1.だからてめぇみたいな善人はすぐにくたばっちまうんだよ
朝起きてドアを開けると、そこに人が倒れていた。ぼさぼさの黒髪頭と赤チェックシャツを見て、大家さんのダニエルさんかなと見当を付ける。
「あ、あの~。もしもし? 大丈夫ですか……?」
「うっ、うう。大丈夫じゃない、死んでる……ううっ」
「えっ、ええっと、一体何があったんですか……?」
紺色のカチューシャを付け、白いニットとデニムを着たメイベルが首を傾げる。そしてゆっくりしゃがみ込むと、倒れているダニエルをじっと見つめた。朝からどうしたんだろう、こんな冷たい廊下で倒れているだなんて。
「ねぇ? ダニエルさん? 寒いですよ? まだ秋の始めとは言えども、」
「なっ、なんていい子なんだ……!! さすがライさんの血が入っているだけある。でも俺は知っているんだ、どーせ君もすぐに俺に嫌気が差すんだ。だって皆そうだったんだもん、どーせ俺がぐちぐちぐちぐちと、」
「ええいっ! 朝からやかましい! 踏み潰すぞ、貴様!!」
「わああああっ!? だにっ、ダニエルさん!?」
ばんとドアが開いて、誰かがダニエルの黒髪頭を思いっきり踏んづける。あまりのことに口を開けて呆然としていると、その人物がはんと鼻を鳴らした。
「そうか、お前がメイベル・ロチェスターか。こんな所で油を売っている場合か? 貴様。仕事はどうした、仕事は!」
「いっ、今から行きます! すみません! でも可哀想だから早くその足をどけて、」
「アレンがまた俺のことを踏んだーっ!! 俺も踏んでやるぅーっ!! だからお前は先週彼女に振られたんだよ、バーカバーカ! 後で呪ってやるうううう!!」
「うるせーっ!! 新入りの前で何てことを言いやがる!! 俺が先に呪ってやるよ、お前のことをな!!」
どうしよう? 本当に彼の言う通り、取っ組み合いの喧嘩が始まってしまった。血走った目のダニエルと怒っているアレンという男性が腕を掴み、ぎりぎりと睨み合っている。
「俺は大家だ! アレン、お前の部屋だけ家賃を上げてやろうか!? 今すぐ謝れ、俺に!!」
「やなこった! お前が人の部屋の前で朝っぱらからぐだぐだぐだぐだと喚いているのが悪いんだろうが! 全世界にカビが生えているのはお前のせいだ!! お前のネガティブオーラがありとあらゆる黒カビと赤カビを生み出しているんだ!! 全人類に詫びろっ!!」
どうしよう、言っていることが滅茶苦茶だ。それなのにダニエルは納得してしまったらしく、ふっと両手で顔を覆って「すみっ、すみませんでしたああああ~……どうせ俺は風呂場の片隅に生えている黒カビ、そう、何も生み出さない黒カビ人間……!!」と言って泣き、床へ座り込んでしまった。
「はー、これでよし! やっと静かになった。おい、お前」
「はっ、はい? あっ、そうだ。ええっと、初めまして。アレンさん? 私はめいべ、」
「いらん、さん付けはやめろ。気色悪い! あとこのジメジメ男を丁寧に構うな、だからてめえみたいな善人はすぐにくたばっちうまんだよ、分かったか!?」
「あっ、はっ、はい。ごめんなさい……?」
どうやらそう悪い人ではないらしい。
(良い人だって褒められちゃった……それに悪口も何か。独創的だったし。変わった人だなぁ)
黒髪に青い瞳を持った彼は居心地悪そうに頭を掻き、足元のダニエルを眺める。ぱりっとした青のストライプシャツとデニムがよく似合っていた。
「そうすぐに謝られると。俺としても喚きようがないじゃないか……」
「わっ、喚きよう……ええっと、どうぞ? たまーに喚きたくなる時ってありますよね……」
