5.休日の昼下がりとお砂糖の歌
休日の昼下がり、柔らかな秋の陽射しが射し込むキッチンにて歌を歌う。ここには誰もいないから、私以外には誰もいないから。玉子を割ってポーチドエッグでも作ろうか、それとも休日らしく気取らないものにしようか。
「チックタク、チックタク、時計の針はお砂糖で出来ている、チックタック、チックタック」
瑞々しいロメインレタスに真っ赤なトマト、こんがりと焼けた分厚いベーコンに目玉焼きとバターがじゅわっと溶けたパン、甘いオレンジシュースにほろ苦い珈琲。世界は沢山の美味しいもので溢れている。
何を食べようかとつらつら考え事をしつつ、メイベルは滑らかな栗色の髪を結んで紺色のワンピースに白いエプロンを身に付けていた。ふんふんとお砂糖の歌を口ずさみ、とりあえず黄色い卵液をかき混ぜてゆく。
「チックタク、チックタク、甘い午後のお茶にはヒゲの素敵なセイウチの紳士をご招待しましょう、チックタク、チックタク」
夢中で歌って指でチーズをちぎって、黒胡椒をかりかりとふっておく。後はガーリックとバジルでも入れようかどうしようかと悩んでいると、ふと心配そうな表情のアレンと目が合った。
「わっ!? アレン!? いつからいたの、そこに!?」
「ごめん、わりと前から……つーかリビングのソファーで寝てたから、俺……ごめん、メイベル。声かけようと思ったんだけどわりと口を挟む隙がなくって」
「あっ、ああ~……恥ずかしい、やだ……私ったらもう!」
子供っぽい歌をふんふんとご機嫌で歌っていた。恥ずかしい。両手で顔を覆って落ち込んでいると、アレンがこちらへとやって来てぽんぽんと頭を叩いてくれる。
「うん、まぁ。子守歌代わりになって良かったよ、上手いな。メイベル。歌うの」
「えっ? そ、そう? ありがとう、アレン。そんな風に褒めてくれてすっごく嬉しい!」
嬉しくてぱっと笑ってお礼を言ってみると、ぎゅっと眉を顰めて物凄く嫌そうな顔をした。ど、どうしてだろう?
(もしかしてお世辞だったのかな……気を遣って言ってくれただけなのかも。反省……)
しょんぼりと落ち込んでいると、アレンがボウルの中を覗き込んで「オムレツ作るのか? うまそう、食ってもいい?」と聞いてくる。あ、そうだ。ちゃんと言わなくっちゃ。
「この間、休みの日にお昼ご飯を作って欲しいって言っていたでしょう? だから探しに行ったんだけどどこにもいなくて、」
「うわああああーっ!! 物凄く良い夢だったのに夢だった! 辛い!! 三億円を貢いで冬の海に美女に投げ捨てられたのに夢だったんだ!! 一体どう思う!?」
「とりあえず死ねって思った、今。パン屋、邪魔をしやがって……」
そのままさかさかと四つん這いでやって来て、黒髪黒目のフレデリックがわぁっとキッチンの床で泣き叫ぶ。でも半裸にデニム姿だから目のやり場に困ってしまう。それに寒くないのかな、ここタイル床なのに。
「もう誰でもいいから女に罵って欲しい!! あっ、そうだ! メイベルちゃん!? ちょっとそこのフォークで俺の目玉でも突き刺してくれないかな!? その後で三百二十万を請求して欲しい! それが無理ならせめて俺の頭を踏んで、」
「よしきた、今すぐ踏んでやる。黙れよ、このゲスパン屋が!!」
「違う!! 男じゃない、男が俺に触れるなああああああっ! 違うっ、美女っ!」
「うるせーっ!! さっさとどこぞの女に刺されて死んでしまえよ、この変態クソパン屋が!!」
「あっ、アレン! 駄目だから! 死ねって言っちゃ駄目だから! ねっ!?」
アレンの黒いTシャツを引っ張ってなだめると、渋々黒髪頭から足をのける。深い溜め息を吐いてスリッパを履き直すと、また先程の話題に戻った。
「ま、次からはもう作らなくてもいいから。あんまり負担とかかけたくないし。ただ今日はオムレツと何かパスタでも食いたい。いいか?」
「うん。別にいいよ、アレン。自分の分を作るついでだし、材料費も貰ってるけどそんなの気にしなくっても、」
「おい、目の前でいちゃつくなよ。若人! 罵られたいおじさんの目にはきつい!!」
「きっも、気持悪っ。てかいちゃついてなんかねぇよ、お前らは年中発情期か? なぁ? そんなことしか頭に無いのか? ああ?」
「ふっ、踏んじゃ駄目だって。アレン……!!」
再度黒いTシャツを引っ張ってなだめると、素直に足を元に戻す。良かった、彼が優しい人で。そんなやり取りを見てフレデリックが「優しい女性なんてこの世から消失すべきなんだ、何で誰も俺のことをきちんと罵ってくれないんだろう……」と虚ろな表情で自分の手を見つめる。
「え、ええっと、大抵の女性は男性のことを罵らないと思います……皆さん、常識的な方ばかりだし罵られることが嫌いな人の方が多いから、」
「おい、メイベル。やめろ、訳が分からん変態にそんな常識を説くな!!」
「あっ、はい。今すぐやめます……」
すると、また物凄く嫌な顔をする。ほ、本当によく分からない。一体どうしてなんだろう?
