4.求む、俺を破滅へと導いてくれる女性
その日は朝から浮かれてしまって、ずっと胸が弾んでいた。口元も緩みっぱなしだった。見てくる人が誰もいなかったらふんふんと鼻歌でも歌って、モップを片手に踊っていたかもしれない。
(おおっと、駄目だわ。私ったらついうっかり、口ずさみそうになっちゃった)
モップを滑らせ、焦げ茶色の無垢床を掃除してゆく。今は閉店前の掃除をしている最中だ。
(わっ、寒そう……日が暮れるのが早くなってきたな。前だったらこの時間はお客さんが来てたのに)
ゆるっとした黒いニットを首元まで持ち上げ、真っ暗闇の外を眺める。でも秋や冬の方がよく売れる。
頭からぽぽんと兎の耳が生えてしまうカラフルな渦巻きキャンディーに妖精が作ったふわりと軽くて暖かいショール、ぎゅっと抱き締めたら甘いバニラの香りが漂ってくる子猫のクッションに麗しい音楽を奏でる魔術仕掛けのオルゴール。
(あっ、そうだ。お父さんとお母さんへのプレゼントはどうしようっかな? 迷うなぁ~、とは言ってもまだ先だけど)
秋が深まっていって、ちらほらと白い雪が降る。あの瞬間が好きだった。薄っすらと上空を覆っていた灰色の雲が我慢しきれなくなって、白い雪をこちらへと落とす瞬間が。はらりはらりと静かに雪が舞い降りてきて、人々や音を吸い込んでゆく。
白い雪の下で、静かに静かに世界が廻ってゆく。
(ああ、もっと寒くならないかなぁ~。っと、よし。こんなもんでいいかな?)
店主のヘレンはどうも腰の調子が悪いらしく、つい先程「ごめんね、メイベルちゃん。後はお願いね」と言って帰っていったのだ。とは言えども彼女はこのビルの二階に住んでいる。
(レジ締めはもうしたし……あっ、戸締り確認してこよう。あと忘れ物はないかな)
モップを片付けて一応トイレの窓も施錠して、狭苦しいバックヤードをくまなくチェックする。たまに誰かがリップクリームやポイントカードを落としているのだ。椅子を持ち上げて確認する。
(うん、大丈夫。帰ろうかな? あっ、そうだ。何か追加で買っていった方がいいものとかあるかな)
鞄から魔術手帳を取り出して開くと、ちょうどメッセージが入ったのか不機嫌そうなお姫様がしゅわりと現れる。金髪に青い瞳の彼女は白いページから顔を出して、頬をぷっくりと膨らませていた。
「ふふっ、大丈夫よ。ごめんね? 貴女が知らせてくれる前に開いちゃって」
きらきらと光っているお姫様は満足げに頷き、しゅわりと消えてゆく。そこに残っていたのはアレンからのメッセージだった。あとダニエルからも入っている。
“全部足りているからまっすぐ帰ってこい。あと社畜がそっちに行くってよ。あいつ味を占めたな。お前が餌付けなんぞするからだ。殴ってやれ、がつんと一発!”
その美しい文字を見て笑ってしまう。乱暴な言葉ばかりが並ぶのに美しくて、まるで貴族の夫人が書いたかのよう。
「ふふっ、ありがとう。アレン。ええっと、ダニエルさんは……?」
そこには震える文字でびっちりと文句が書かれていた。どうやら皆にいじめられているらしい。
“メイベル、聞いてくれ。つい先ほど未曾有の出来事が起こった。君の歓迎会を開くからと言って、ヘンリーが俺をずるずると連行して熱い湯と石鹸で俺の体をごしごしと洗ったんだ!! つらい、俺は言われなくてもお風呂に入る気だったのにヘンリーが無理矢理俺を引き摺って風呂場へと連行したんだ!! 税金でご飯を食べて動いている警察官の方がまだ優しいというような手つきでごしごしと俺の頭皮を磨いて挙句の果てには温泉に沈めたんだ! 三十秒も浸かれと言われた。そもそもの話、人間の体には自浄作用があってとある高名な学者は石鹸で体を洗わない生活をしているらしく”
そこでぱたんと閉じる。何やら話が専門的になっていてよく分からない。頭がくらくらとしてしまう。
「ごめんね、ダニエルさん。帰ったら慰めてあげようっと……ええっと、社畜の……ハリーさんが来るのね? 了解っと」
ひとまずどう返信していいのかよく分からなかったので、アレンに「ありがとう、ハリーさんと一緒に帰るね」と返信しておく。家に帰ったらダニエルを慰めて謝ろう、そうしよう。きっとその方が彼も嬉しいに違いない。
「うーん? でも待っていた方がいいのかな……」
このまま帰ろうかと思ったのだが。花柄ベルトの腕時計を確認してみると、十八時二十四分だった。外は暗く、着込んだ人々が通り過ぎてゆく。
(私もそろそろコートを出そうかなぁ……ダウンにはまだ早いけど。パーカーでいけるかな?)