笑って促してみたのだが、アレンが更に嫌そうな顔となる。足元のダニエルは膝を抱え、「ライさん、ライさんの血が欲しい……」とぶつぶつ呟いていた。
「そうだ、お前! 自己紹介をしていないじゃないか、自己紹介を! 今すぐにしろ! あと俺はアレン・フォレスター。よろしく」
「ええっと、メイベル・ロチェスターです。どうぞよろしくお願いします」
アレンは青い瞳を意外そうにさせ、じっとこちらを凝視してくる。どうしたんだろう、あとこの手はいつになったら放して貰えるんだろう。普段握ることがない男性の節くれだった指に、顔が熱くなってゆく。
「あっ、あの……?」
「……ああ、悪かった。ほらダニエル。お前、あのボンボンを起こしてきてくれ。まだベッドでぐうすか眠ってるだろうから。そのネガティブオーラを纏って腹にでも突撃してこい。いいな?」
「うっ、うう。そうする、アレンよりもヘンリーの方が優しいもん……ううっ」
ダニエルがずるりと、まるでゾンビのように起き上がった。少しだけ驚いていると、アレンがこちらの手を握りしめてすたすたと歩いてゆく。
「わっ、あのっ?」
「いいか、お前に言っておく。あそこでぐだぐだとダニエルを構っていたら絶対に遅刻する。お前みたいな善人をよく知っているからな、俺は」
「ええっと、私を気遣って下さっているのはよく分かりましたが何も手を、」
そこでぱっと手を放し、いたく真面目な表情でじっと眺めてくる。もうすぐ目の前は階段だった。
「ダニエルの様子を見守る気だったろ、お前。ほら降りるぞ、気を付けろよ。スリッパを履いていると転びやすいからな、俺は一昨日ケツを強打した。まだ痛い」
「ええっと、気をつけますね……それにしてもなんだか安心しました。良い所で」
とんとんとんと、階段を降りていたアレンがうげっと顔を顰めて振り返る。
「お前……とんだ変態だな、気色悪い。良い所だとぉ!? ここがぁーっ!? ここが良い所なら刑務所の男子トイレだって貴族のお姫様部屋だろうよ! ああっ、お前みたいな人間を見ていると腹が減ってくる! 茹で玉子でも食べるしかないな、これは!」
「茹で玉子……いいですね、美味しそう」
「あー、あー、あー、これだから。善人ってのは虫唾が走る。今いち調子が乗らないじゃねぇか、今日俺が遅刻したら絶対お前のせいだからな!? いいな!?」
アレンが両耳をぱたぱたと叩いて、こちらを照れ臭そうな表情で見上げてくる。どこに照れる要素があったんだろうと思って笑ってしまった。
「はい、分かりました。私のせいですよね、ごめんなさい。アレンさん、じゃなかった。アレン」
「んー、あと魔術占いが最下位だったらお前のせいにしておくな、俺。っと、酒臭いな。シェラか? これ」
ごろりんと転がっていたワインボトルを見て、アレンが渋々と拾い上げる。中身は空だ。赤紫色の液体がこびりついているけれど。
「これはあれか……? これで誰かの頭でも殴れと! そういった神の啓示だな!?」
「やっ、やめてください! 駄目です、人の頭を殴っちゃ!」
バットのようにワインボトルを握って振ったアレンが顔を顰め、こちらを見下ろしてきた。
「あのな? 今のはウィットに富んだジョークだ。そんなことをしたら捕まるだろうが、俺が」
「あっ、ああ。そうですよね、驚きました……」
「おはよーう、シェラー。お前、また廊下にワインボトルが落ちてたぞー。ったくてめえは唾液のようにワインボトルをぼたぼたと落としやがって!! この前も言ったけどな!? 俺は、」