「悪いね、メイベルちゃん……君の善良さと優しさに本当、嫌気が差してしまって……実は真面目そうに見えて裏では複数の男と遊んでいてブランドバッグを貢がせていたとかなら俺のテンションも爆上がりで、」
「いいからとりあえず服を着てこい、パン屋。話はそれからだ、全部」
私がしきりに顔を背けているのを見て、アレンが注意してくれる。ほっとして笑いかけてみると、嫌なものを見た顔をして眉を顰める。
「あ? 別にいいじゃないか、下は履いている」
「いいからとりあえず着てこい。どうせお前もメイベルの作った飯が食いたいって言うんだろう?」
「言う! 物凄く言う!!」
「っじゃあ今すぐ着てこい、目障りだ!!」
アレンが強引にフレデリックを追い出し、また深い溜め息を吐く。ああ、何が何だかよく分からないけど。私も私で彼の負担になっているような気がする。
「あの、ごめんなさい。いつも迷惑ばっかりかけて……」
「二度と言うな、それ。嫌な奴と重なるから」
思いの外、強く遮られ肩を揺らしてしまう。そんな私の様子を見て、しまったとでも言いたげに口元を押さえて謝ってくれた。
「ごめん、メイベル。俺は……お前みたいな善人は何も悪くないって、ちゃんと分かっているつもりなんだけどな……どうしたって割り切れないんだよ、色々とな」
「うっ、ううん……どうしても嫌いな人っているよね。それにアレンはその、そのことで深く傷付いたんでしょう? なら仕方ないよ、きっと私もアレンも何も悪くない……」
いや、でも。ぎゅっと拳を握り締め、白いタイル床を見つめる。
「私がきっと、無神経な発言ばっかりしちゃっているからだよね? 本当にごめんね……」
「何が食いたい? メイベル。作ってやるから、何でも」
アレンが腕を組んで、じっとボウルを睨みつけていた。唐突の言葉に戸惑ったが、ふと食べたいものが浮かぶ。
「ホットケーキが食べたい……あっ、でもしょっぱいものじゃないね……」
「じゃあそれはおやつの時間にな。後は何が食べたい?」
真剣な青い瞳を見て、思わずくすりと笑ってしまう。アレンが居心地悪そうにそっぽを向き、「何だよ? 何が笑えるんだよ……」と黒髪頭をがりがりと掻いて呟いた。
「ふふっ、ごめんなさい。アレンの口からおやつって単語が飛び出してくるとは思わなくって……だからつい」
「あー、お前の口調が移ったのかもな。最近ずっと喋ってるから。そんでほい、しょっぱいもんで後は?」
アレンがフライパンを取り出して、コンロの上に置く。本当に作ってくれるらしい。優しい人だな。
「じゃあ、とりあえずオムレツとベーコンかな……あと昨日のコーンクリームスープを温め直してくれる? パンに浸して食べたいの」
「よし。じゃあ後は全部俺がやるから寝てろ。セイウチみたいにソファーで寝転がってろ、お前」
「えっ、それは別にいいかな……起きて待ってるよ、私」
口元が緩んで、突然やって来た幸福に白いエプロンを握り締める。きっと私は彼の嫌いな人とよく似ていて。それでもアレンは優しくしてくれる。本当に良い人だ。
「ありがとう、アレン。そう言ってくれて……本当は私のこと、その、嫌いなんだろうけど」
「違う、嫌いって訳じゃない……ただ、ああ! もうっ!!」
そこでポケットからお菓子を取り出して、包装紙を破って私の口に突っ込む。一口サイズのキャラメルフィグだった。もふもふとパウンド生地を噛み締め、レーズンの風味を楽しむ。
「なんて言えばいいのかよく分からないんだよ、ただ。ええっと、傷付いて欲しくないってのは思ってる。嫌いじゃないし……ただ、あいつの姿と重なるだけで。お前の姿が」
もふもふと食べながら頷く。何となく、何も言わない方がいいような気がしたから。アレンがフライパンに油を引いて、換気扇のスイッチをかちりと押す。
「お前のな、笑顔とか台詞とかが……本当にあいつとそっくりで。だからもやもやする。でもこれは俺の問題だから、お前は何も悪くなんてないから」
