10.恋を叶える香水と待ち望んでいた展開
恋を叶える香水。朝、緊張に手を震わせながら説明書を読んでゆく。紙は上質で、さらりとした手触りが心地良い。香水の香りが移っているのか、ほんのりと薔薇の良い匂いがした。少しだけ、マリエルさんのことを思い出す。
「相手の好きな香りに変化する……へ~、すごい。あとは」
こっくりとした深い薔薇色の紙に、優美な文字でそう書き記されていた。“相手の好きな香りに変化する”のと、“思わずじっくりと嗅ぎたくなってしまう”作用の二つ。色めいた文章が並んでいたので、頬がかぁっと熱くなる。一旦、説明書を持ったまま顔を伏せた。
(だ、だめだ。仕事、仕事に行かないと……)
まだ何も用意出来てないんだから! どきどきと逸る胸を押さえ、ソファーに腰かけながら読み進めてゆく。まだ朝陽は勢いを増していなくて、ほんのりと、暗い陽の光が部屋を照らしていた。早朝ならではの静けさがよりいっそう、緊張感を高めてゆく。
「ちゅっ、中毒性まで……!? 軽くあるんだ。わっ、すごい。好きじゃない人の前では使っちゃだめだって、そう書いてある……」
刻一刻と桃やグレープフルーツ、オレンジやチェリーといった、相手の好きな香りへと瑞々しく変化していき、それを長時間吸い込めば、少しだけ頭がくらくらしてしまうらしい。だから、好きでもない人とのデートにはつけていかないよう、書き記されている。きょ、今日はつけない方がいいのかな……!?
「あっ、書いてある。親切……ええっと、ごく少量ならいいんだ。へ~」
香水の蓋を外して、綿棒などにつけ、それを首筋や手首につける程度ならいいって、そう書いてあった。これだけでも万人ウケする良い香りをまとえるし、ちゃんと影響が出てくるらしい。試しに綿棒をって、そう思ったけど。
「で、でも、アレンと一緒に出勤するの、デートだと思う……!!」
かなり一緒に歩くし、もうこれはデートなんじゃ……? 朝、一緒に職場まで行くのをデートにして、今日から毎日つけることにした。ヘンリーやハリー、フレデリックさんやダニエルさんに、悪い影響が出ないといいけど……。
(うーん……近付かないようにしよっと! それに、いざとなったらアレンがどうにかしてくれるだろうし。たぶん、大丈夫大丈夫~)
みんな優しいし、きっと大惨事にはならないだろうから。空中に向けてシュッ、シュッと吹きかけてから、その下を通って香りを全身にまとう。すぐにふんわりと、甘いブラックチェリーのような香りが漂った。
「これ、私好みの良い香り~……私の好みに合わせて、変化してくれるだなんてお得。嬉しい」
他の人の好みに合わせて変化するけど、その変化はこちらに伝わってこない。私がベリーの香りだと思っていても、相手からすれば石鹸の香り。他の人からしたら桃の香りと、それぞれの好みの香りを届けてくれる。だから、私は常に私好みの良い香りがまとえる。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、小さなバスルームで歯磨きをしてると、次第にシャインマスカットの香りに変わっていった。今、その人が嗅ぎたい香りに変化してくれる。
「よしっ! アレン、どんな反応するかな~? 楽しみ!」
説明書には体験談も載っていた。好きな人とドライブデートしてたら、いきなり車を路肩に止めて、「ごめん、ハグしてもいい?」とか、他にも「今日めっちゃいい匂いするね」って言われて、近付いてきたとか色々あってときめいてしまう。羨ましい!
(アレン、どうかな~? してくれるかな~? でも、してくれないんじゃないかなぁ。アレンのことだからもっとこう、変な方向にいっちゃいそう……)
例えば、「今日は良い匂いがするなぁ」で終わりとか……。ついうっかり、マイナスな想像をしてしまった。切り替えるために、自分の両頬をぱんっと軽く叩く。
「まだそうと決まった訳じゃないし! よしっ!」
ちょっとだけオシャレしようと思って、悩んだ末に、青いレーススカートと白いノースリーブニットを選んだ。少し体のラインが出るけど、これを見たアレンがものすごく黙り込んだあと、「夜、着ていかない方がいいと思う」って言ってくれたから! いつものようにダニエルさんがくれた、シンプルなリボンチャームのネックレスをつけて部屋を出る。すると、紺色のスーツを着たハリーが佇んでいた。
「あれっ? おはよう、メイベルちゃん。今日はあれだね! 焼き立てピザの香りがするね!? 良い匂い!」
「おはよう、ハリー。焼き立てピザの香りがするの……?」
「うん! 焼き立てのピザの香りがする女の子って、すごく魅力的だよね」
「そう……」
ハリーが胸元に手を当て、うっとりと両目を閉じている。ど、どうしよう!? これは予想してなかった。アレンも私のこと、美味しい生ハムの香りだって言い出したらどうしよう……!!
