20.過去の思い出と冬の終わり
「お兄ちゃん! ねぇ、待ってよ」
振り返ると、べそをかいたアランがこっちを見ていた。川を渡りきれなくて、岩の上で佇んでいる。
「あー……しょうがねぇなぁ、もう」
「ありがとう、お兄ちゃん……」
柔らかい手を握り締めて、こっちへ引き寄せる。たかだがそんなことで嬉しそうな顔をしていた。手を繋いで森を歩き、ニレの大きな木を目指す。毎年行っていた別荘近くの森は豊かで、格好の遊び場だった。広げられた枝葉の隙間から、眩しいほどの陽射しが燦々と落ちている。
「なぁ、アラン。お前な、もう少し……」
「ちゃんとするって。分かってるよ」
拗ねたように、そう言っていた。振り返って見てみると、白い頬を膨らませている。青い瞳には涙が滲んでいた。俺とはまるで違う眼差しで、子供心にこいつを守ってやらなきゃなとそう思っていた。
「お前には多分、もうちょい温厚な兄貴の方が良かったんだろうけど……」
「僕、知ってるよ。お兄ちゃんがなんで怒るようになったのかを」
「あー、はいはい。お前のため、お前のため」
アランはどこにいっても舐められていた。こいつが怒らない分、俺が怒っていた。いつしか「アラン君に比べて、アレン君は」などと、クソババアどもから言われるようになっていたが、どうでも良かった。俺が怒れば怒る分だけ、アランは得をする。それまで舐めていた連中が手のひらを返して、「お前の兄ちゃん、怖いんだな」なんて言う。でも、良かった。それで。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「あ? 風邪引きは黙って寝とけ」
共働きの両親に代わって、俺がアランの面倒を見ていた。寝台の上でけほっと咳をして、真っ赤な顔で見つめてくる。渋々本から顔を上げて、その顔を覗き込んでみると、へんにゃりと笑った。
「ありがとう……ごめんね、迷惑ばかりかけて」
「誰でも病気にはなるだろ。寝ろ。それとも、パジャマを替えるか?」
「ううん、いい。別に……」
随分と苦しそうな寝顔だった。あの時のアランと今のメイベルの姿が重なる。そうだ、俺は。変えようがないことを変えたくて、魔術を学んだんだった。そっと手を伸ばして、額に触れてみると、ひんやりしていた。熱はない。が、苦しそうな寝顔だった。
「……メイベル。よく眠っているんだけどなぁ」
「なぁ、まだか? 俺、腹減った~」
「ハリー、今騒ぐと本気で殴るからな?」
「大丈夫、お見舞いモードに入ってるから……」
「そう何度も確かめなくてもいいんじゃない? 食べましょうよ、一緒に下で」
くそっ! こいつらは俺がじっくりメイベルの寝顔を見る暇さえ、与えてくれないのか!? 猛烈に腹が立ったが、ぐっと耐えて振り返る。半開きにしたドアからは、眩しい光が零れ落ちていた。薄暗い部屋の中で「しーっ、先行ってろ、先!」と人差し指を立てると、マリエルとハリーがむくれて、頬を膨らませる。
「だってさぁ~……ライさん、育ちがいいよ。全員揃ってからじゃないとって」
「言えばいいだろ、言えば。すぐに行くって」
「ねぇ、アレン? ライさんってどうして独身なのかしら?」
「知るか、アホ! とっとと消え失せろ!!」
耐え切れず怒鳴り散らすと、「ううーん……」と苦しそうな声をあげてメイベルが寝返りを打つ。心臓が飛び上がった。慌てて顔を覗き込んでみると、すうすうと可愛い寝息を立てて眠っている。
「良かった……おい、五分後には行くから。そう伝えてこい」
「……分かったぁ~」
「行くわよ、ハリー。まったくもう。十分も二十分も、そうやって眺めたりして」
「うるせぇな、好きにさせろよ。俺の……」
ぱたんとドアが閉まって、部屋が真っ暗になる。くそが!