柔らかなベージュ色のパーカーを羽織って、何となく紐をいじる。綺麗に磨かれた店内はしんと静まり返っていて、ほんのりと薄暗い。確かに一人で帰るのは淋しいし、外も真っ暗だから男の人がいてくれると心強いんだけど。
(でも負担にならない? 大丈夫かな、ハリーさん……)
茶髪茶目の彼はいつでもくたくたに疲れ切っていて、昨夜も洗面所で眠っていたのだ。両手を組んで目を閉じ、まるで死体のように寝そべっていた。
(あまり話しかけない方がいいよね? 荷物を持っていたら私が持ってあげようっと。それよりも歩けないほど草臥れていたら喫茶店でも……)
そこでばぁんと、分厚いガラスの扉を誰かが叩く。血走った茶色い瞳とぼさぼさの茶髪で分かった。彼だ、ハリー・ヒューズだ。でもゾンビみたいで恐ろしいからやめて欲しい。心臓がふわっとなってしまった。
「はっ、ハリーさん……ごめんなさい、外で待っていた方が良かったよね? お仕事お疲れ様です」
「やぁ、メイベル。こんばんは。良い夜だね、欲求不満の殺人鬼でもふらふらと出てきそうな夜だ」
「えっ、ええっとそうね? 確かに怖い人が出てきそうなぐらい満月も綺麗だし……」
ぼろっとした茶色と白のストライプスーツを着たハリーが笑い、脂ぎった前髪を掻き上げる。どうも彼はシャワーを浴びる気力がないらしく、四日前に浴びたっきりだそう。
「それじゃあ行こうか、メイベル。大丈夫、不審者が出たら俺が倒してあげるからね! ははっ、でもこの場合の不審者は俺かな? ついこの間も後輩の可愛い女の子から女子中学生の盗撮をしていそうだと言われたんだ。おかしいね! 俺にそんな暇はないというのに! まったく、犯罪を働く暇があったら俺は水を飲んで休んで、」
「まっ、待って。ハリーさん。聞き取れないからもうちょっとだけ待ってくれる? ええっと」
あまり頭の回転も速くないからくらくらとしてしまう。ハリーが歪んだ笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
「申し訳ないね、一方的に俺が捲くし立ててしまって。さぁ、帰ろうか。あっ、持つよ、鞄。気休めになるかもしれない」
「気休め……? じゃあお願いします。でもかなり重たいですよ? 色々入ってるし」
ずっしりとした重たい牛革の鞄だし、店主のヘレンからいくつかお手製の苺ジャムとブルーベリージャムを貰ったのだ。そこに魔術手帳と財布にメイクポーチにと色々入っているし、本当に重たいのだが。
「うっ……確かに意外と重たかった。でもこうしていることで何か自分が、社会の役に立っているゴミのような気分になれるから……ああ、腹が減ったなぁ。今日の夕食はなんだろう?」
「ふふっ、今日はなんと! 私の歓迎会だからご馳走ですよっ! あ~、楽しみ!」
今朝も言ったのだが、忘れているだろうからもう一度言う。意外としっかりした足取りできびきびと歩いていたハリーが立ち止まり、その首を傾げる。
「そうか、もうそんなに時が経つのか……早いな、君が来てもう一年か……」
「えっ、ええっと、一周年記念じゃなくって。私が入居したお祝いなので……」
彼は常に疲れていて、言動もちぐはぐだ。でもきっとそれだけ疲れているのだろう。人と上手く喋れないぐらいに。石畳の歩道を歩くハリーを見上げ、考え込む。
「ねぇ、ハリーさん? 転職したらどうですか? いつか働きすぎて病気になっちゃいますよ?」
「ああ……でも無理なんだ。俺が勤めているところは名の知れた大企業でね……クッキー&クラッカーズって知っているかな? あそこなんだよ」
「えっ? ブラック企業なんですか、あそこ……」
お菓子やホテルや飲食店にと色々手広くしている大企業だが。ブラックというイメージは全然無かった。儲かっているというイメージしかない会社だが。