「まっ、待って! アレン、落ち着いて!? あと怖いからやっぱりそれは私が持っておくね!?」
話している内に苛立ってしまったのか、アレンがワインボトルを振り上げつつドアを開く。それを慌てて止めていると、背後から間延びした声が聞こえてきた。
「んぁ~……おはよう、アレン。魔術師。あれ? それは、」
「なんっでお前はまたワインボトル片手に歯を磨いているんだよ!? どーせ飲まないだろう!? あれか!? また性懲りもなく朝から酒を飲んでいるのか!? お前は!」
「お願いだから落ち着いてよ、アレン! ええっと、初めまして! シェラさん? メイベル・ロチェスターです。どうぞよろしく」
アレンの背中から顔を出すと、廊下に立っていた女性がぼんやりとこちらを見つめてくる。彼女は美しい人で、ダークブルーの瞳と豊かな黒髪を持っていた。そして白い口元には歯ブラシをくわえ、その片手にはワインボトルが握り締められている。
それは別に構わないのだが、秋だというのに黒いタンクトップと短パンを着ていた。どこからどう見ても、真夏の歓楽街を歩いているかのような美女で。
「ん~、初めまひて。あたしはシェラ。シェヘラザード・シャンディ。昔ね、蟹漁船に乗って肺炎をこじらせておっ死んだばぁちゃんの名前なんだって。よろしく、メイベルしゃん」
「お前な、そんな自己紹介の仕方があるか? あと俺の時は元恋人を毒殺して捕まったばぁちゃんの名前だったが。お前のばぁちゃん、一体どんな波乱万丈な人生を送っているんだよ?」
「んぅ~……まぁそれは置いといて」
シェヘラザードは眠たそうな表情で自分の腹をばりばりと掻き、また歯ブラシを持って磨き始める。勿論その片手には、しっかりとワインボトルが握り締められていた。
「メイベルひゃん、いつ頃出てっちゃう? 淋しいなぁ」
「おい、やめろ! この変態善人女子が出て行く前提で話をするのは今すぐにやめろ! さぁ、飯を食うぞ、飯を! ちょうどぼんぼんと糞ダニエルもやってきたみたいだからな!」
ただ、朝食の支度も大変だった。彼らは皆ご飯を作るのが苦手らしく、お互いにその作業を押し付け合った。それなので私が作ります、と買って出たのだが。
「うわああああーっ!? メイベル、これ燃えた! これ燃えた! どうしよう!?」
「えっ、えええっ!? 水っ、水っ、どうしよう!?」
「大丈夫、俺っ! 魔術が使えた! 冷静になれええええっ、俺! 水が出せないっ!!」
そう、魔術は冷静になれないと使えないのだ。私は魔術の国家資格を持っていないし、どういった仕組みで発動されるのかよく分からないけど。
(あれかな? アレンもこう、上流階級の人だったりして? 全然見えないけど……)
魔術師になるにはとてもお金がかかるのだと聞く。ライ叔父さんもわざわざ家に国家魔術師を呼んで付きっ切りで勉強を教えて貰い、ようやく国家資格を取得したのだ。
「ふー、メイベル。このベーコンは俺に喧嘩を売っているぞ。いきなり燃え始めたんだ……」
「どっ、どうやったらそんな風になるのかが。よく分からないんだけど、アレン……」
ここは白いタイル床の広々としたキッチンで、食器棚も作業台も焦げ茶色で統一されている。温かみがあって素敵な雰囲気のキッチンだ。ふんふんと鼻歌を歌いつつ、鉄製のフライパンにバターを入れてじゅわっと溶かして回す。
今から豚挽き肉とマッシュルームと玉葱を入れた巨大オムレツを作るのだ。牛乳と黒胡椒とハーブソルトも入れてふわっふわに焼き上げる。すると横でフライパンを振っていたアレンが「パン出来たかー? ヘンリー」と尋ねる。
