメイベルだね……優しい」
「へっ!? そ、そんなことないと思いますけど……」
よく「優しいね」とか「温厚だね」とか言われるけど、私、ぜんぜんそんな、良い人なんかじゃない……。罪悪感で胸がちくりと痛んでしまう。ライ叔父さんの手前、良い子にしようと思って頑張っているだけだったのに。落ち込み、膝を抱えると、焦った表情で見つめてきた。
「あの、ごめん。嫌だったかな……? 気持ち悪かったかな」
「ぜっ、ぜんぜん! でも、私、本当はちっとも優しくない人間なんです。本当に優しい人だったらきっと、今回のことだって笑って許せたのに……」
でも、許せなかった。ハリーのこと。帰ってきてから、いつもみたいにリビングで腹ばいになってたけど、お尻を踏まずに通りすぎちゃった……。
「ハリーから、うつ伏せになってる時はお尻を踏んで欲しいって頼まれてるのに、踏めなかったんです。案の定、ショックを受けていて」
「いや、別にしなくてもいいと思うな」
「ほ、本当にですか? 私、心が狭い人間だなぁって。そう打ちのめされちゃってて……」
ああ、だめだ。また私の愚痴になっちゃってる。ダニエルさんに申し訳ないな……。深く「はぁ」と溜め息を吐いて、腕におでこを押し付けていると、そっと優しく、肩に手を置いてくれた。
「メイベル。ええっと、メイベルはすごく優しい女の子だし……大丈夫。アレンともきっと、両想いだよ」
「そうですかねぇ……でも、ごめんなさい。せっかく励まして貰っているのに、こんなこと言うのあれなんですけど、私、私、本当に優しくない人間で」
いつかこのことでアレンに嫌われたらどうしよう。考えるだけで、胃が冷たく沈み込む。嫌だ、嫌だ、怖い。熱い涙が滲み出てくる。こっそり涙を拭っていると、焦ってもう一度「メイベル」と、名前を呼んでくれた。
「だ、大丈夫だよ。それに、アレンは優しい人間があまり好きじゃないから」
「そうですね……。確かにそんなところがあるかも」
「絶対にええっと、上手くいくよ。大丈夫……」
そう呟いて、組んだ腕の上に顎を置いた。いつになく、憂鬱そうな顔をしている。ああ、だめだ。慰めないと。私の暗いのが移っちゃったのかもしれない。腕を伸ばして、その肩に触れると、びくりと体を揺らして振り返った。どことなく途方に暮れたような顔をしていて、青い瞳を見開いている。
「あ、あの! すみませんでした……今度は私がダニエルさんの話を聞きますよ? 励まして貰って元気が出てきたし!」
「えっと、うん。じゃあ、聞いて貰おうかな……」
肩に置いた手に手を重ね、ぎゅっと握り締めてきた。小さい子がお母さんの手にするみたいな仕草だった。微笑みを浮かべながら、話の続きを待つ。
「俺、実は好きな女性がいて……」
「えっ!? しっ、知りませんでした! 一体どこの誰ですか!?」
「そ、それは流石に言えないけど、でも、こんな俺にも優しくしてくれる良い人で」
「は、ふわぁ~……いたんですね、そんな方が。良かった」
一体、どこの誰だろう? ダニエルさんの心を射止めるぐらいだからきっと、笑顔の素敵な三十代前半の方とか……? あれこれ想像してみてから笑う。でも、お見合いしちゃうんだ。明日。
「あの、いいんですか? 好きだって言わなくて。その人に」
「絶対に言わない……。迷惑だろうから、俺が好きだって言っても」
「えっと、既婚者の方なんですか? それとも、彼氏がいるとか?」
「彼氏はいないみたいだけど……その、好きな人がいるみたいで。困らせたくない。絶対絶対、優しいから困らせる……」
「そうなんですね……。でも、後悔しませんか? ダニエルさんは」
相手に好きな人がいても、もしかしたらダニエルさんのことを好きになってくれるかもしれない。ううん、それはなくてもすっきりするかもしれない。ダニエルさんが。このままの状態で、お見合いなんかしたら絶対に後悔する。
「ねぇ、ダニエルさん? 勇気を出して、告白してみたらどうですか? ほら、お見合いは午後からですし、その方がどういった職業に就いているか分かりませんが、」
「いや、いいんだ……。絶対に困らせてしまうし、それに、俺」
ぎゅっと、おでこを腕に押し付けてうつむいてしまった。顔が見えない。もしかしたら、泣いてるかも? ど、どうしよう……。ひとまず、その曲がった背中を優しく擦ってみる。ゆらゆらと、目の前で温かな炎が揺れ動いていた。部屋の壁に、私とダニエルさんの真っ黒な影が映し出されている。
「……その子は俺の幸せを考えてくれたから。だから、俺もその子の幸せだけを考えていたい。困らせたくないんだ」
「ダニエルさん」
「それに……その、好きな人と上手くいきそうだし。その子が。だから、黙ってるよ。幸せになれば、まぁ、それでいいや。俺に唯一、優しくしてくれた女の子だから。きっと幸せになるだろうし、余計なこと言って困らせたくなんかない……」