「アレン、最近、生ハムとクリームチーズの組み合わせにはまってるのに……!!」
「えっ? どうした? 頭大丈夫?」
「あのね? これ、実はね……」
説明してみると、重々しく頷いてくれた。少しの沈黙のあと、二の腕を組みながら言い放つ。
「メイベルちゃん。今すぐその香水は洗い流した方がいいよ! ほらっ、アレンは最近、ブルーチーズが好きでよく食べてるしさ!?」
「えっ!? そ、そうだったの!? でも、ブルーチーズは苦手だって、前にそう言って、」
「今のメイベルちゃんからは絶対絶対、発酵臭がするから! くっさい発酵臭がするから!!」
「しっ、しないもん!! アレンならハリーと違って、私のこと、すごくいい香りの……ええっと、ええっと!」
「えっ、うるさ……朝からなに?」
「ノア! おはよう。ごめんね……」
ここから少し離れた部屋のドアが開き、ノアが迷惑そうな表情でやって来た。シンプルに、素肌の上から黒いバスローブを羽織っている。胸元がはだけていて、朝から色気たっぷりだった。
「おっ、おはようございます。ノア……」
「ハリー……朝からメイベルちゃんに絡んでないで、さっさと仕事にでも行けば? 鬱陶しい。迷惑」
「えっ? じゃあ、足先をメイベルちゃんに踏んで貰ってから……待って!! 二人同時はやめて欲しいんだけど!? 興奮できない!!」
ぎゅむぎゅむと二人で踏んであげると、立ったまま足先を押さえ、「ひーん……俺の思ったように踏んで貰えない!」と言って泣いていた。それをスルーして、階段を降りてリビングへと向かう。すぐにマリエルさんが出迎えてくれた。笑顔でぎゅっと、私のことを抱き締めてくれる。
「おはよう! メイベルちゃん……って、あら? 早速使ってくれたの? あのシャンプー! 良い香り~」
「ふふふ、実はですね~? あっ、もちろん使いはしたんですけど! この香りは、」
「おはよう、メイベル。その、大丈夫か?」
「おはよう、アレン! 一体何が……?」
「ちょっと!」
真っ赤なエプロンを着たアレンが、無言で私とマリエルさんをべりっと引き剥がし、顔色を確かめるかのように凝視してきた。も、もしかして効果が現われたとか!?
「昨日、食いすぎて胃が荒れてないか? 大丈夫か? もしあれだったら、ポケットに胃薬が、」
「しまいなさいな、アレン。大丈夫よ、まったくもう」
「あ? メイベルは胃が悪いんだぞ? 分かってんのか? おい」
「別に悪いって言ってないでしょう!? 本当に拗らせてるんだから」
「ああ!? 喧嘩売ってんのか、ババア!? くっそ! ライさんの前ではしおらしくなるくせになぁ!?」
「当たり前でしょ? そんなの。好きな人の前では、可愛い女の子でいたいの!」
「はいはい、もうその辺にして……」
ドアの近くで揉めていると、ぐったりした表情のヘンリーがやって来てなだめてくれた。ああ、違ったんだ……。期待したのに。それに、この匂いは。
「ね、ねえ、アレン? 今日の朝ご飯って、ひょっとして」
「あ? そうそう。シェラのリクエストでカレー。つっても簡単なもんだけどな。スパイスから作る暇は無かったから」
「シェラの……リクエストで?」
「おう。ガーリックたっぷりって言ってきたから、それ入れて作った。あ、でも、ノアやこのおばはん向けに、ガーリック抜きで作ったカレーがあるから。好きなの選べよ、お前も」
そんな……。せっかく、香水をつけてきたのに!! しょぼしょぼと落ち込みながら、美味しいガーリック抜きのカレーを頬張っていると、アレンが「辛かったか!? 大丈夫か!?」と言って、ラッシーを持ってきてくれた。まったりと濃厚なヨーグルトとマンゴー味のラッシーを飲みながら、落ち込む。
(カレーの匂いで全部消えちゃってる……刺激臭が強いところでは、使わないでくださいって、そう書いてあったのにな……)
そういうところで使うと、あまり効果が出ないみたい。そのうえ、アレンは白いニットを着てカレーを食べている私を見て、そわそわし出した。次の瞬間、ふわっと魔術でナプキンを取り出し、せっせと私の胸元を隠し出す。ヘンリーやノア達がそれを見て、呆れた顔をしていた。
(でも、大丈夫! これから二人で出勤するんだし!!)