(あいつらに気遣いって概念は存在してないのか? あ~あ……)
手探りで歩いて、壁際のチェストまで行ってランプをつける。すぐにぼうっと、温かいオレンジ色の光が灯った。そこに浮かび上がった自分の絵を見て、思わず眉を顰める。
「……わざわざ、俺が勧めた通りに飾りやがって」
秋には秋の絵を、冬には冬の絵を。そういうことが好きなこいつに合わせて、贈ってやったが。こんなにも丁寧に飾られていると、複雑な気持ちになる。
(……まぁ、俺が言わなくても。そうしたんだろうが)
どこか歯痒い気持ちになりながらも、寝台近くの椅子に腰かける。オレンジ色の光にぼんやりと照らされたメイベルの根顔は、どこか苦しそうで、またアランの顔と重なる。
「似てるよなぁ。色が白いところも、この情けない眉毛もな……」
熱を測るついでに眉を触ってみたら、ふっとその目蓋が開く。驚いて息を詰めていると、「アレン?」と眠たそうな顔で聞いてきた。
「あ、ああ、メイベル。何か欲しいものは……?」
「ごめんね? 迷惑ばかりかけちゃって」
「……迷惑だなんて思っちゃいねぇよ。水、水でも飲むか?」
「ん~、いらない……」
ごろりと寝転がって、すんと鼻を鳴らす。俺の前では少しずつ、我が儘を言って甘えてくるようになった。よし、良い傾向だ。
「ほら、そう言わずにちょっとだけでもいいから飲め。治るもんも治らないだろ?」
「うん……あのね?」
「あ? どうした?」
「私、やっぱり悲しいかもしれない……ライ叔父さんの、姪っ子になんてなりたくなかったかもしれない」
拗ねてるんだな、さては。俺が姪っ子だから優しくしてるってのを聞いたから。コップを持ち上げたまま、その後ろ姿を見つめる。
「あ~……だから言いたくなかったんだよな、俺。メイベルにさ」
「ごめんなさい……勝手に拗ねて、いじけてて」
「普段が不気味なんだよ、お前は。それにだ、えーっと」
ここで弟のアランと似ているからと言ったら、ますます拗ねてしまう。
(苦手なんだよ、こういうことは! えーっと)
そこでふとクソババアの「でも、メイベルちゃんになら出来るでしょ?」と、腹が立つ言葉が蘇ってきた。そうだ、メイベルになら出来る。苦手だが、面倒とは思わない。
「メイベル。俺はえーっと、確かに始まりはそれだった。でも、今は違う。俺がしたいからしてるだけだ。それに」
「……うん。なぁに?」
そこでようやく寝返りを打って、こっちを見てきた。拗ねているからか、栗色の瞳には涙が滲んでいる。苦笑して、その涙を拭ってやると、ほんの少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「俺が言いたいのは……ええっと、もうメイベルの喜ぶ顔が見たいから。全部全部、恩返しとか全部取っ払って。喜ぶ顔が見たいから。さっきも言ったけどな、これ」
「うん……ごめんね? 拗ねちゃって。ありがとう。それでその、ライ叔父さんは……?」
その綺麗な顔立ちに罪悪感が浮かぶ。いいのに、気にしなくても。
「いいか? メイベル。昔の王侯貴族の間では、叔姪婚って言ってな?」
「う、うん……あの、いいからもう。私のこと、応援しなくてもいいから」
「応援、ね……」
応援しているつもりなんぞ、微塵も無かったが。
(ただまぁ、あの人は絶対に、メイベルに手を出したりなんかしないんだろうなぁ)
魔術でそういったことも出来るが。ただ、そんな考えを口にするのはやめた。メイベルには出来る限り、そんな汚いものからは遠ざかっていて欲しい。そんなことを考えてじっと見てみると、困ったように笑う。
「でも、ありがとう……心配してくれて」
「……俺、飯食ってくるな。ライさんと。お前は? 何か欲しいものは?」
「えーっとね、アレンが作ってくれたプリンとスープ。かな……」
可愛い。可愛いな、本当に。しみじみそう思って頭をわしゃっと、乱暴に撫でてやると「わっ!?」と言って嬉しそうに笑った。
「アランにそっくりだな、本当に」
「……そんなに似てる? 私」
「ああ。弟に似てて可愛い。じゃ、俺はこれで。スープ持ってきてやるからな?」
「あっ、うん。お願いします……」
まだ熱でもあるのか、弱々しく笑っていた。治癒魔術を使いたい気持ちをぐっと堪える。だめだ、あんまりこういうことしてると、自然治癒力が下がって働く免疫も働かなくなるだろうが!
(あ~……耐えろ耐えろ。苦しいな、くそ!!)
早く良くなるといいんだが。そんなことを考えて、スープを持って行ったあと、「わっ、私一人でも食べれるから!」と言い張るメイベルを置いて、リビングのテーブルに座る。
「えーっと、アレン君? メイベルの調子は……」
「ああ、熱は下がってました。でも、心なしか元気が無いです」
「お前じゃないのか? それは……」
フレデリックが呆れた顔で見てくる。うるさい。他の連中が飯を食っている中で、ひたすら檸檬水を飲んでいる俺が気にかかったのか、向かいに座ったライさんが話しかけてきた。
「あ、えーっと……アレン君は食べないのかな?」
「俺、断食中なんです。メイベルが良くなるまで何も食わない」
「えっ!?」
「大丈夫です。死なない程度にナッツとか、そういうの摘まんでるんで」
そう言って檸檬水を飲むと、すかさずマリエルが「お気になさらないでください。この子、メイベルちゃんのことになると変なんです」と話しかけて微笑む。うるっせえな!