まるで独り言のように繰り返す。ぱちぱちと熱くなってきたフライパンの音を聞きつつ、その横顔をじっと見つめ続けた。
「それにあいつのことだって。嫌いかって言ったら別にそうじゃない……ただこちらが虚しくなる程の善人ってだけで。俺が何やっても無駄なんじゃないかって。逆に迷惑をかけてるんじゃないかって」
「そっ、そんなことないと思うけど……助けになってると思うけど?」
アレンがこちらを見て、ふっと淋しそうな顔で笑う。青い瞳が「だから嫌なんだ、お前のことが」と語っていた。どうやら彼も複雑なものを抱えているらしい。
(私にも覚えがある感情だから、それは……)
その優しさを恨んでしまう時もある。そして、その時に自分の醜い怪物と向き合う羽目になるのだ。自分の醜い部分をどうしても嫌悪してしまう。
「あいつもそう言っていたよ、メイベルと同じことをな。……俺が勝手にへそを曲げてるだけだよなぁ、これも」
最後の呟きは聞き取れないほど、小さくて淋しくて。ひっそりと微笑み、手を組んで足元を眺める。これ以上はきっと、踏み込まない方がいいだろうから。
「それじゃあ私。あっちで待ってるね、アレン。出来たら呼んでくれる? あと」
「おう。何だ? メイベル」
「ありがとう、そんな風に優しく説明してくれて……やれば出来るじゃない、アレンも」
そう茶化してみると、子供のように笑っていた。顔をくしゃりとさせてフライ返しを持ち上げる。
「うるせーよ、バーカ。さっさと寝てこい、ソファーで。そんでぶくぶくに肥え太った豚になってこい」
「なっ、ならないもん。ちょっと寝たぐらいで……!!」
「どうだかな。そんじゃ俺、今から卵焼くから。話しかけんなよ? いいな?」
「あー、うまい。ありがとう、アレンにメイベルちゃん……」
「いいえ、どういたしまして。でもご飯はアレンが作ったのものだし……私は珈琲しか淹れてない……」
「それで十分だよ、メイベルちゃん。女の子が淹れてくれたものの方がうれし、」
「それも実は俺が淹れたんだよな、パン屋……」
「捨てていいか? 今すぐ。キッチンのシンクにでも」
「う、嘘ですよ。嘘。アレン、そんな嘘吐いたら駄目だからね……?」
隣に座ったアレンがふんと鼻を鳴らして、分厚く切ったベーコンを齧り取る。それを見て笑い、ふわとろオムレツを口に運ぶ。どうも彼はバターをたっぷり使う派らしく、芳醇なバターの香りがふわりと漂う。
「おいっ、美味しい。アレン、ありがとう。上手だね……」
「ん、どーいたしまして。お代わりあるからな、一応。ちょっとだけだけど」
「あれ? もしかしてこの空間に、変態ドマゾおじさんは必要無いのでは……?」
「最初っから必要無いだろ。いちいち邪魔しやがって。折角の穏やかな休日だと思ったのに……」
アレンが眉間を揉みこみ、深い溜め息を吐く。最近の彼はどうやら仕事で嫌な感じの男の子を担当しているらしく、とても疲れ果てている。フォークをくちびるに押し当て、ちょっとだけ考え込んだ。
「私とどこか遊びに行く? アレン。ゆっくりしたいのなら公園とか喫茶店とか?」
「美術館に行きたいな、俺……有名な魔術師のローブとか人外者が作った王冠とか展示されてるんだよ。知ってるか?」
「えっ、知らない……何それ、すっごく楽しそう!」
顔を寄せて話し合っていると、向かいに座ったフレデリックが嫌そうな顔をして舌打ちした。驚いて見てみると、黒い瞳を鋭くさせて睨みつけてくる。
「そういうデート計画はどっかそこら辺の茂みでするんだな……!! ここはリビングだ、リビング! 共有空間だ!!」
「なんで茂みなんだよ? あと別にデートじゃないから……」
「そうそう。単純に私の気分転換も兼ねてですから……」
そこで物言いたげな表情でアレンが振り返った。彼はちょくちょくこうして傷付いた子犬のような顔をする。
(う、うーん。難しいな、人付き合いって……)
端っこがかりかりに焼けたベーコンを齧り取って、頬を緩める。食パンにはブルーベリージャムを塗り広げ、残り物のサラダにはシーザードレッシングをかける。これが私の好きな組み合わせだった。