他のみんなもいなくなるし、きっと、ハリーやフレデリックさんも邪魔してこない。気を取り直して、アレンと二人で玄関を出る。
途端に、朝特有のひんやりした空気に包み込まれた。夏の眩しい陽射しが、庭の木々を照らし出し、柔らかな地面に色の濃い葉陰を落としている。あちらこちらで、鳥がぴるぴると鳴いていた。綺麗だった。私のまとう香りも、その清々しい朝の光景に合わせて変化する。うっとりするような甘さの、ベリーの香りから瑞々しいグレープフルーツの香りへと変わってゆく。
両腕を広げ、歩きながら頭上の木々を見上げると、新緑の色をした葉が目に眩しいほど、きらきらと光り輝いていた。笑って振り返ってみれば、アレンがしみじみと青い瞳を細めている。軽く羽織った群青色のジャケットと、白いTシャツと黒いズボンがよく似合っていた。
「ねぇ、アレン? 見て見て、ほらっ! 今日も良いお天気~。ここで昨日、一緒にご飯食べたよね? またしようね~」
「そうだな。またバニラでも連れて、一緒にピクニックするか……。写真が撮りたい。芝生と木をバックにした、お前とバニラの写真が撮りたい」
「もっ、も~! また写真!? 写真は禁止!」
「えっ!? いいじゃねぇか、ちょっとぐらい!」
「やだ! アレンがちゃんと私のこと見てくれないから! 真剣に撮ってて、話も聞いてくれないし……」
不満そうなアレンを置いて、せかせかと歩いていると、「待てって、おい!」と言いながら手首を掴んできた。振り返ってみれば、不満と困惑が入り混じった表情で佇んでいる。
「分かった、分かった。じゃあ、二十枚だけにするから……撮るの」
「……うん。そうして欲しい」
「じゃあ、また今日にでも予定を立てて……って、お前。メイベル」
「へっ? どうしたの?」
手首を掴んでいるアレンが、また困惑して青い瞳を揺らす。も、もしかして、とうとう香水の効き目が現われて……!?
「なんか今日、良い匂いがするな……あ、マリエルがそういや贈ってたか。お前にシャンプーとリンスを」
「えっ? あ、う、うん。これ、オレンジとラベンダーの香りなの。良い香りでしょ?」
「オレンジとラベンダー? いや、というよりかは」
さりげなく、距離が縮まる。心臓がばくばくと変な音を立てている。朝の小鳥がさえずる中で、アレンが私の手を握り締め、さらに近寄ってきた。私のこめかみ辺りをふんふんと、軽く嗅いでいる。息が少しだけ当たって、くすぐったい。恥ずかしくて汗が滲み出てきた。
「あ、あの、どんな香りがする……? オレンジとラベンダーじゃないの?」
「もっとこう……ああ、子猫の頃のバニラの匂いだな。コーングリッツと甘いミルクが混じったみたいな」
「子猫ちゃんの匂い」
「だな。……あ、悪い。嗅いで」
アレンが申し訳なさそうな顔をして、すっと離れてゆく。子猫、子猫ちゃんの香り……。
「アレン。そんなに猫好きだったっけ……?」
「へっ? まあまあ。犬よりかは好き」
「これね? 相手の好きな香りに変化する香水なんだけど」
「……ああ、ダニエルのか。贈ってたな、そういや」
私を置いて、すたすたと歩いていってしまった。い、いつもなら歩調を合わせてくれるのに! 待っていてくれるのに。
「ねっ、ねえ! ちょっと待ってよ、アレン……。ええっと、これは別にダニエルさんから贈られた香水じゃ、」
「えっ? そうなのか? てっきりそれかと」
すぐさま振り返って、きょとんとした顔をする。も、もしかして嫉妬? 嫉妬してるのかな?
(あ、あとでダニエルさんに口裏を、口裏を合わせて貰わなきゃ……!! あと、ノアに口止めをして! ばれないようにしなきゃ!)