「誰が変だ、クソババア!」
「えっ、クソババアってそれは、」
「あーら、その通りじゃないの。まったくもう。自分の顔、鏡で今朝確認した? 酷い顔色よ。まるで貴方が風邪を引いているみたい」
「……普通だろ、別に」
「いや、普通じゃないからな?」
いつの間にか隣に座っていたヘンリーが、苦笑してこっちを見てくる。興味も湧かなかった。ああ、やっぱり付いて、あいつの手でも握ってやれば良かったかも。黙って檸檬水を呷っている俺を見て、ライさんがメイベルそっくりの、戸惑った表情を浮かべていた。
「その、あー……そうだ。あの時、アランの兄だとは全然思っていなかったよ」
「……ん? 俺、名乗りませんでした? あの時」
失礼だとは思いつつ、以前メイベルと一緒に会った時、咄嗟に「初めまして。メイベルと同じシェアハウスに住んでいるアレンです」と自己紹介したが、向こうも向こうで「ああ、初めまして」と言ってきたから、すっかり安心していた。そう返してみると、酷く戸惑った顔をする。
「いや、あの、いきなり殴りかかろうとしていたから……」
「なぐ、殴り!?」
「だれ、誰に!? 俺以外の男に!?」
「ハリー、うるせえ。ちょっと黙れ、お前ら」
そこですかさずマリエルが笑顔で振り向いて、「あの、一体何のお話をされているんですか?」と尋ねる。おいおいおいおい……媚び媚びモード全開だな、こいつ。
「え、ええっと、だが、その、申し訳ない……それはアレン君に聞いてみないと」
「重たい話だから言う気はない。以上」
「「ぶー、ぶー!」」
「ハリーに、ヘンリー……」
くちびるを尖らせ、親指を下にして煽ってくる馬鹿どもをダニエルがちろりと見つめる。最近、こいつらの手綱を握って、操縦してくれるから助かる。二人が気まずそうな顔でぴたりと黙り込んだ。
「でも、ということはアランは俺の話を……?」
「あ、ああ。していなかったな。もちろん、折に触れて兄がいるとは言っていたが……名前も何も聞いていなかったんだ」
「そうですか。それは知りませんでした」
あの嵐の日、海から救い出されたばかりのアランの胸倉をがっと、掴んだ時のことを思い出す。
(そういや、こいつ、家まで送って行くんで! って言って車に引きずり込んで去ってたか、俺)
名乗りもしていなかった、そういや。あのあとアランは魔術雑用課まで行って、ライさんと連絡先を交換して。俺もへそ曲げて、もう実家に行かなくなって。そんなことをつらつらと考えたまま、空になったコップを見つめる。
「すみません、俺……メイベルのことが心配なので、上の部屋に行ってきます」
「あ、ああ、ありがとう。そこまでメイベルのことを気にかけてくれて」
「なぁ、アレン? メイベルちゃんもメイベルちゃんでさ? お前がそうしょっちゅう、部屋を覗きに行くと」
「あのな、ヘンリー? メイベルが今こうしている間にも、うなされていたら一体どうするんだ!? 責任取れんのか!? ああ!?」
「なんで突然、ヤンキー化するんだよ……」
戸惑うヘンリーの胸倉から手を外し、ちょっとライさんに会釈をしてから、リビングのドアを開ける。まぁ、元々ダニエルの友達だし。話題には事欠かないだろ。
(俺がいなくてもいい! けど、メイベルには俺がいなきゃだめだろ!)
いや、そんなことは……言われたか。以前置いてきぼりにした時、「なるべく傍から離れないで欲しい」とそう言われた気がする。多分。息を荒げて階段を登りつつ、ふと思った。
「いや、ここまで気にかけてんだから好きに決まってるだろ! あいつ、なんで弟の代わりとか何とか、変な方向に考えがいっちゃってるんだよ……?」
ああ、心配だ。とにかく心配だ。また、アランのふんにゃりした顔とメイベルの顔が重なる。もう後悔したくはない。あの時、こうしていれば良かっただなんて後悔したくはない。
『ねぇ、お兄ちゃん。待ってよ……』
『あー、はいはい。待つ、待つ』
置いていかなきゃ良かったのに、最初から。何かと煩わしい実家から出て、ここになんか来なきゃ良かったのに。じわりと浮かんできた涙を拭って、ドアの前に立つ。そこには俺が以前、作ってやったネームプレートが下げられていた。ああ、また、春バージョンも作ってやらなきゃな。今度はミモザか、苺か。
「……代わりにはしていない。ただ、もう後悔したくないだけなんだ。俺は」




