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優しい彼女と変人だらけのシェアハウス  作者: 桐城シロウ
第二章 新しい年を迎えて、春を待つ
45/134

11.昔の夢と暗いだけの男の子

 






 緑の芝生が綺麗に刈り込まれた庭園で、軽く着飾った人々が小さなお菓子を摘まみ、薄切りの檸檬が浮かんだグラスを持って、楽しげに喋っている。どうしていいのかよく分からずに、佇んでそれを眺めていた。ふと、白いシャツに黒いサスペンダー付きのズボンを履いたヘンリーが、後ろを振り返ってみると、子供達のためにといって設置されたテーブル────それにも、甘いトライフルや冷たいチョコアイスが並んでいた────の近くで少年達が佇んで、にやにやと笑っていた。



(困ったな、どうしよう?)



 俺が悪いのかもしれない。だが、大人達が言うように「仲良く」なんか遊べない。どうしていいのかよく分からずに佇んでいると、ふいに、背の高い大人が話しかけてきた。仕立ての良いスーツに茶色と白のストライプネクタイ。口元には、黒い髭を蓄えている。



「どうしたのかな? ヘンリー君はあっちでみんなと遊ばないの?」

「……少し、暑くて」



 逆光だからか、その顔があまり見えない。その人物はさも分かったかのように頷いてから、俺の頭にぽんと手を置いた。



「今日はちょっと暑いからね……向こうで休むといい。ダニエル君もそうしているみたいだから」



 ダニエル・ウォント。遠く離れた親戚で、母いわくあの一家は「成金」だそうだけど。俺はあの年の離れた、気弱な親戚が大好きだった。こちらに嫌なことをしてこないし、何だかんだいって面倒を見てくれる。



「ありがとう、××おじさん。行ってくるよ。あの、母様に」

「……ああ、大丈夫。お母さんが君のことを探していたら、ダニエル君と一緒にいるよと伝えておこう」



 あれ? 名前が思い出せないな。誰だっけ、あのおじさん。



(そうだ……のちに、母の愛人だったって。そう判明したんだっけ?)



 パーティーで何かと俺を気にかけるのも、買い物に連れ出そうとするのも全部全部それで。いつだったかな? 別荘に招待された時、湖畔で────……。



「ダニエルさん! いた!」

「……ヘンリー」



 ぜいぜいと息を荒げて、膝に手をつく。ダニエルが陰気な顔をして、枝葉を広げた木の根元に座り込んで、サンドイッチを食べていた。俺が喜んで駆け寄ると、その暗く、青い瞳を少しだけ細めて笑う。



「ヘンリーも食べる?」

「食べる! ああ、飲み物持ってきたら良かったかも……」

「……ある。飲むといい」



 どこからかサイダー入りの瓶を取り出して、手渡してくれる。有難く受け取ると、ひんやり、汗ばんだ手に染み渡っていた。隣に腰を下ろしてそれを開け、ぐっと飲み干すと、すぐに炭酸が襲ってきて、涙がじんわりと浮かんできた。



「っあー……嫌だな、俺。このパーティー」

「俺もだよ……これから夏がもっと進むと、増える……」

「あー……嫌だなぁ。でも、ダニエルさんがいてくれて良かったよ、俺、心細くて」



 そうぼやくと、俺の頭をそっと優しく撫でてくれた。笑って隣のダニエルを見つめると、もそもそとサンドイッチを食べている。芝生の上に広げられた紙に置いてある、サンドイッチを一つだけ摘まみ、俺も食べた。