内心焦っていると、どこかほっとした顔で笑う。「嫉妬?」って聞けたら良かったんだけど、聞けなかった。昨夜の言葉が深く刻まれているから。私は妹みたいな存在で、ただの女友達。アレンは優しいから、誰にでもこういうことをしているのかもしれない。戸惑って黙り込んでいると、アレンが手を差し出してきた。
「行くか、メイベル。昨日の夜、実は雨が降ってな……。ぬかるんでるから。転ぶと危ないから」
「あっ、う、うん……」
「にしても、良い香りだな。それ。ちょっとまた変わってきたぞ」
「えっ? 次はどんな香り?」
「うーん……そうだな」
私と手を繋いで歩きながら、アレンが深く考え込む。いつもより早く家を出ちゃったし、どうしようかな? 喫茶店で時間でも潰す? そんなことを言い出したくて、その横顔を見つめていると、ふいにこちらを振り向いた。黒髪と青い瞳のコントラストがすごく綺麗。朝焼けの中で見るアレンなんて、すごく綺麗なんだろうなぁ。旅行中、見た青い海が思い浮かぶ。
「今はもっともっと甘い香りだな……ベリーみたいな、シナモンみたいな香り。スパイスの香りも混じってる」
「そっ、そうなんだ……ええっと、て、手首! 手首にもつけたんだけど、どうかな!? 臭くない?」
「大丈夫。ちょうどいい」
「えっ? ほ、本当に?」
ごくりと唾を飲み込む。他の人の体験談にあったように、抱き締めて嗅いでくれたらいいのに。じっと見つめていると、気まずそうな顔をして立ち止まった。
「……どうした? メイベル。本当に臭くないから。大丈夫だから」
「アレン、ええっと、その、私、昨日の疲れが残ってるみたいで!」
「ああ、やっぱそうだったのか。さっきもカレー食ってる時、顔色悪かったしな……」
(違うけど! せっかく良い香りにしてきたのに、アレンがカレー作ってたからだけど!!)
でも、言えない。わざとしょんぼりとした顔を作って、胸元に手を当ててみる。
「その、今日、ちゃんとお仕事出来るかどうか分からないから、こう、ぎゅっと抱き締めてくれると、一日頑張れるような気がするな~……!!」
「よし、分かった。ええっと、こうか?」
いつもとは違って、戸惑いがちに抱き締めてくれた。その瞬間、ぶわっと薔薇の甘い香りに変化する。わっ、わ~……!! 恥ずかしい!
(私のときめいた時の香りって、薔薇の香りなんだ!? 確かに今、嗅ぎたい香りのような……)
いつもよりどきどきしてしまった。この薔薇の香り、届かないといいけど。大丈夫だよね、きっと。おそるおそる、両手を伸ばして抱き締め返す。アレンがふと、耳の辺りを慎重に嗅いできた。
「ああ、やっぱりさっきと少し違うな……ごめん、メイベル。ちょっと嗅いでもいいか?」
「へっ!? どっ、どっ、どうぞ……ええっと、ど、どんな香りになった!?」
焦りながら聞いてみると、「んー、そうだな」と耳元で呟く。くっ、くすぐったい。これが、これが恋を叶える香水の効果……!! 暑くないのに、どっと汗が出てきて背筋が冷える。
「温泉上がりみたいな……石鹸の香りだな。それからローズマリーとラベンダーと、甘いベリーの香り」
ごくんと、唾を飲み干す。こ、こうなりたいと思っていたのに、刺激が強すぎるかもしれない。全力で突き飛ばして、逃げ出したい気持ちになってきた……。アレンがさらにぐっと、私を抱き寄せて、頭の後ろに手を添えてくる。初めてだった、こんな抱き締めかた。まるで、恋人にするみたいな────……。
「メイベル……俺」
「ごっ、ごごごごめん! もう無理!! 限界っ!!」
「わっ!?」
今、どんな顔してるんだろう? 私。きっと真っ赤になっちゃってる。当分、アレンの顔が見れないような気がした。アレンが呆然とした顔で、自分の肩を押さえてる。おっ、思いっきり、突き飛ばしちゃったかも……!!
「きょっ、距離が近くて……!! ごめんなさい、そんなつもりはなかったのに! じゃっ!」
「ごっ、ごめん! メイベル! 二度と、二度としないから! ごめんって! おいっ、そんなに走ったら転ぶぞ!? ごめんって、もう二度としないから! 必要以上に近付かないから!! ごめんって! メイベル!? おいっ!」




