13.同情するのなら俺のことを踏んでくれよ
ふんふんと鼻歌を歌っていると、階段から落ちてしまった。仕事から帰ってきて着替え、白いニットとデニムを着たメイベルを咄嗟にダニエルが受け止める。背中で。
「わあああああっ!? ごめんなさい、ごめんなさい! ダニエルさん、ごめんなさい!!」
「眼鏡、眼鏡……メイベル、無事か……? 怪我は?」
「ごめんなさいいいいいっ! 無いです! ごめんなさい! 私のせいでダニエルさんが骨でも折ったりしたら、ご両親に合わせる顔が無い……!!」
「大丈夫。俺の両親は俺が骨を折ろうと、泣こうとどうでもいいだろうよ……」
いつもの赤チェック柄のシャツを着たダニエルが黒縁眼鏡をかけ、虚ろな顔で笑う。焦ってダニエルの体に怪我は無いかとくまなく触っていると、何故かべそべそと泣いて廊下に蹲ってしまった。そこで私の声を聞きつけた、青いエプロン姿のアレンがお玉を持って現れる。
「おい? 大丈夫か? どうしたんだ? って……またかよ、ダニエル。鬱陶しくべそべそと泣きやがって」
「だって、だってメイベルが俺の体を……」
「ごっ、ごめんなさいいい……!! 私がうっかり階段から落ちちゃって、ダニエルさんを潰しちゃったんです……ごめんなさいい……!!」
「何だ、いつも俺がしてることか……大丈夫、メイベル。俺は階段から落ちてなかろうとなんだろうと、そいつをいっつも踏み潰してるから。あー、面倒くさ。ファラフェル作るの……」
「ファラフェル!? えっ!? 今日の晩ご飯、ファラフェルなの!?」
昨夜私がホームシックでべそべそと泣いていたからか、アレンが昼間店までやってきて「今日の晩飯は俺とヘンリーで作るから。気にしなくていいから」と言ってくれた。それにカスタードクリームが入ったシフォンケーキサンドまで持ってきてくれたし。昼間の甘い味を思い出し、笑いかける。
「ありがとう、ファラフェル……覚えててくれたんだね、私が雑誌見て食べたいって言ってたの……」
「あー、昨夜。キッチン漁ったらあったから戻しておいた……」
「あっ、あの時ね? 何かごそごそしてると思ったら」
「めい、メイベル……俺痛い、あちこちが痛い……」
「あっ、ごっ、ごめんなさい……大丈夫ですか? やっぱり怪我してますよね? 手当てをしに行きましょうか……」
ダニエルの手を握り締め、アレンを見てみると「救急箱なら今、フレデリックが使ってる。くっだんねぇ理由で怪我してるだけだから気にしなくて良し! そんじゃ」と言ってキッチンに戻ってゆく。
その後を追うようにしてダニエルの手を引いてリビングに入ると、気難しい顔をしたフレデリックがピンセットで綿を持ってぽんぽんと、腕の擦り傷を消毒していた。
「フレデリックさん、こんばんはー……おかえりなさい。ええっと、それは?」
「ああ……痴話喧嘩の末に出来た傷だから大丈夫。貴方がそんなに破綻した人だとは思わなかったって言われて、平手打ちをされてね……その勢いですっ転んだんだ。びっくりした、あれ」
「えっ、ええっと、おつ、お疲れ様です……」
「何だろうな、ダニエル。あれ。女性ってああいう時、ほんっとうに凄まじい力を出すよなぁ~……」
「俺は知らない、女性と喧嘩したことすらないから……」
「そうか……それ以前の問題か」
「フレデリックさん、ダニエルさんが落ち込んじゃうから……」
案の定ダニエルがソファーにもそもそと登って、星型のクッションを抱えて「どーせ俺は、どーせ俺は」と呟いて落ち込んでしまう。胸が痛んでその隣に座り、昨日洗ったばかりの美しい黒髪を梳かす。
「ねぇ? ダニエルさん? その、色んな女性を悲しませているフレデリックさんよりは魅力的ですから! 大丈夫、」
「本当に? 本当に? 自然界でも人間界でもメスに選ばれない俺ってどうなんだろう……孔雀にすら求愛されなかったんだ、俺。前を歩いていた同級生の女の子はされてたのに」
「まぁ、孔雀の綺麗なのはオスですからね……その子が女の子だったからですよ、大丈夫!」
「良かった、良かった……」
「良かったのか? それで本当に……ダニエル」