「……ねぇ、俺」

「ん……?」

「嫌だな、この時間。でも、母様も父様も必要な時間だって。大人になったら、お前もこうするんだぞって……」

「嫌だね、大人になんかなりたくないね……」

「本当に。ダニエルさんは大丈夫? その、この前の怪我は……?」



 少しだけ傷跡が残っている頬に、長い黒髪がかかっていた。虚ろな青い瞳で、もそもそとサンドイッチを頬張っている。



「……大丈夫、もうそろそろ治りそうだから。ヘンリーは? 大丈夫?」

「俺? 俺は大丈夫だよ。何もされてなんかいない」

「ほら……この前、××おじさんに手招きされて、その、抱き締められたって」

「ああ……でも、それだけだったから。そのあと、お小遣いとお菓子もくれたし」

「何て言ってた? 誰にも言わないようにって?」



 普段はのろのろと喋っているくせに、怒ったりすると、はきはき喋るようになる。誰かのために本気で怒って、行動出来る人だった。もちろん、ぐずぐずと泣いて落ち込んでいるのが大抵だけど。



「っきゃああああ!? 何してるの!? 貴方達!」

「だってこいつが、こいつが……」

「っうあ、うあああああん……!!」



 わんわんと泣く女の子と、戸惑った顔の男の子達。ぽたぽたと、葡萄ジュースをグラスから滴り落としながら、騒ぎの真ん中でダニエルが佇んでいた。それを見て、何度誇らしく思ったことか。しつこく大人に隠れて、背の低い女の子に嫌がらせをし続けている男の子達に、ダニエルが怒って葡萄ジュースを浴びせた。もちろん、その前に何度もやめるようにと、そうたしなめていた。でも、彼らは聞きやしなかった。ダニエルにも嫌がらせをし始めた。



「一体どういうことなの!? お前はまた、いっつも問題を起こして!」

「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ、ウォント夫人……」

「違うよ! ダニエルさんは悪くないよ! そいつらが悪いんだ、ずっとずっとその子に嫌がらせをしていたから!」



 俺が声を張り上げても、ダニエルはただ黙って佇み、母親に肩を揺すられていた。そして後日、ありがとうの手紙がきた。俺の好きなお菓子も同封されていた。でも、そこに書かれていた文字を見て、胸が狭くなる。



 “でも、いいよ。ヘンリーのご両親は、こちらとはあまり関わりたがらないし……。ヘンリーが傷付くだけだろうから、何も言わなくていいよ”



 俺は大丈夫だよと、そう歪んだ文字で記されていた。嘘だ、あんなに泣き虫のくせに。ぎゅっと、手紙を握り締める。実は優しくて強い親戚のことを、人は誰しも“暗い男の子”とだけ呼ぶ。そんなことはない、そんなことは。その時のことを思い出して、ダニエルに笑いかける。すると、「ん?」とでも言いたげに青い瞳を細めて、ちょっとだけ笑った。



「ヘンリー……? そのおじさんに今日、何か変なことはされなかった?」

「されなかったよ。されたことない」

「そっか。でも、二人きりになっちゃだめだよ。ああ、そうだ……これを渡しておこう。いいか? そいつがヘンリーの体を触ってきたり、嫌がるようなことをしてきたら……」



 ダニエルが渡してくれたのは、ペンダント型の録音機だった。常にそれを持ち歩くよう、俺に言い含めた。なるべくその男と二人きりにならないよう、変なことをされたら大声で誰かを呼ぶようにと。俺はあまり、その意味をよく理解していなかった。でも、ダニエルさんが怒っていたから、言う通りにした。彼は正しい、いつだって人のために行動している。そして、ダニエルが恐れていたその時がやってきた。



「あれだね、ヘンリー君は本当に綺麗な顔をしているね。お母さんにそっくりだ」

「よく言われます。あまり父とは似ていないみたいで」

「女の子が放っておかないだろうね。将来が楽しみだ」



 どうしてそんな話をするんだろうと、ボートの上で考え込んでいた。大人達はよくそんなことを言うが、興味は無かった。父のように、誰彼構わず遊ぶ気にはなれなかった。目の前でボートを漕いでいたおじさんが微笑み、ふと、こちらに腕を伸ばしてきた。咄嗟に言いつけ通り、服の上からペンダントを握り締め、かちりとスイッチを入れる。これで録音が出来る。



