16.何か思っていたのと違うすれ違い
複雑な気持ちが胸の奥に詰まっている。まるで、配水管の中にぎっしりとゴミが詰まっているみたい。茶髪を結んで、紺色の地に白い水玉柄のエプロンを身に付けたメイベルが、キッチンで鍋をかき回す。中にはセロリとキャベツ、ソーセージが入っていてふつふつと煮えている。
(でも、私が頼りないからきっと、アレンも色々言ってきて)
私に優しくしてくれる理由。それって何だろう? 今まで、無償の優しさを貰っていると思っていた。アレンが私に優しくしたいから、少しでも私への好意があるから、色々してくれていると思っていた。
(それなのに違ったんだ……仲が良いと思ってたのは、もしかして私だけなのかも?)
よく分からないけど、アレンは私に優しくするべきだと思って優しくしている。そこまでを考えてから、ふと、手を止める。別にかき混ぜなくてもいいのに、無意味にずっとかき混ぜている。
(私も……私も一緒だ。アレンと)
それなのに最低。勝手にいじけて拗ねている。私がしていることも、アレンがしていることも変わりないのに。落ち込んでふうと、溜め息を吐くと、スーツ姿のハリーがバニラちゃんを抱えてやって来た。
「メイベルちゃーん」
「にゃうん」
「ハリー、どうしたの? あ、スープ、これでいいと思うよ。まだ味見してないけど」
「うーん、それはいいんだけど。何かあった? 大丈夫?」
「にゅう、にゅう」
まだ日も明けない内から起きて、スープを作っていたから心配してくれたんだろう。力なく笑っていると、首を傾げつつ、ふわふわの前足を掴んだ。ちょっとだけ嫌がって、「にゅっ」と鳴く。
「あれだよ。またあの過保護バカがうるさくやって来るよ?」
「過保護バカって……アレンのことかな?」
「そうだね。アレンしかいないね! ね~? バニラた~ん?」
「うにゅう、にゅっ」
みんながよく話しかけるから、お返事をしてくれる。でも、そうだ。ハリーに相談してみてもいいかもしれない。一旦火を止めて、鍋の中を覗き込む。透明なスープの水面に、美味しそうな脂が浮かんでいた。
「私……ええっと、昨日アレンからショックなことを聞いてしまって」
「えっ? 何? 遺産あげるよって?」
「にゅう」
「い、遺産じゃないよ……ええっと、何かくれるって話じゃないから」
「えっ? じゃあ、とうとう薪ストーブの設置? 欲しいって言ってたよね、メイベルちゃん。この間」
「そ、そうじゃなくて……!! あの、私に優しくする理由があるって! そう聞いて!」
「あ~……メイベルちゃんは誰もが愛すべき人間だから、とか? 昨日言ってたよ」
「にゃあん」
「えっ!? 言ってたの!?」
驚いてハリーを見つめると、茶色い瞳を瞠って「言ってたよ~? てか、メイベルちゃんがいない間ずっと、おかしい発言してるし」と呟き、おもむろにバニラちゃんを抱き上げて、お腹に顔を埋める。「にゅ~……」と長く鳴いて、毛を逆立てていた。
「そ、そんなこと言ってたの? 何で?」
「いや、それはこっちが聞きたいよ!! 世界三大不思議の一つだよ! 人外者でしょ? 魔術でしょ。そんで最後にアレン。決定」
「にゃっ」
「ごめんごめん。お~、よちよち~。会社のクソ上司、消えていなくなぁれ~」
「にゃあん」
ハリーがバニラちゃんを抱え直し、虚ろな瞳で「行きたくない、会社行きたくない。休もうかなぁ、もう。永遠に」と呟き出す。でも、思考が止まっていてそれどころじゃなかった。アレンは一体、どういう気持ちでそんなことを言っているんだろう?