フレデリックが困惑気味に首を傾げ、ダニエルを見ていたが絆創膏を取り出して「これ、あとで俺の首の裏に張って貰えないかな? 思いっきり抉られたんだ、爪で」と言ってきたので笑顔で頷く。役に立てることがあって良かった。確かに首の後ろは張りにくい。フレデリックといくつか世間話をしていると、ふいにダニエルが私の袖を引っ張った。
「怪我はしてないけど慰めて欲しい。メイベル……」
「ごっ、ごめんなさい。私ったらつい……」
「メイベルちゃーんっ! ただいまーっ!」
「わっ、マリエルさん! ノアも! おかえりなさい~」
「ただいま~、今そこでマリエルさんと一緒になって。ケーキ貰ったよ、食べる?」
「ケーキ! えっ!? なになに!?」
白いファーティペット付きの黒いコートを着たマリエルに抱き締められ、頬が緩む。ふわりと外の瑞々しい香りがした。雪と水が混ざったような香り。そこへ生クリームと苺の香りも混ざる。
「ほら、アレンから聞いたんだけど苺のミルフィーユが好きなんだって? あるよ、ここに一個。あっ、でもそう言えばダニエルさんもこれが好きで」
「いい。俺はいらない……この、ピスタチオのムースケーキが食べたい」
「私はプリンがいいな~、いっつもアレンに取られてるから!」
「っおい! クソババアア! プリンは俺のだあああああーっ!!」
「今揚げてるから! 今ファラフェル揚げてるからやめろって! 焦げる寸前だろ!?」
「っとと! くっそ! くっそ!!」
慌てているアレンを見て気の毒になってしまう。白い箱の中にちょこんと入っているプリンを見つめて落ち込んでいると、マリエルが困ったように笑って「大丈夫よ、メイベルちゃん。今のはあの子への嫌がらせだからね? 残しておくわ」と言って肩を叩いてきた。そして、おもむろに頬に両手を添えてちゅっと、目蓋にキスをしてくれる。
「あっ、可愛い。メイベルちゃん、顔が真っ赤だ~」
「の、ノア……私、その、マリエルさんが憧れのお姉さんだからつい……」
「いいなぁ~、俺もキスしたい。可愛い~」
「殴り殺すわよ、フレデリック。自重しなさいな。それとも去勢して欲しい?」
「俺にとってのご褒美です、それ……ちゃんと愛した上で去勢して欲しいけど!!」
「やかましい! そこのパン屋!! 気が散るだろうが、黙って座っとけ!!」
「アレン、もう俺がやるからそれ、かして? あっつ! あっつつつ!」
「ほれみろ、お前のせいで油が飛んだじゃねーか!! さっさと去勢でも何でもされて死ねっ!!」
「も~、またアレンったら、そんなことばっかり言って……」
わいわいと賑やかな中で、白い箱を覗き込んでケーキを選ぶ。宝石のように艶々と輝いている苺につるりんとした緑色のピスタチオムース、滑らかに折り重なったオペラにモンブラン、檸檬と生クリームのシフォンケーキ。そのどれもがきらきらと輝いていて目に眩しい。
幸福な気持ちで眺めていると、ノアが子供のように笑った。
「メイベルちゃん、いっつもそんな顔してるよね? 美味しそう~、どれにする?」
「えっ、えーっとじゃあ、檸檬のやつにしようかな……」
「俺はいらないから、いち、苺のミルフィーユ……お食べ……」
「わぁっ! いいんですか!? ありがとうございます、ダニエルさん! ふふっ、ダニエルさんも何だか私のお母さんみたい……」
「俺もお母さん……お母さん。アレンじゃなくて俺もお母さん……」
「じゃあ私は檸檬にしよっかな~、ステーキ食べてきたところだからさっぱりしたい~」
それぞれケーキを選んで冷蔵庫にしまい、テーブルに座る。むっつりと不貞腐れた顔のアレンが用意してくれたのはひよこ豆を一晩水に浸して戻し、それを潰して衣を付けて丸く揚げたファラフェル。私が好きなコーンクリームスープにカボチャと胡桃のサラダ、バケットに豚肉と林檎のソテー。それらをじっと眺め、フレデリックが呟く。
「分かったぞ。これは……アレンが作ったものだな!? メイベルちゃんの好物ばっか並んでる……」
「お前の目は蜘蛛の目なのか? 俺が作ったに決まっているだろうが!! さっきまで一体何を見ていたんだよ!?」
「ケーキ。あとマリエルさんとメイベルちゃんの顔。野郎は基本的に視界には入れたくない!」