「そうなんだよ、給料だけは良いし……それに両親がいたく喜んでいてね。就職した時に。よくやったな! って物凄く褒めてくれて……」
暗い足元を見てぽつりと呟く。きっとその時の光景を思い出しているのだろう。両親が手放しで喜んでいる姿を思い出すと「やめたい」だなんて言い出せないのかもしれない。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「だからやめるにやめられないんだ。馬鹿馬鹿しい話だけど。いつまでも両親に縛られているみたいだけど」
「でも分かりますよ、その気持ち。がっかりさせたくないですよね」
「……メイベル。ありがとう」
ふにゃりと笑って子供のような笑顔を見せる。そしてぽんぽんと私の頭を撫でてくれた。嬉しくなって口元が緩む。
「じゃあハリーさんが倒れちゃわないように、私が色々と工夫しますね! ご飯作りは任せてください! あっ、あとお部屋のゴミ捨てとかも手伝うのでいつでも言ってくださいね?」
「わぁ、凄いな。メイベルちゃん。でも君みたいな女の子はいつか潰れちゃうからあんまり無理しない方がいいよ……それで俺達にも愛想が尽きて、あっという間にいなくなっちゃうんだよな。知ってる! 知ってる!!」
「いっ、いなくならないので大丈夫ですよ、ハリーさん……!! あっ、そこは車道だから駄目ですよ!? ガードレールによじ登っちゃ駄目ですって、ハリーさん!?」
「……なるほど。それで貴方はメイベルちゃんに沢山迷惑をかけたのね? 駄目じゃない、ハリー。分かっているの? ねぇ? 歓迎会の意味が」
「あっ、はい。すみませんでした、女王様……」
ハリーがふるふると震えつつ床に座っている。物凄く心配だったが、怒ったアレンが「いい、放っておけ。それにあの女王様も欲求不満なんだ。誰かをいじめたくて仕方がない気分なんだ」と言ってソファーにクッションを置いてくれたので、そこに腰掛けて淹れて貰った紅茶を飲んでいる。
輝く金髪を纏め上げたマリエルがふうっと色っぽい溜め息を吐き、額に手をあてた。彼女はラベンダー色のロングワンピースの上から白いフェザータッチのカーディガンを羽織っていて、可憐な雰囲気を漂わせている。
しかし、女王らしい毅然とした態度で腰に手を当てて叱り飛ばす。
「貴方達がそんなだから、すぐに人が出て行ってしまうのよ? 大体ね? 一人で行って帰ってこれるでしょう? それなのに茂みに顔を突っ込んだり通りすがりの犬に喧嘩を売ったりしてメイベルちゃんに迷惑をかけていたの? 貴方今年で一体いくつになるの? ねぇ?」
「すっ、すみません。忘れました……でも今後二度と甘えないようにします。大変申し訳ありませんでした……!!」
床に這いつくばって許しを請う。マリエルはそれを見てにっこりと満足そうな微笑みを浮かべ、優雅に頷く。
「分かってくれたのならいいのよ、それで。メイベルちゃん? 大丈夫よ、もうこれ以上怒ったりしないから。ねっ?」
「まりっ、マリエルさん……!! ハリーさんも疲れているので足置きにはちょっと……!!」
白い爪先を茶髪頭に乗せ、あどけない表情できょとんと首を傾げる。ピンク色のくちびるはふっくら艶々としていて、女の私でさえもどきりとしてしまうほどだった。
「あら、いいのよ? だって喜んでいるもの。ねっ?」
「これはこれで興奮するから良い……!! 踏まれてるの最高! 最高!!」
「えっ、ハリーさんがいいのならそれでいいんですけど……!!」
戸惑っているとキッチンの方から「気が散るからやめろ! その変態プレイ! 店に行ってやれ!!」と怒鳴り声が響いてくる。アレンだ、見なくても分かる。でもその隣にいてフライパンを握っている彼が気になるのだが、あの人はもしかして。