「もしかして……」
「ん? どうしたの? 妹的な存在だからね、メイベルちゃんは」
「にゃう」
「アレンって、かなり変な人……!?」
「い、今さら~!? 昔から変だよ、あいつは。ただでさえ変わっていたのに、メイベルちゃん来てから酷くなったよなぁ」
「にゅうん」
「おー、よちよち。じゃ、そろそろ食べようっかなぁ~。メイベルちゃんも程ほどにしておきなよ? あいつ、メイベルちゃんがちょっと疲れたら吹っ飛んでくるからさ」
「にゅう」
床に下ろして貰ったバニラちゃんが、尻尾をぴんと立てて、その通りだと言わんばかりに見上げてくる。戸惑っていると、ハリーが後ろに置いてあったバケットを取って口にくわえて、冷蔵庫から牛乳を丸ごと一本取り出す。
「んぐんぐ~、んぐぐ」
「にゅ、にゅう」
そのまま去っていくハリーの後を、世話が焼けるやつだと言うかのようにバニラちゃんがてこてこと付いて行く。でも、確かに朝からちょっと張り切り過ぎたかもしれない。少しだけ熱い、自分の額に手を当てると、くらりと眩暈がした。
(駄目だ……今日もこれから、仕事なのに)
そのまま両目を閉じて考え事をしていると、おもむろにリビングのドアが開いた。
「おはよう~って、おい。大丈夫か!? メイベル!?」
「あれだね? 床とスーツに牛乳をぶちまけちゃった俺への言葉じゃないんだ!?」
「牛乳がよく似合ってるぞ、ハリー。そのまま出社したらどうだ? メイベル!」
「いや、普通、ドア開けてすぐに牛乳零してたら、そっちに目が向かない!? アレン!?」
「うるせえ、黙れ。俺はメイベルしか目に入らないんだ」
どたどたと、騒がしい足音とハリーの「アレンのばかー!! 性格ぶさいくう!」という言葉が聞こえてくる。にゃあんと、バニラちゃんも鳴いた。
「メイベル!? 熱か!? 熱なのか!?」
「だ、大丈夫だよ……ちょっと、貧血気味なだけで」
「ああ、やっぱり昨日は肉にすべきだったか……ハーブスフレと鮭のグラタンじゃなくて。熱は? 大丈夫か?」
「大丈夫だと思うけど……」
私の額に手を当てたアレンが「……休めば?」と言ってくる。多分これは「熱は出てないけど、顔色が悪いから休んだ方がいい」っていう意味かな……。ぼうっとしていると、ふと鍋に気がついて眉を顰める。アレンはもう黒いシャツとズボンを履いていた。
「おい……まさかこれ、作ったのか?」
「ああ、うん……玉ねぎも使いかけのが残ってたし。腐っちゃうから」
「俺がやったのに全部……」
「大丈夫だから。私、一人で色々出来るよ?」
「いや、でもなぁ……それで仕事行く前に倒れていたら駄目だろ。それにお前は季節の変わり目に弱いんだし、そろそろこの時期からゆっくりとして、」
「もっ、もういいから私のことは放っておいてよ、お母さん!!」
「……えっ」
リビングの方から「何か思ってたすれ違いと違ってて悲しい~!」という悲痛な叫びと、「にゃあん」という鳴き声が聞こえてくる。一気に頬が熱くなった。アレンが青い瞳を瞠って、呆然としている。
「ご、ごめん……その、あんまり心配されると、ほら」
「わ、悪い……そうだよな? 確かにメイベルも立派な大人なのに、俺はいつまでも子供扱いしたりなんかして」
「ううん……アレンが悪い訳じゃないから。じゃ」
「す、スープ! よそってやろうか!?」
「大丈夫! 全部自分一人で出来るから……!!」
「メイベル!? なぁ、おい!」
「にゃうん」
「なぁ……聞いてくれ。メイベルが多分、反抗期なんだ。いや、本人はそうじゃないって言っているが。でも俺は、メイベルの母親のような父親のような気持ちとなって接してきたからこそ分か、」
「とりあえず、頭大丈夫か?」
「うるせぇよ、俺は正気だ」
「正気じゃない発言を繰り返すからでしょう? まったくもう」
その夜、リビングにてフレデリックとマリエル、ダニエルとアレンが集っていた。明かりを暗くし、それぞれ酒を持ってソファーに座っている。ケーブル編みの白いカーディガンを羽織ったアレンが溜め息を吐いて、額を押さえると、膝の上に乗ったバニラが「にゃあ」と鳴く。
「俺は今まで……メイベルのことは何でも分かっていると思っていたんだが」
「そうね。不気味なほどにね?」
「異常なんだよ、お前。記憶力が。メイベルちゃんのことに関してだけ」
「……どうにかした方がいいと思う」
「にゅー」