「あの、やめてください。触らないでください、そんなところ」

「大丈夫大丈夫、あとでお菓子もあげるから……ああ、いくら欲しい? 君ぐらいの年だと、欲しいものもわんさかあるだろう? いくら欲しい? いくらでもあげよう」



 湖に沈めてやろうかと思ったが、耐えた。俺がものすごく嫌がると、それ以上のことはしてこなかった。すぐに電話でダニエルに相談した。何かあったら俺に言うようにと、そう言われていたから。受話器の向こうで、ダニエルが黙り込む。



「……分かった。ヘンリーのご両親は? いる? 警察に通報しようか」

「警察……? でも、」

「良かった。俺の両親と違って、ヘンリーの両親はまともで。すぐに動いてくれるだろう……ああ、そのおじさんの奥さんにも連絡しなきゃな」

「ダニエルさん?」

「とりあえず、ご両親に代わってくれるかな? いる?」



 いつになくすらすらと喋る、ダニエルに戸惑いつつも父を呼び寄せ、すぐに電話を代わった。最初、父は声の主が誰かよく分からなかったようだ。目を白黒させていたが、さっと顔色が変わる。結局、その男は出入り禁止になった。二度と会うことは無かった。



 あとから聞いた話によると、その男は母の愛人で、母によく似た俺に執着していたのだろうと。それから、夫婦仲もどんどん冷えていった。貴族という存在に、嫌気が差してきたのはこの頃。



「ああ、普通の家に生まれたかったな……窮屈だ」

「ヘンリー、その、縁談は……?」

「断った!! 母が持ってくる縁談は全て断る。あのクソ女、結婚を使って俺をこの家に縛り付けておくつもりだ。俺は一生子供なんか作らない、結婚もしない……絶えてしまえ、こんな家なんか」



 この顔のせいで、何度か嫌な目に遭った。パーティーで一目惚れされることもあった。俺を巡って、名前もよく覚えていない女の子達が火花を散らしているのを見て、本当に嫌になった。



「結婚するのなら、普通の家の子がいいな……疲れた」

「どうせ俺なんて、どうせ俺なんて……」

「……ダニエルさんはまた、上手くいかなかったのか」



 じめじめと鬱陶しい息子を厄介払いしようと思ったのか、その頃、ウォント夫人は熱心に息子の結婚相手を探していた。しかし、どれもこれも上手く行かない。顔立ちは整っているものの、目も合わせない、真っ赤になって黙り込むダニエルを見て、多くのご令嬢が音を上げた。徹底的に女性達から拒絶され、母親に当たり散らされたからか、ますます暗くなっていった。屋敷に閉じこもって、風呂にも入らなくなった。



「おーい……ダニエルさーん? お土産、持って来たんだけどな? ダニエルさんが好きな、檸檬のスティックケーキ」

「……いらない」



 真っ暗な部屋の中で、毛布に包まったダニエルが低く呻く。あーあ、夫人も荒れていたし。ここに来るまでの道中で、使用人達がひそひそと何かを囁き合っていたし。働きもせず、どんどん精神が病んでいくダニエルは、ウォント家の頭痛の種だった。冷房が効いた、真っ暗闇の部屋をそろそろと進んで、寝台に近付く。



「ダニエルさん、大丈夫ですか? もう、俺と一緒に暮らしませんか?」

「……ヘンリーと一緒に?」

「はい。俺も結局、彼女と別れたし……また付き纏われても嫌だし」



 家名と金がそうさせるのか、何なのか。普通の家の子と付き合っても上手くいかなかった。どの子もメンタルが不安定になっていったし、俺に酷く執着した。頬に張った湿布を上から撫でていると、もぞもぞと毛布の塊が動いて、ダニエルが顔出す。怪我をした俺を見て、ぎょっとした顔になった。