話しかけられたヘンリーは何故か朝食の前にグァバアイスを食べており、紺色のシャツパジャマ姿だった。実は貴族の血を引いているというヘンリー・ヒューバート・カーターはスプーンをくわえつつ、オーブントースターを睨みつける。
「まだだ。まだ、んぐ。俺の求める焼き加減に仕上がっていない……!!」
「絶対に焦げてるだろ、それ。訳の分からんアイスをもちゃもちゃ食ってないで早く出せよ」
「絶対にやだ! まだ白いからな!? これっ! お前の食パンだけ黒焦げにして床に放り投げてやろうか!!」
その言葉を聞いて苛立ってしまったのか、アレンがフライ返しを持ち上げて言い返す。
「勿体ねぇだろ、それ! そんなことをしたら二度とお前とは口を聞かないからな!? 一生無視してやる! 一生根に持ってやる!!」
「それは困る! 淋しいじゃないか!? 酷い!」
「うるせーっ!! 黙って食パンを出せ! この貴族の糞ボンボンが!!」
「貴族って言うな、魔術師! 先週彼女に振られたくせに! バーカバーカ!」
「うるせーよ!? 合言葉なのか!? 合言葉なのか!? くそったれが! てめぇらに話した俺が馬鹿馬鹿の大馬鹿だった!!」
朝からそんな風に声を張り上げていて、喉を痛めないのだろうか?
(ちょっと心配だな。私だったらすぐに喉を痛めちゃうんだけど)
無事にふわふわのオムレツも焼き上がり、それをフライ返しで切って六等分する。どうやらまだ眠っているらしい高級娼婦の、マリエルさんの分を残しておくのだ。
(あっ、でも。どうしよう? 余計なお世話かな……)
いらなかったら私が夜に食べます、とでもメモ用紙に書いて置いておこう。そうしよう。何があったかな、メモ用紙。ふんわりと心を和ませるようなラズベリーパイと栗鼠のメモ用紙にでもしようかな。
「ううーん、どうしよう? でもアレルギーとかあったら申し訳ないし……余計に気を遣わせてしまうし。ダニエルさん? マリエルさん、オムレツってどう、」
「メイベル……俺はね、この石鹸の泡と共に浄化されるべき人間かもしれない。むしろ浄水器のフィルターにでも入ってジメジメ菌を追い出すべきかもしれないな……」
恋人を殺した後、お皿を洗っている最中です、とでも言いたげな表情のダニエルがゆっくりとこちらを振り返る。黒縁眼鏡越しの青い瞳は血走っていた。寝不足なのだろうか、顔色が悪い。
「それからマリエルは、彼女は女王様だ。是非ともそのオムレツを捧げるがいい……いたく喜ぶだろう、そう! 今まさしく俺が皿を甲斐甲斐しく洗っていることよりも何よりもメイベル。可愛い女の子である君が、」
「はいはい、ダニエルさん。そこまでにしようっか! メイベル、俺が運ぶよ。どうもありがとう!」
「ヘンリー、こちらこそ。でもいいの? そこまでして貰って」
食パンまで焼いて貰ったのに。ヘンリーがふっとダークブラウンの瞳を瞠り、次の瞬間にっこりと笑う。
「別にいいんだよ、メイベル。君はなにせとても常識的で優しい女の子だからね。それに女性に朝食を運ぶのは男の役目みたいなもんだから……」
「へぇ、珍しいな。貴族を毛嫌いしているお前がそんなことを言うのは。あっ、オムレツうまそう。ありがとう、メイベル」
アレンの言葉に恐ろしくショックを受けてしまったのか、ヘンリーが空っぽのお皿をからんからんと落として床へ座り込む。そして綺麗なダークブラウンの頭を抱えてしまった。
「駄目だあああああーっ!! 俺はっ、俺はあんな古ぼけた腐った血の連中のようにはなりたくないんだあああああっ!!」