「良かったな、アレン。気分転換だってよ! 気分転換! 良かったな!!」
「てめぇの頭の中にはグルテンしか詰まってないのか、フレデリック……気持ち悪いんだよ、その笑顔が」
「メイベルちゃん、俺も付いていっていーい? それ。俺も気分転換がしたい、ついでにどっかで誰かが俺の足先をピンヒールで踏み抜いてくれるといいんだが……」
「どっ、どうでしょうね……偶然ならあるかもしれませんね……」
「やめろ、付いてくんなよ。鬱陶しい」
もそもそと食パンを詰め込みつつ、低く唸る。どうも彼はフレデリックが苦手みたいだ。少しだけ考えてから口を開く。
「ごめんなさい、その……アレンのストレスになっちゃうみたいだから。申し訳ないけど次の機会に、」
「だってよ!! ざまあみろ、バーカバーカ!!」
「糸を得た蜘蛛か、お前は!! 得意げな顔をしやがって、くっそ腹が立つ!!」
「おーおー、やってみろ! この気持ち悪い変態のおっさんが!!」
「待って待って、二人とも? ご飯はちゃんと座って食べなくちゃ……ねっ?」
がたんと立ち上がったアレンを制すると、また渋々といった様子で座り直す。頑張ってフレデリックを強く睨みつけてみると、渋い表情で「足りない! まだだ!! もっと俺を蔑め……!!」と言って両手をふるふると震わせていた。それを見てアレンが舌打ちをする。
「無理だろ、メイベルには。絶対に。無駄なことしやがって……」
「がっ、頑張ってみたんだけど無理だったね……ちょっと変だったかもしれない」
「変というか俺を蔑む感情が足りなかったんだよ、メイベル……マリエルをもう少し見習って欲しい。頑張れ!」
「あっ、はい。もうちょっと頑張ってみますね……!!」
「やめろ、拳を握り締めるな! 決意しなくてよろしい!」
ばすんと頭を叩かれ、落ち込んでしまう。こういうところが変なんだろうかと考え、しょんぼりしつつレタスを齧っているとごほんと咳払いをした。
「お前は……もうちょいその性格直そうな? 何でも丸飲みにしやがって……」
「うっ、うーん……ごめんね、アレン。今度から気をつけるね……」
「可哀想に、メイベルちゃん……アレンに嫌がらせをされて」
「一番反省すべきはお前だからな、フレデリック。変態のクソクソパン屋め」
「変態のクソクソパン屋……」
何となく復唱をしつつ、クルトンを頑張って掬い上げる。話題を変えようと思い、睨み合っている二人に話しかけてみた。
「そういえば、この辺り。日常魔術相談課の人、全然来ませんね……私の叔父がそこで働いているんですが、偶然会うこともなくて」
「この辺り一帯は高級住宅街だからな~。困ってる人も少ないからなぁ。金とハウスキーパーで全部解決するからな、あいつら金持ちは」
「そもそもの話、金持ちには魔術師が多いだろ。自分で何とかしてるんじゃないのか?」
「ああ、それはあるね……ちょっとだけ淋しいかも」
苦く笑って、食パンをちぎってスープに浸す。アレンがこちらを見て意外そうな顔をしていた。
「仲が良いんだな、お前のとこ。俺、叔父さん叔母さんの名前も知らないかも……」
「把握しとけよ、アレン。それぐらい……」
「黙れ、パン屋。しれっと俺のベーコンを盗ろうとするんじゃない! 噛み千切ってやろうか!?」
「おっと、狂犬かよ。お前は……」
「べっ、ベーコン。フライパンにまだあるはずだから……!!」
かちかちと歯を鳴らして、アレンがフレデリックを威嚇する。慌てて立ち上がって皿を取り、アレンの「やめろ! こいつにさせろ、いい大人なんだからさ!?」という声を無視してキッチンへ駆け込む。白いお皿にベーコンを二枚乗せ、フレデリックに渡してみると嫌そうな顔をされた。
「そこは俺の顔面に、熱々のベーコンを押し当てるべき場面なんだが……?」
「えっ? ええっと、知りませんでした、ごめんなさい……」
「今度からは俺と一緒に外で食べような、メイベル。あーあ、まったく。気が休まらない……折角の休日だったのに」