アレンが眉を寄せて、グリッシー二を齧り取る。テーブルの上には生ハムが巻かれたグリッシー二と、サーモンとクリームチーズが乗せられたクラッカー。分厚い皮付きポテトにベーコンが並んでいる。からりと、氷を鳴らして、瑞々しいオレンジやマンゴーが入ったサングリアを、マリエルが持ち上げた。今日の彼女は金髪を纏めて、黒いニットワンピースを着ている。
「アレン。貴方、メイベルちゃんに余計なことを言ったんですって?」
「いや、余計では……」
「理由って何だよ? あそこまで構う理由って一体何?」
「それはちょっとなぁ」
「多分、そこで教えて貰えなかったから……メイベルは今、悩んでる」
ちびちびと、一人だけ温かいココアを啜りながら、黒いニットを着たダニエルが呟く。それから、チョコのテリーヌを割った。上にはごろごろと粒が残った、ラズベリースースがかけられている。
「黙るのが悪い癖よね、アレンの。可哀想に、不安がっていたわ。お誕生日も祝わなくていいって、そう言われてるしって」
「あれはなぁ……誕生日パーティーなんぞ、この年でして楽しいか?」
「あら、私は楽しかったわよ。とてもね」
「俺の時は娘を呼んで祝って貰う。どうにかしてくれ、アレン」
「知るか! ああー……どうしよう。昨日も一昨日も写真撮れてない」
「散々撮っただろ、今まで」
「盗撮はやめなさいね、盗撮は」
「でも……バニラを撮るついでに撮ってた」
「にゅうん」
アレンが黙り込んで、テーブルの上を覗き込んでいるバニラを撫でつつ、もう一度深い溜め息を吐く。フレデリックが呆れつつも、クラッカーを持ち上げて食べた。
「れもふぁあ? 何を悩む必要があるんはよ、アレンは」
「いや、あるだろ……避けられているし、元気が無いし」
「ちょっと距離置いたらどう? 鬱陶しいし」
「うるさいな……」
「メイベルは……理由、聞いたら納得すると思う。好かれてないんじゃないかって、渋々やってるんじゃないかって」
「あ? 渋々でやれる訳ないだろ、あんなの。趣味だよ、俺の趣味」
「だから、趣味って一体何なんだよ……?」
その言葉を無視して、一気にワインを飲み干す。それから、獰猛な目つきで口元を拭った。
「こうなったら……ちゃんと甘やかすか!」
「ちゃんとって何!? やめろよ、怖いな」
「呆れた。引き算も出来ないの? ちょっと距離を置きなさいって、そう言っているじゃないの」
「いや……メイベルがさ? 自分がちゃんと大人として色々出来ていないから、俺が構ってくると思っているらしく。その辺りの誤解を解きたいんだが、どうすればいいと思う?」
「帰って寝ていいか?」
「伝えなさいよ。ちゃんと、それを」
「にゅう、にゅっ」
「いや、伝えたんだけどさ……」
アレンが両手で顔を覆い、低く呻く。それを見ていたダニエルが、おもむろに手帳を取り出した。
「アレンはさ……メイベルに避けられてるの、悲しい?」
「そりゃあな。変な下心があって親切にしている訳じゃないし」
「余計怖いな。何かあった方が良かったよ、それは」
「じゃあ、その理由が無くても親切にした?」
「そりゃあな。にしても、最近やたらとはきはき喋るようになってきたな。ダニエル……」
薄闇の中でダニエルがひっそりと笑い、手帳をアレン達に見せ付ける。そこには“通話中”とだけ書かれていた。
「あ、あの……ごめんね? アレン。意地張ってて」
「メイベル!? おい、お前! ダニエル! いつからそんな小賢しいことを、」
「そ、それで、私……アレンのお誕生日にせめて、ご馳走を作りたいんだけど。アレンが何もしちゃ駄目、寝てろって言うから。どうしていいのかよく分からなくて」
「「風邪でも無いのに?」」
「揃ったな、珍しく。マリエルとフレデリックで」
「誕生日……ちゃんと祝って貰ったら?」
ダニエルに問いかけられ、アレンが嫌そうな顔で口元をひん曲げる。その顔を見て、フレデリックが「お前な」と言って笑っていた。
「じゃあ、まぁ、誕生日当日は……俺がメイベルのためにシフォンケーキを焼いて、ビーフシチューとサラダでも作ろうかと思っていたんだが。やめて、祝って貰うか……ただし、パーティーは無しで」
「お前……誕生日にそんなことをするつもりだったのかよ。おかしいんじゃないか?」
「あのね? メイベルちゃんに何かする日じゃないのよ? 分かってる?」
「いや、メイベルの笑顔が最高の誕生日プレゼントになるから」
「にゅっ」
真顔でクラッカーを食べ出したアレンを見て、一同が黙り込む。手帳の向こうでメイベルが恥ずかしそうに、「じゃ、じゃあ、それで決まりでいい? ご、ごめんね! 避けてて!」と言っている。暫くの間、冷たい沈黙が辺りを包んでいた。