「ヘンリー……それ」

「別れる時、ちょっとね。でも、警察にも通報しましたし。大丈夫ですよ、もう」

「……そっか。あとでその女の写真を見せて欲しい。名前も……何かあった時に、すぐ動けるから」



 ああ、いくらじめじめして落ち込んでいても、根っこの部分は変わらない。だから、いくらでもその泣き言が聞けた。昔から母親に虐待され、人のために動き、多くを飲み込んできた人だから。ぼすんと、その手にスティックケーキの箱を押し付けると、嬉しそうに笑って「ありがとう」と言った。人に何かして貰った時、必ずありがとうと言うところも好きだった。



「ねぇ? 一緒に暮らしませんか、俺と。ここにいたら……ますます病んでしまう」

「……俺、考えていることがあるんだ」

「何ですか?」

「シェアハウス……その、運営しようと思って。お祖父様が遺してくれた、その、不動産もいくつかあるし」

「良かったですね、食いっぱぐれない」

「うん……母も、俺がいなくなった方がいいだろうし。出るよ、この家」



 結局、俺には何も相談せずにシェアハウス用の邸宅を建てて、あっさりとそこへ逃げてしまった。淋しいだろうに、俺を呼ばなかった。だから、腹が立って押しかけてやった。甲斐甲斐しく世話をして、二人で遊んでいる内に、どんどん人が増えていって、去って行って。



「まただめだった……やっぱり、俺が悪いんだろうな」

「そんなことないですよ、ダニエルさん。それに、いつかはダニエルさんの良さに気がついてくれる、」

「いいんだ、結婚は諦めてるから……どうせ俺なんて……うっ、うう」



 ああ、だから幸せになって欲しいんだけどな。俺がいくら励ましても頭を洗わないし、元気にもならないな。誰か、誰か────……。



(全部貴族が悪いんだ、全部)



 ダニエルさんが元気にならないのも、シェアハウスに人がいつかないのも。全部全部貴族が悪い。死に絶えてしまえ、あんな存在。



「ねぇ!? ヘンリー! 起きて!? 夢だよ、それ!」

「うにゃあ、うにゅうん……」

「うーん……貴族なんて、極悪の塊だ……」



 どうしよう? 起きてくれない。黒いカチューシャを付けて、黒いハート柄のニットを着たメイベルが、ソファーでうなされているヘンリーを揺さぶっていた。バニラちゃんがぴょんと胸元に乗って、「うにゅう!」と言っているのに起きない。



「わーっ……どうしよう!? ノア、起きてくれないの。ヘンリーが」

「放っておけば? うるさそうだし」

「えええええっ……?」

「そーそー。また騒ぎ出すよ、きっとそいつ。普段は良いやつなんだけどなぁ~」



 ダイニングテーブルに座ったフレデリックが眉を顰め、ノアからカードを抜き取る。長い黒髪ウィッグを付けて、真っ赤なニットを着たノアが、ふんと鼻を鳴らした。



「意外と強いよね、フレデリックさんは」

「まぁな~。女の子とこれで遊んでたりするしな~。金賭けると面白いんだよ、これがな」

「ふーん、くだらな。メイベルちゃん、アレンを呼んできてあげようか?」

「えっ、どうしてアレンを!?」

「うるさいからやめとけって。どーせあいつ、温泉から吹っ飛んでくるぞ。今、何だっけ? ハリーの頭を洗ってるんだっけ?」

「そうそう……ハリーも疲れているんだろうね、あれ。思いっきり甘えてたじゃん、アレンにさ」

「あー、あれな。何だろうな? 普段、アレンのことを毛嫌いしてるくせに……何でも、メイベルちゃんが羨ましいんだってよ。俺も甘やかして貰ううううっ!! て叫んだ」



 フレデリックが白目を剝いて、口を半開きにしてぷらぷらと手を振ると、ノアが笑って「似てる、似てる」と言う。だ、だめだ……みんな、ヘンリーのこと、どうでもいいみたい。バニラちゃんと私しか気にかけていない。