「あの、マリエルさん? ハリーさんを踏んでいて忙しいところ申し訳ありません……あの人ってもしかしてパン屋さんですか?」
「ええ、そうよ。メイベルちゃん。奥さんに浮気がばれて大学生の娘さんに嫌われているの。離婚して慰謝料も払ってお金が無いからこのシェアハウスに住んでいるのよ。人生の負け犬だわ、人生の負け犬」
「まっ、マリエルさん……!!」
こちらの会話が聞こえたのか青白い顔でフライパンを見ている彼は、白髪混じりの黒髪に黒目を持つ男性だった。挨拶をしてこようかなと口を開きかけた途端、低い呻き声が上がる。
「マリエルさん。フレデリックじゃなくて俺のことをもっともっと罵って欲しいです……!! メイベルちゃんに沢山の迷惑をかけてきたんです、俺!!」
「まぁ、うるさいわね。本当に。えいっ」
「わっ、わぁっ!? マリエルさん!?」
可愛らしいかけ声とは裏腹に、がっと踵落としをして思いっきり踏んづける。床に顔がめり込んでしまったハリーは「ありがとうございます、女王様!!」とくぐもった歓喜の声を上げている。ええっと、これは。
「ハリーさんが幸せならそれでいいんですけど……大丈夫ですか? 痛くないんですか?」
「いいんだよ、これで。実年齢がよんじゅ、」
「あら、知らないの? 女性の年齢を口にすると殺されるわよ? えいっ」
先程よりも勢い良くがっと頭を踏んづけ、ごんっと鈍い音が響いて静かになる。しーんと静まり返ったところで、ソファーの隅で膝を抱えていたダニエルがぼそりと呟く。
「ご飯……ご飯はまだかな? 早く出来ないかな? メイベル、君は俺のメッセージを無視した挙句、ハリーにばっかり優しくしてるんだ……!! 俺は罵られるのも踏まれるのもごめんだよ!! 誰でもいいから今すぐ俺のことを褒めて慰めて欲しい!! さぁっ、ほら早く!」
「あっ、ごめんなさい! 慰めますね! お風呂に入って綺麗になりましたね!! 偉いですね!!」
慌ててソファーによじ登って四つん這いで移動し、膝を抱えて泣いているダニエルの頭を撫でる。すると背後のハリーが「休日出勤したあと、マリエルさんに踏まれるのってやっぱりいいなぁ! 最高!」と高らかに叫ぶ。
(ええっと、どうしたらいいのかよく分からないんだけど。ハリーさんはマリエルさんに踏まれるのが好き……ストレス発散になるみたい。覚えておこうっと、メモっておいた方がいいかな……?)
あっという間に人の名前や誕生日を忘れてしまうので、常日頃からメモ帳を持ち歩いているのだ。すぐさま取り出してメモしていると、アレンが声をかけてきた。
「おーい、飯出来たぞー。悪いがメイベル。シェラを呼んできてくれないか? 部屋で酒飲んでいるだろうから」
「むぁっ、すごいご馳走……駄目だ、ご飯食べないでお腹空かせておいたほうが良かったかも」
「先に部屋で食ってたのかよ、お前。シェラ……」
テーブルの上に並んだご馳走を見て、灰色のトレーナーを着たシェヘラザードが呟く。確かにすごいご馳走だ。いいんだろうか、こんなに素敵な料理を作って貰って。
「わっ、わぁ~……ありがとう、みんな。おい、美味しそう……!! 何故か私の好きな食べ物ばっかり並んでるし……」
ナイフとフォークを握り締めて感動していると、隣に座ったマリエルが笑う。青い瞳を細め、両手で私の肩を引き寄せた。
「ふふっ、それはそうよ? メイベルちゃん。何故か貴女の好物をしっかり把握しているアレンから聞いたの。ねっ? 凄い記憶力よね、もっと頭が悪いかと思ったのに」
「おい、糞ババア……俺に喧嘩を売っているのか!? いいか、この間から俺とメイベルをやたらとひっつけたがっているようだが、むぐっ!?」