自分の姿と重ね合わせて、思わず涙ぐんでしまった。私は? アレンに好きな人が出来たら、ちゃんと引き下がれるのかな。きっと無理だ。泣いてしまうし、「私以外の女の子の傍にいないで、私の傍にいて」と言ってすがってしまう。涙があふれて止まらなかった。静かに泣いていると、ダニエルさんがぎょっとした顔をする。
「ご、ごめん。メイベル? あの……」
「あ、謝らないでください。ごめんなさい……。私としてはちゃんと、好きって言って欲しいなと思ってて。だって、その方が絶対楽になれる。私だったら、気持ちを伝えないまま、お見合いするだなんて絶対に無理だから……」
指で涙を拭い取っても、またあふれ出てきた。恥ずかしくなってきて、両手で顔を覆う。ダニエルさんがおろおろしながら、ズボンのポケットを探っていた。何となく、そんな気配が伝わってくる。
「ご、ごめんなさい。私、結局、自分のために泣いちゃってる……」
「め、メイベル。そんなことはないと思う。ありがとう」
「ううん、きっと、自分だったらって、そう思って泣いちゃってます……。ごめんなさい。私、ダニエルさんのために泣けたら良かったのに。うっ、ううん、泣きたいのはきっと、ダニエルさんですよね? 私なんかが、勝手に感情移入して、泣いちゃってごめんなさい……」
自信がなくなってきた。このまま、上手くいかなかったらどうしようって。夜だからか、暗いことばかり考えてしまう。どうしよう? アレンと上手くいかなかったら。どうしよう? 「好きです」の一言が言えなくて、アレンが他の女の子の下に行っちゃったら。
「だ、だから私、結局は自分のために泣いてるんです。ごめんなさい、不安をぶちまけちゃって……。ごめんなさい、私なんかがこうやって泣いたって、何も解決なんかしないのに! ごめんなさい……」
「メイベル」
両腕を伸ばして、ダニエルさんが私のことを抱き締めてくれた。初めて抱き締められたけど、酷く落ち着いた。ほっとした。うんと年の離れたお兄さんがいたら、こんな感じだったのかもしれない。涙をこぼし、背中に手を回して、ぎゅっと抱き締め返す。
「メイベル。頼むから、そういうことは言わないで欲しい……。私なんかって言わないで欲しい」
「うぐ、ごめ、ごめんなさい……でも、自信がなくて。本当に。私、ぜんぜん魅力的じゃない」
マリエルさんみたいに美貌がある訳じゃない。ノアみたいに人を惹きつける何かがある訳じゃないし、シェラみたいに胸がある訳じゃない。ヘンリーだって物腰が穏やかで、所作がすごく洗練されているし、ハリーはあれでも仕事が出来る方で、もう重要な仕事を任されているみたいだし。────じゃあ、私のいいところってどこだろう? あるのかな、そんなところ。
「だ、だから私、余計に自信を失くしちゃって……いいところなんか、一つも無いような気がして」
「そんなことない。そんなことはないよ、メイベル。優しいし、俺のことを励まそうとしてくれたし」
「や、優しくなんてない……!! それに、女性としての魅力が無いような気がして。ありますか? ダニエルさん。私、ありますか……?」
「あるよ。大丈夫」
さっきよりも強く強く、抱き締めて耳元でささやいた。
「大丈夫。……メイベルは魅力的だよ。そのままでいい」
「ダニエルさん」
離れて、目元をごしごしと擦っていると、手のひらの向こう側でふっと微笑み、手を掴んで止めてきた。見てみると、苦しそうに青い瞳を細め、甘い微笑みを浮かべている。
「メイベル。腫れるから、あんまり擦ると」
「は、はい。ありがとうございます……ダニエルさん」
ようやく涙が止まってきたので、笑いかけてみると、よりいっそう苦しそうな微笑みを浮かべた。甘いんだけど、本当に苦しそう。まじまじと見上げていると、青い瞳がゆっくりと細められた。それから、手を伸ばして私の頬に添える。
「ダニエルさん……?」
何も言わずに、おでこにそっとくちびるを押し当ててきた。驚いて硬直する。何が起きたんだろう、今。私に何をしたんだろう、ダニエルさんは。見上げてみると、青い瞳に涙を滲ませ、また苦しそうに笑う。
「……ごめん。言うつもりはなかったんだけど。好きだよ、メイベル。好きなんだ」
頭が真っ白になる。今までの出来事が断片的に蘇ってきて、パズルのピースみたいに集まり、ぴたっと最後のピースがはまった。じゃあ、じゃあ、私。
「私……そんな。じゃあ、すごく無神経なことを今まで、してきて」
「ごめん、メイベル。困らせると思ったんだ。でも、本当に気にしないで。メイベルは今のままで十分、すごく魅力的な女の子だし……大丈夫。きっと上手くいくよ。アレンと幸せになれるよ」
早口で言ったあと、今度は眉間にキスをしてきた。おでこを押さえ、愕然と見上げていると、また苦しそうに微笑む。
「ごめん、勝手にキスして……。ほら、もう今日は帰って眠った方がいいよ。おやすみ」