「こんな時、アレンがいてくれたら……ああ、だめだ。私ったら、便利道具扱いしちゃってる」

「うにゅうん?」

「そうなの。反省するね……」



 ヘンリーの口元に前足を置いたバニラちゃんが、ちゅんと冷たい鼻先を押し付けてきた。笑って撫でていると、ヘンリーの鼻をむんずと踏んでしまい、「ふがっ!?」と呻く。慌てて抱き上げていると、おもむろにリビングのドアが開いて、お風呂上りのダニエルがやって来た。綺麗に伸びてきた黒髪をタオルで拭き、黒縁眼鏡を外し、白いバスローブを着ている。



「……メイベル? ヘンリーは」

「あっ、そ、そうなんです! さっきからうなされていて……それに、コンラッドおじさんって誰かを呼んでいて……知っていますか? 仲が良いおじさんなのかも、」

「ごめん、ちょっとどいて。起こすから」

「あっ、はい……」



 いつになくはっきりとした声で遮り、私を押しのける。その声に驚いたのか、ノアとフレデリックが振り返って、こちらを黙って見つめていた。ダニエルがソファーの前で座り込み、ヘンリーの顔を覗きこむ。



「ヘンリー! 起きろ、今すぐに! 夢だから、それは」

「っわ!? ……ダニエルさん?」

「だ、ダニエルさんすごい……そんなに大きな声が出せたんですね」

「ごっ、ごめん……その、驚かせちゃって」

「俺らも初めて聞いたよ。あっ、でも」

「何? 何か知ってるの? 古株だもんね、フレデリックさんは」



 ノアがカードを抜き取りながら聞くと、真面目な顔で頷く。



「いつだったかなぁ~……あれ。ヘンリーのストーカーが家に来た時にさぁ」

「うえっ……気持ち悪。でもメイベルちゃんといい、ヘンリーといい、変な人間ホイホイだよね? 何かちょっと分かる気がするけどさ、寄ってこられる理由。大体、二人とも雰囲気が似てるし」

「あー、だな。ストーカーが好きそうと言うか……まぁ、あんまり色々言わなさそうだからその分だけ、変なやつらが寄ってくるんだろ。俺、恨みでしか付き纏われたこと無いもん」

「それは自業自得でしょ……あーっ! また負けた! カード運強すぎない? もう一回!」

「いいけど、次は酒でも賭けないか? この前、とっておきのを買ったんだよ」




 よく分からないけど、どうもその時、ダニエルさんが怒ったみたい? ふと見てみると、テーブルに置いてあった水を飲ませていた。ヘンリーが「ありがとう」とお礼を言って、ダニエルにコップを返している。



「もう寝た方がいい、部屋に帰って」

「いや、でも……」

「メイベル、手伝ってくれる? ヘンリーは淋しがり屋だから……誰かいた方が嬉しいし。その、人数が多い方が良い。喜ぶ」

「もちろんですよ! でも、かっこいいですね。ダニエルさん。頼れる感じで……」

「おっと! 大丈夫ですか? ダニエルさん」

「うん……回復する」



 何故か崩れ落ちたダニエルが、ふるふると黒髪頭を振って、立ち上がった。見上げてみると、その顔がちょっと赤い。すぐさま目を逸らして、ヘンリーの腕を掴んで歩き出す。



「ここで……寝ない方がいい。あと、何か欲しい物は?」

「無いです……すみません。その、昔の夢を見ていたみたいで」

「いや、いい。あれはあいつが悪い。ヘンリーはいつだって何も悪くない。謝る必要も、気にする必要も無い……俺がもっと早く、気付いていたら」

「いやぁ……十分色々してくれましたよ、ダニエルさんは。それに、それとなく俺の両親に注意してくれていたんでしょう?」

「……たぶん、あの時もっと何か出来たんだ。他に、俺は」



 とんとんと、二階へと続く階段を登っているダニエルが、悔しそうにそう呟く。よく分からなくて、その会話に耳を澄ませていると、ヘンリーが振り返って笑いかけてくれた。



「ああ……昔ね? 嫌なことをしてくるおじさんがいて。ダニエルさんがその時、俺のことを気にかけて助けてくれたんだ」

「そうだったんですね……」

「にゅうっ!」

「あっ、バニラちゃん、だめよー? ダニエルさんに何もしないでねー?」



 階段を一生懸命登っていたバニラちゃんを抱え、たしなめる。すると、不満そうに「うにゃあ」と鳴いた。可愛い。不満がある時、必ず大きく口を開けて「うにゃあ、うにゃあ」と抗議してくる。