「はいはい、黙る黙る。折角作った料理が冷めてしまうじゃないか、なぁ?」
優雅にレタスを口に突っ込んだのはヘンリーで、紺色のシャツを着ている。同じく似たようなベージュ色のシャツを着たアレンが、不満そうな顔でもぐもぐとレタスを噛み締める。
それを見て笑い、もう一度テーブルへと視線を移す。こんがりと焼いた鶏モモ肉と茸のクリームパスタ、瑞々しいオレンジのソースがかかった鴨肉のコンフィと熱々のチーズがかかったトマトとベーコンのピッツァ、むっちりと甘い帆立とサーモンとバジルの冷製サラダに濃厚なクラムチャウダー。そしてどっしりと重たそうなカンパーニュが切って並べられている。
「おいっ、美味しそう……でもあの、ええっと、食べる前にその。自己紹介をしておきますね……フレデリックさん? メイベル・ロチェスターです。どうぞよろしく」
「あっ、ああ。礼儀正しいな……よろしく」
ご馳走が並んだテーブルの上で握手を交わし、お互いに笑みを浮かべる。フレデリックは黒髪黒目の精悍な顔立ちの男性で、灰色のジッパー付きのシャツを着ていた。確かに女性にモテそうだ。
「ごめんなさい、見ず知らずの私のために……仕事で疲れているだろうに。嬉しいです、ありがとうございます」
「いや、別に構わないよ。メイベル……ちゃん」
隣に座ったマリエルから威圧感の漂う微笑みを向けられ、肩を揺らして「ちゃん」を付け加える。別にいいんだけど、そんなこと気にしなくても。
「それじゃあ食べようか、メイベル……どーせ君も俺に愛想を尽かして出て行って来年の今頃はいないんだろうけど。彼女がいる、今この奇跡に感謝して乾杯」
「「乾杯」」
もうみんなすっかりダニエルの暗い発言に慣れているのか、平然とした顔でワイングラスを持ち上げて祝ってくれる。さぁ何から食べようかなと思って目を彷徨わせていると、向かいに座ったシェヘラザードが呟いた。
「メイベル。メイベルの好きなシフォンケーキもある……苺味と紅茶味がある。どっちが好き?」
「紅茶味の方が好きです! えっ? 私のためにわざわざケーキまで買ってきてくれたんですか……!?」
「ははは、ケーキが無いと締まらないからね。おい、アレン。つらつらとマリエルさんへの暴言を考えているみたいだが。やめろよ? 黙って食ってろよ?」
それまで黙ってマリエルを睨みつけていたアレンがごくりとレタスを飲み込み、じっとヘンリーを見つめる。
「ああ、悪かったな。ヘンリー。ところでこの赤ワインのことだが」
「俺から恨み言を引き出そうとしたって無駄だぞ? アレン? 今日は折角の歓迎会なんだし……やっぱり駄目だった!! あいつらの付けているカフスボタンというカフスボタンを毟り取って千切り取って豚の餌にしてしまいたい!! あと滅びるべきだろ、あんな汚物を頭から被って生活をしているような奴等は全員!!」
がぁんっとナイフとフォークをテーブルへと打ちつけ、ダークブラウンの頭を下げる。その横でやめればいいのにアレンが「社交界、カーテーシー、ドレス」と呟き、平然とした表情でパスタを巻いて食べてゆく。
「も~、嫌だわ。折角の歓迎会なのに。ねぇ? ダニエルさんにハリー?」
「いいか、ダニエルさん。あれは女王様からの、お前ら下僕どもは何も言わずに大人しく人参のヒゲでもしがんでろとのお達しだ。あの甘い微笑みに隠されたメッセージはそうだ、絶対にそうだ」
「うっ、うう。俺はヘンリーと違って大人しく黙ってパンのかすをより分けて食べていたのに……やっぱり駄目なんだ、俺は。俺にはネガティブ陰湿じめじめ男というイメージががっつり固定しているから皆もそんな目で見てくるんだ……!! うっ、ううっ」
どっ、どうしよう?
(くちっ、お口の中がいっぱいで上手く喋れない! あっ、でも美味しい。幸せ……!!)