「悪いな、メイベル。ヘンリーは貴族の両親と仲が険悪でな。どうもトラウマがあるらしくって。こうやって貴族のワードを少しでも出すと発作を起こす。気をつけろ、あと食パンは俺が運ぶ」
「あ、アレン……分かっているのなら言っちゃ駄目よ? ねっ?」
苦笑して見上げると、ばつの悪そうな表情でぼそぼそと「ごめん。じゃ、運ぶよ」と言って、食器棚の方へと向かう。
(ふふっ、もう。何だか弟みたいで楽しい。あれかなぁ、幼馴染とかがいたらこんな感じだったのかなぁ? ちょっと違うかなぁ)
ほのぼのとしてアレンの後ろ姿を見つめていると、ふいに袖を引かれる。振り返ってみると虚ろな表情のダニエルが立っていて、シンクを黙って指差した。
「あっ、ああ。ええっと、洗ってくださってありがとうございます? かな……」
「もっと俺のことを褒めて欲しい、メイベル。あいつらはいつもいつも俺のことを鬱陶しいと言うばかりで。うっ、うう……」
「構わなくていいぞ、メイベル。お前、公園の鳩にも餌をやるタイプの人間だろ。近隣の迷惑になるからやめるように! そんじゃあ飯を食うか! 遅刻するぞー?」
吹き抜け天井から燦々と朝日が降り注ぎ、ダイニングテーブルと椅子を照らしていた。奥には芝生の庭が見える大開口の窓があって、その手前にゆったりとした紺色のコーナーソファーが配置されている。
「わあああ、凄いなぁ。豪邸で。何だか贅沢ですよね、ここで朝ご飯を食べるの」
「そうだな、こいつが鬱陶しく泣いてなきゃ実に爽やかな場所での朝食だと言いたいところだが。そう言う訳にも行かない。もうそろそろいい加減に風呂に入れよ、ダニエル。臭い」
隣でベーコンを突き刺して、もちゃもちゃと食べ始めたアレンがぼやく。胡桃材のテーブルの上には私が作ったオムレツとベーコンと食パン、そして瑞々しいレタスとカボチャのサラダ。それに紅茶とコーンクリームスープが並べられている。
「うっ、うう。折角金にあかせて家を建ててシェアハウスを運営しているのに。誰も、誰も俺のことを構ってくれない、慰めてくれない、うっ、ううっ……」
「えっ? シェアハウスを始めたのは。それが理由なんですか……?」
「不純だよな、動機が。格安で住まわせてやるから構えってのは。アホだ、アホ。この大アホめ」
「あ、アレン……ダニエルさんが傷付いちゃうから。ねっ?」
ふいっと顔を逸らし、素知らぬ振りで食パンをくわえている。アレンがもう一枚の食パンに真っ赤な苺ジャムを塗り広げてゆく光景をぼんやり眺めていると、向かいの席に座ったヘンリーが低く笑う。
「メイベル、気にかけるだけ無駄だよ。でもさぁ~、俺。いっつもアレンに暴言を吐かれているけど。なんか気の強いチワワがきゃんきゃんと吠えている様子とよく似て、」
「てっめええええ! ヘンリー! もうお前の洗濯物を洗ってやらねぇからな!? 覚えてろよ!? この貴族の糞ボンボンめ!」
「ごめんって、アレン! 俺が悪かったって!!」
洗っているんだなと思って振り返ってみると、アレンが嫌そうな顔をしていた。アレンは椅子へと座り直し、ぎゅうぎゅうと食パンを口に詰め込み始める。
「ふふっ、うん。大丈夫。私、上手くやっていけると思う。ヘンリー」
「それは良かった。まぁ問題は。他にもこんな変人どもがいっぱいいるということだが……」
「そうなんだよ……みんな手がかかる変人どもで」
「ダニエルさんがそれを言っちゃおしまいだな、はーあ。どいつもこいつも。全く持って困るよ。新人が居ついてくれないから」