「……夢に見るほどとは、その、あまり思ってなかった。ごめん」

「どうしてダニエルさんが謝るんですか? 大丈夫ですよ、それに」

「それに……?」



 階段を登り終えたヘンリーが押し黙って、ぴたりと立ち止まる。心配になってダニエルと二人で覗き込むと、苦笑した。



「ダニエルさん、明るくなってきたなって。ちょっとずつ昔に戻ってきた。いや、昔以上かな? ありがとう、メイベルちゃん」

「えっ!? 私!?」

「……その、肯定してくれたから。俺のこと……」

「わ、私は何もしてないんですけどね……」

「そー、だからメイベルちゃんがダニエルさんと結婚して、ずっと傍にいてくれたらなとも思ったんだけど」

「へっ!?」



 驚いてダニエルとヘンリーの顔を交互に見ると、珍しく不愉快そうに眉を顰めて、ヘンリーを睨みつける。



「それはないよ、ヘンリー。見ていれば分かるだろ?」

「……うーん。でも、本人達も無自覚だし?」

「俺、嫌だな。俺に親切にしてくれた……その、メイベルが幸せにならないのは」



 諦めたんだろうか、メイベルちゃんのことを。見ていれば分かった。青い瞳が熱っぽく、どこまでも彼女のことを追いかける。でも、傍にはいつもアレンがいた。



 二人は今日も、無自覚にイチャついている。さっきもアレンが、メイベルちゃんの口元に付いていた米粒を取って、「付いてたぞー。でも、メイベルは何をつけていても可愛いなぁ」だなんてほざき、メイベルちゃんもメイベルちゃんで嬉しそうに、「も~、アレンってば~」と言って笑っていた。そろそろダイナマイトでもくくりつけて、どかんと爆発させてやるべきかもしれないな。




 そんなことを考えていると、真っ直ぐな青い瞳で見つめてきた。意思が強く秘められた瞳。そうだ、ここ何年かは病んでいたけど。元々こういう目をして、色々と人のために動く人だった。