「うるせーよ!! 食うな、もう! お前は!」
「それじゃあ食べよっか~、かんぱーい」
「「かんぱーい」」
爽やかな笑顔のヘンリーが言い争う二人を無視して、林檎のスパークリングジュースが入ったグラスを持ち上げる。それに合わせて持ち上げ、口に含むとふわっと林檎の甘い香りが漂った。美味しい……。
「アレンがね、買ってきてくれたものなの。ありがとう、アレン……冬になると飲みたくなるよね、こういうの……」
「しつこくないか? アレン。お前……」
「何が? 言っとくが今日の晩飯が豪華なのはそいつがべそべそ泣いてたからだ。ホームシックなんだとよ、マリエル。ノア。慰めてやれ」
「あーら、言われなくてもそうするわよ。大丈夫? メイベルちゃん。たまには実家に帰る?」
「うっ、うーん……マリエルさんの隣にいたいから大丈夫です……わっ」
「可愛い~! 癒される~! 私の分のファラフェル、食べる? さっきお客さんとご飯食べてきたからもういいの~」
「おい。折角用意してやったのに……俺の労力を返せよ、クソババア」
小さなファラフェルを口に入れると、さっくりと崩れ落ちた。ほくほくとしたひよこ豆は黒胡椒と塩が効いていて、パセリや玉葱の香りがふんわりと漂う。きつね色になるまで揚げた衣と濃厚なソースがよく合っている。それをレタスと一緒にバケットに挟んで食べ、合間にまろやかなコーンクリームスープを飲むと、あっという間にホームシックが吹き飛んでいった。スープの熱さがじんわりと舌を温め、胃に広がってゆく。
「ありがとう、アレン。本当にうれし……」
「あーっ!? お前っ、今っ、ヘンリー!? 取っただろ、俺のファラフェル!」
「いいじゃんか、別に!! 手伝ったんだからさ!? これぐらい許せよ、アレン!」
「許さん! ぜったいに許さん! 返せっ! お前には豆の一粒もやらん!!」
「メイベルにはやるくせに! メイベルにはやるくせにいいいいっ!」
「うるせーっ! スイッチ押すぞ!? いいのか!? 本当にいいのか!?」
ぎゃあぎゃあと言い争う二人の横でフレデリックが溜め息を吐き、苦笑した。淀みない仕草でファラフェルを口へと運んでいる。
「うるさいなぁ、二人とも……あーあ、いつまでそうやってガキ臭く騒ぐつもりなんだか。まぁ、懐かしいけどなぁ~、俺にもそんな時があったような気がする……」
「ね、うるさいよね。俺は小学生の時からそんな感じじゃなかったけど……メイベルちゃん? ケーキもあるから食べ過ぎないようにね~」
「はーい、ありがとう。ノア……」
「メイベル、ここ、ソースついてる……」
「へっ? どこですか? ダニエルさん」
隣に座ったダニエルがおろおろした後、そっとぎこちなく親指で拭ってくれる。しかし、その指先に付いたソースを見て何故か崩れ落ち、めそめそと泣き始めた。左横のマリエルがふんと鼻を鳴らして「慣れないことをするからよ、もう」と呟く。ひとまずは「ありがとうございます」と声をかけ、その顔を覗き込んでみたが嫌がられてしまった。ぶんぶんと黒髪頭を振っている。
「放っておいたら? メイベルちゃん。ダニエルさんはいっつもそんな感じでしょ」
「でも、ノア……」
「いいから食え。まだフライパンにお代わりがあるからな、食え」
「ありがとう、お母さん……アレン」
「だからやめろって! それ! せめてお兄ちゃんって呼んで欲しい……」
「お兄ちゃんって呼ばれたいんだ、へー……」
「へー……」
「うるせぇよ、ノアもヘンリーも。いちいち絡んでくるなよ、お前ら……」
楽しくご飯を食べてカードゲームをして、帰ってきたハリーとシェヘラザードと一緒にケーキを食べる。昨日は弟からの電話で淋しくなっちゃったけど、みんなでこうして喋っているとその淋しさも薄れてゆくような気がする。
ふと視線を感じて顔を上げてみると、アレンが少しだけ淋しそうな顔をしていた。「良かったな」と言っているようにも見えるけど、あれは多分、亡くなった弟さんの顔を思い浮かべているんだろう。
(うーん、いくつの時に亡くしたんだろ……流石に聞けないし、あれから何も言ってこないなぁ~)