するとそれまで黙って朝食を食べていたシェヘラザードが、美しいダークブルーの双眸でじっと見つめてきた。不思議に思って首を傾げていると、彼女はプチトマトのへたをしがみつつ話し出す。
「んぁ。みんな、自分だけがまともで常識人だと思ってる……メイベルちゃん、気をつけたほうがいい。あっという間にこいつらのお世話係にされちゃうから」
「うるせーよ、シェラ。俺はこいつに甘える気は毛頭無い。ただ朝食と夕食だけは作って欲しい。さっきベーコンが燃えて確信したんだ。俺に料理は向いていないと!!」
「思いっきり甘えるつもりじゃねぇか、アレン……」
ヘンリーが呆れたように笑い、優雅に紅茶のカップを傾ける。紺色のシャツパジャマ姿でも様になっているのが凄い。本人が聞いたら落ち込んでしまうだろうから絶対に言わないけど、貴族らしい。
「なぁ? メイベル。手間賃と食材費を払ってちゃんとお礼も言うから作って欲しい……」
「ふふっ、別にいいよ。アレン。料理作るの好きだし、私。楽しみ」
「流石はライさんの姪っ子だ。素晴らしい、是非ともその血を我が家に取り入れたい。そうだ、メイベル。俺と結婚して俺の子供を産んでくれないか? ちゃんと手間賃も払ってお礼も言う」
その言葉に思わず、うぐっとなって食パンを飲み込んだ。頭の中が真っ白になってしまう。見ると向かいに座ったシェヘラザードは嫌そうに顔を顰め、ヘンリーは激しくむせていた。先程の紅茶がひっかかったらしい。
硬直からいち早く蘇ったのはアレンで、自分の胸元をどんどんと叩きつつ声を荒げる。
「気色悪っ!! さらっと俺と似たようなことを言うんじゃない!! 気色悪っ! 今の身の毛がよだつような発言で苺ジャム食パンが喉に詰まって窒息死でもしたら訴えてやるからな!? あの世から蘇って何が何でも慰謝料を請求してやる!! てんめぇ! ダニエル! 気持ちが悪いのはその面と雰囲気だけにしておけよ!? 謝れ、今すぐ俺とメイベルに!! 謝れ!!」
す、凄い。
「アレン、凄いのね。私、そんな風に早く喋れないわ……」
「メイベル!? お前っ、そのぼけっとした善人面を今すぐにやめろ!! あと三ヶ月くらい家賃を無料にして貰え! あの変態発言は万死に値する!! 数十発ほど殴ってやれ、こいつの頭を! さぁっ! シェラ! いつものワインボトルの出番だ、お前っ!!」
「んぉ……どうぞ」
ぼんやりとした無表情でワインボトルを取り出し、ダニエルが絶望的な表情でそれを見ていた。とは言っても彼は、常に絶望的な表情を浮かべている。
「だ、出してくれたのはありがたいんだけど。シェラ、私、別にそこまで怒ってはいなくって、」
「っいいか!? だからお前みたいな善人はこの世から根こそぎいなくなって気持ちの悪い変態と糞ジジイと糞ババアしか残らねぇんだよ、言えっ! 嫌なら嫌と、そう言えよお前っ!?」
「えっ? でっ、でも。ダニエルさんに悪気は無いんだし……」
「いや、あったんじゃないのか…………?」
「無い、無い……」
ダニエルがゆるゆると、その片手を振る。外に出ていないのか、その手は随分と青白かった。こちらを見て息を荒げているアレンがきっと、ダニエルへ向き直る。
「おい、ダニエル。今すぐ謝れ、お前。それが出来ないのなら家賃を三か月分無料にしろ。いいな?」
「うん……ごめんよ、メイベル。無料にしてあげよう、お詫びに。どうしてかな、やっぱり俺はこうして女性に嫌われる運命を辿って、」
「だっ、大丈夫! 嫌ってませんからね!? それじゃあお金も無いし有難く……ほらっ、ご飯食べよう? アレン? 遅刻しちゃうからね? ねっ?」