「言わなくていい、そういうことは。……ごめん、有難いんだけど。ヘンリーの気持ちは。でも」



 そこで、ぐっと俯く。メイベルちゃんが戸惑って、俺とダニエルさんを交互に見上げていた。合うと思ったんだけどな、この二人は。



「メイベルも困るし。ねぇ、メイベル? 俺はやっぱり、君はアレンと……」

「てっててーん! 綺麗になったハリー、新登場だよ!! あれっ? ヘンリー? ダニエルさん? 何してんの? そこで」

「おいっ! ハリー、てめぇ! パンツを今すぐに履け! 全裸で逃げやがって!!」

「うおっ!? 全裸だった、俺! 一体どうして!?」

「うっ、うわああっ!?」



 うっかりハリーの全裸を見てしまい、バニラちゃんを抱えて背中を向けると、ダニエルがさっとそちらに行く。ヘンリーも慌てて、そちらに向かった。



「アレン、貸して」

「えっ!? お、おう……」

「えっ、嘘ぉ!? ダニエルさん、激おこな感じ!? あっ、ちょっ、待って!? 俺、青いパンツを履きたくない気分なんだけど!?」

「いいから履けって、鬱陶しいな!!」

「こういうの、困る。女性もいるんだから、ちゃんと服着て出てきて」

「あ~……久しぶりにダニエルさんが怒ってるなぁ」

「俺、初めて見たかも……あっ、メイベル。大丈夫か? 悪いな、汚いもん見せて。まだこいつ、服着てないからこっち向くなよー」

「わ、分かった……」

「にゃあん」



 バニラちゃんが非難がましく、腕の中で鳴く。「そうだよねー? バニラたんも女の子だもんねー?」とヘンリーがでれでれの顔をして、こちらを振り向いた。



「じゃあ、俺……その、ハリーの部屋から服取ってくる」

「いや、大浴場にあるから。俺が取りに行きたいけど……」

「いや、アレンはメイベルの傍にいてて……あとヘンリー、ちゃんと寝て。部屋に帰って」

「あっ、はーい。大人しく寝まーす」

「ヘンリー? あの、大丈夫?」



 心配になって聞くと、バニラちゃんを撫でるために近付いてきたヘンリーが、ふっと綺麗に瞳を瞠る。そのあと、にっこりと微笑んでくれた。



「うん、大丈夫。……さっきはごめんね? おかしなことを言っちゃって」

「俺の方がおかしなこと、言えるけど!? てかパンツが窮屈! 野生に帰りたいっ!」

「てめぇ! ハリー!! 脱ぐなって履いとけ! 野生に帰りたいのなら、俺が極寒の外に叩き出してやろうか!?」

「嫌だああああああっ! そうだ、アレンも一緒に脱ご!?」

「うおっ!? ベルトを緩めるなって! おい、マジか!?」

「へっへーん! 必殺! ズボン下ろし!!」

「てめぇ! もう殴る! ベルトでぶん殴ってやる!!」



 わあわあと騒いでいる二人が気になって、ヘンリーの後ろから覗こうとすると、バニラちゃんをふにゅっと押し付けられた。



「ほわっ!? ふにゃふにゃ!」

「うにゅうん」

「だめだよー? メイベルちゃん。今やアレンもパンツ一枚だし……ハリーも全裸だし。お見せ出来るようなあれじゃないから、全然……」

「ハリー、いい加減にしろ」



 低く静かに、でもはっきりと声が響き渡る。ぴたりと二人の動きが止まったかと思うと、ダニエルが深い溜め息を吐いた。



「服、取りに行こう。アレン、早くズボンを履いて」

「あっ、はい……」

「ヘンリーは今、調子が悪いから……あまり無理をさせたくない。ハリー? 分かった?」

「う、うん……お利口にしてます」

「とりあえずフルチンじゃまずいからお前、パンツを履けよ……」

「あっ、はい……履きます。俺、お利口です」



 もそもそとハリーがパンツを履いている、みたい。眠たくなってきて、毛がふんにゃりとなってきたバニラちゃんを抱えていると、ヘンリーが苦笑する。



「久しぶりに怒りましたね、ダニエルさん。そうやって」

「……誰かが怒らないと、だって」

「ご、ごめんなさい……今度から、ちゃんとパンツを履いて暮らします……」

「常に履いておけよ、パンツは。お前」

「う、うん……履き忘れないようにする」

「じゃ、服も着た方がいいから。行こうか、ハリー。おやすみ、ヘンリー。また明日」

「おやすみなさい、ダニエルさん。また明日」



 ぱたんと、部屋のドアが閉まって廊下が静かになる。良かった、バニラちゃんもちょうど眠たくなってたし。ヘンリーも疲れてたし。きっと、寄り添って眠ったら嫌な夢も見ないと思うし。



(そ、それに……思いがけず、アレンとの時間が出来たし!)



 くたびれた顔でベルトを締め直していたアレンが、ふとこちらを向く。わくわくと期待して見ていると、ふっと顔を綻ばせて笑ってくれた。



「メイベル、お菓子でもいるか? ほい」

「あり、ありがとう! あのね? その……」

「夜の散歩か? 好きだなぁ、お前も。よし、あのカフェに寄ってみるか。それでケーキでも食いに行こうぜ。俺、疲れた。今日嫌なことがあってさ……」

「大丈夫? 聞くよ、話! 何でも!」

「ああ、ありがと。いやさ、俺の母親がさ……」






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