塩気のあるチーズと黒胡椒とガーリック。がりっと香ばしい小麦の味わいに爽やかなオレンジの風味と脂が乗った鴨肉。よく噛み締めて食べれば胸に幸せが広がってゆく。うん、やっぱり。
「アレン、私。やっぱりここに来て良かった……ありがとう、作ってくれて。こんなに沢山!」
「何だ、意外と手が早いな。アレン……」
「うるせえ、パン屋。メイベルには絶対に手を出すなよ……!! 陰湿だからな、お前は」
陰湿。陰湿って一体どういうことなんだろう? 首を傾げて眺めていると、にっこりと愛想の良い微笑みを浮かべる。
「いいよ、別に。気にしなくて。こいつのたわ言だから。ねっ? メイベルちゃん」
「早いな、早速か……まぁ、大丈夫だろうけど。メイベルちゃんなら」
発作が収まったヘンリーが呟き、鴨肉のコンフィを優雅に食べ進めてゆく。その言葉を受けて苦笑し、フレデリックが黒い瞳でじっと見つめてくる。
「まぁ、確かに。君は俺の好みじゃないからな……いかにも真面目そうだし。あと流石にこれ以上、娘には嫌われたくないからな……!!」
「頑張れ、パン屋。いつか口を聞いて貰えるといいな、パン屋」
「うるさい。あてつけのように言うなよ、アレン……」
ここの奴等はみんな変人ばかりだと言ってアレンもダニエルも嘆いているけど。それまで噛んでいた甘い帆立を飲み込み、フレデリックを見つめる。
「でもフレデリックさんって、どこからどう見ても普通の人で……」
「そうなんだよ、俺ほどの常識人はいないと思う!! たとえ女の子に振られて刺されて野垂れ死ぬまでがゴールだったとしてもね!」
「よく言うよ、どの口が言ってんだか……」
「それ以上喋らないで欲しいわ、もう。永遠に黙っていて欲しい」
「ん……メイベル、気をつけて……」
表情に乏しいシェヘラザードが物凄く嫌そうな顔をして、フォークから茸を抜き取って食べる。珍しいな、そんな顔をするだなんて。溜め息を吐いて、アレンがこちらの疑問に答えてくれる。
「こいつは究極のドMでな。女を口説いて女に尽くして尽くして浮気しまくって、女に恨まれるのが大好きな変態なんだよ。だから近寄るなよ、メイベル。酷い目に遭うぞ?」
「そう……でも大丈夫。君に赤いハイヒールは似合わない。そして激昂して銃や刃物を持ち出したりもしない。ああ、誰か。俺の体に風穴を開けてくれるような素敵なレディがいるといいんだがっ……!!」
心底悔しそうに拳をがんっと叩きつけ、テーブルに突っ伏してしまった。ぷるぷると震えている。ええっと、よく分からないがつまり。
「世の中には色んな人がいるのね、アレン……なんか色々と勉強になった気がする!」
「言っておくがお前もお前で相当変わっているからな、メイベル……」
「えっ!? 一体どうして!? 私のどこが!?」
戸惑っているとまだ語り足りなかったのか、フレデリックが顔を上げて虚ろな黒い目で見つめてくる。その口元はバジルソースで汚れていた。
「駄目だったんだ、メイベルちゃん。俺の奥さんは俺のことを殺してくれなかった、陰部を削ぎ落としてやろうかとすらも言ってくれなかった!! ああ、探せばこの世のどこかに俺を破滅へと導いてくれる女性がいるかもしれない……俺は運命の女を探しているんだ、メイベルちゃん。誰か俺の人生をぶっ壊して滅茶苦茶に破壊してくれそうな美女がいたら是非とも紹介してくれ。会うから。すっ飛んで会いに行くから。なっ?」
その血走った黒い目に頷きを返す。幸せは人それぞれだって分かっていたつもりだけど。
「とりあえず、うん。はい、そんな方がいたら紹介しますね……あの、マリエルさんは?」
「嫌よ、面倒臭い。それに恨むような価値がある男じゃないし、こいつ」
「手厳しいな……俺の夢が遠のいた。ああ、気の強そうな美女に散々弄ばれて人生を滅茶苦茶にされたいっ……!!」
「もういいから食おうぜ、飯が不味くなる」