初めてアレンの個人的な部分、柔らかくて脆い部分に触れることが出来たと思ったんだけど。そう考えつつ、ノアとマリエルとシェヘラザードに誘われたので温泉に行く。疲れきったハリーがよれよれと付いてこようとしたけど、笑顔のヘンリーと真顔のアレンがそれぞれ、腕をがしっと掴んで止めていた。助かる……。
「おやすみなさい、メイベルちゃん。また明日~」
「はい、おやすみなさい。マリエルさん。また明日~」
「ちょっとメイベルちゃん、寝る前にいつもの儀式を……」
「じゃあアレンの代わりに、たまには俺が踏んで……」
「やめろおおおっ! やめてくれようううっ!! フレデリックさんまでアレンの真似っこをする! やだ! やだ!」
「俺だって嫌だよ、足先踏むの。女性に踏まれたいタイプなのに……」
「おい、そこ! 不毛な会話をしてないでさっさと寝ろ! 鬱陶しい変態どもめ!!」
ばたんとドアが閉まって、いつもの静寂が訪れる。思わず一人で微笑んでしまった。
「おやすみなさい、また明日!」
もうホームシックになったりなんかしない。大丈夫だ、一枚壁を隔てたところにみんながいるから。ゆるゆると眠気に誘われて両目を閉じる。良い夢が見たいな、今夜は。とびっきりの良い夢を。
思い出すのは母の険しい顔。手を伸ばしてこちらの肩を掴み、口を開いた。
「いい? そんなことをしている暇があったら勉強しなさい。あんたまでお姉ちゃんみたいになるつもりじゃないでしょうね? 大体ね、○○さんのところの子はこの間──……」
どんなに頑張っても認めては貰えなかった。俺より優秀な子供なんてどこにでも転がってる。母と父はそれが許せなかったようで「勉強しなさい、遊びに行くな。そんなものをいじっていたら頭が悪くなるぞ」と言って、俺から魔術仕掛けのオモチャやカードゲームを取り上げた。
「いいわよね、あんたは。ちょっと遅くに生まれただけで可愛がって貰えて。お父さんもお母さんも、ハリーのことばっかり構って……」
厳しい両親に嫌気が差し、すっかり不良となってしまった姉も俺にきつく当たってきた。学校から家に帰ってくれば怒声と物が壊れる音が響き渡り、泣いて泣いて自分の部屋に閉じこもって勉強をした。
勉強して良い点数を取れば何とかなると思っていた。テストで良い点数を取ったら両親も喧嘩しなくなる、褒めてくれる。姉に期待することも無くなるんじゃないかって。
でも、それは大きな間違いだった。亀裂はますます深まり、厄介な家族問題を解決するよりもテスト問題を解く方が楽だと気が付いた。素晴らしい、問題にはあらかじめ答えが用意されている。丸暗記、もしくは理論に沿って解いていけばいい。夜中に教科書を持ち上げ、感動して震える。
「ああ、すごいなぁ~……教科書の問題には全部全部、答えが用意されているんだなぁ~……はは、お父さんとお母さんが喧嘩しなくなる方法でも、書いててくれたらいいのに……」
そんなことを学校で教えてくれたらいいのに。姉のことも何もかも。惨めな気持ちで泣いて泣いて、ひたすら勉強して良い点数を取り続けた。友達には嫉妬され、近所のおばさんにもちくちくと嫌味を言われた。
それでも黙ってひたすら勉強をする。お父さんとお母さんが言うような良い高校と大学に入れば、もう少し楽になるんじゃないかって。でも、それは大きな間違いだった。いきなり妊娠して結婚して、家を出て行ってた姉が帰ってきた。夜遅くに幼い子供と手を繋いで、玄関のドアを叩く。
昔とはまるで様子が違っていて、ぼろぼろのニットとスカートを履いていた。二十代の筈なのに四十代ぐらいに見える。子供も膨れっ面で黙り込んでいた。
「ねぇ、お母さん。私」
「もうあんたはうちの子じゃないから。出てって!」
「お願い、私今、旦那からDVを受けていて……」
「自業自得だろ!? そんな奴にやる金は無い、今すぐ出て行け!! さぁ、早く!」
父と母は姉を容赦なく拒絶した。泣く姉を家から追い出した後、夜中まで勉強していた俺を見てにっこりと笑う。
「ああ、ハリー。偉いわね、でもあんまり根を詰めすぎちゃ駄目よ? 回り回って効率が悪いからね……」
「お前はあんな風になるなよ、ハリー。今、頑張っていたら将来が楽になるからな? あいつもあいつで、俺達の言うことをちゃんと聞かなかったから……」
ああ、そうか。両親が欲しいのは「名門大学に合格した優秀な息子」なんだ。どうしよう、今回も合格しなかったら。恐ろしくて恐ろしくてひたすらに勉強した。
俺の甥っ子であろう子供が泣き叫ぶ声と、姉さんの「ごめんなさい、ごめんなさい! お母さん! ちょっとでもいいから助けて欲しいの……」という悲痛な叫び声が鼓膜から離れなかった。
ショックだった、助けられなかったことも両親が姉を容赦なく見捨てたことも。だが、それと同時に俺もいつかあんな風に捨てられるかもしれないという恐怖が染み付いた。
どんなに頑張っても認められない。今の会社に入った時、ようやく両親が泣いて喜んでくれた。全力で俺の頭を撫で、初めてまともに抱き締めてくれた。
「えらい! よく頑張ってきたね、ハリー! 今までよく……」
「えらいぞ、ハリー! 今夜はどっか良い店にでも飯を食いに行くか! 流石は俺の息子だよ……ああ、そうだ。じいちゃんとばあちゃんにも報告しような。きっと────……」
涙が出るほど嬉しかった。でもみんな、無神経に「そんな会社はやめた方がいい」と口を揃えて言う。出来る訳が無い、どんなに頑張っても認めて貰えなかったのに、あの時だけは認めて貰えたんだ────……。
夜遅く、喉が渇いて起きてきたらソファーでハリーがうなされていた。どうしてここいるんだろう……。兎とハート柄のパジャマを着たハリーがうーんと唸って、苦しそうに寝返りを打つ。マリエルのネグリジェに憧れて、白いネグリジェを着ているメイベルがこてんと首を傾げた。
(うっ、うーん……眠ってるけどこれは、起こした方がいいよね……?)
控えめにそっと肩を揺らしてみたが、一向に起きない。低く唸って「そのチーズは賞味期限切れだから、駄目だ……」と呟いている。一体、どんな夢を見ているんだろう?
「おーい? ハリー? それは夢だよ、夢だから起きてー……?」
「うっ、ううーん……めい、メイベル? ああ、びっくりした。母さんかと思った……」
「ごめんね、お母さんじゃなくって……どうしてここで寝てるの? 部屋に戻って寝たんじゃ……?」
ハリーがのそのそと起き上がり、不思議そうな顔で首を傾げる。どうやら自分でもよく分からないらしい。「脱サラして、チーズ職人になる夢を見ていたんだけどな……」と呟く。
「チーズ職人……うなされてたけど、それで?」
「うーん、俺。本当はチーズに関わる仕事に就きたかったんだよね……それで」
「あっ、そうなんだね……私も好き、チーズ。美味しいよね!」
「メイベルちゃんはさ、今の仕事に就くの反対されなかった? ほら、給料も安いしさ……」
「されなかったよ? お前が好きな仕事をするのが一番だって、お父さんもお母さんもそう言ってくれて」
「そっか。……そっか。いいなぁ、それは」
ハリーがぼそりと呟く。ああ、またこんな雰囲気になってしまった……。私はお母さんとお父さんに愛されて育ったから、時折こうして誰かに嫉妬されてしまう。でも、私だって頑張ってきたのに。ちゃんと優しい良い子であろうって。そんな言葉と苦しみをぐっと飲み込み、ハリーの茶髪頭を撫でる。
「どうしたの? ……何か辛いことでも思い出したの?」
「辛いこと……辛いことなのかな、あれは」
「ん? 言ってみて? 吐き出したらすっきりするかもしれないよ?」
「褒めて欲しくて……両親に。どんなに頑張っても俺は、一向に認めて貰えなかったから……」
そうだったのか。もしかしたらその反動でマリエルに踏んで欲しくなったのかもしれない。きっと彼は、歪んだストレス解消方法を覚えてしまったんだ。
「そっか……じゃあ私に踏んで欲しがるのもそれがきっかけで、」
「いや? まともに育ってもそうなったと思う……俺は痛いのが好きなんじゃなくて、マリエルさんに蔑むような笑顔でぎゅっと踏みつけられるのが好き。あとメイベルちゃんが頑張らなきゃ! 頑張って踏まなきゃ! えい! って感じの顔で踏んでくれるから好き。可愛い。君からの愛と共に、痛みを感じてすっと苦しみが和らいでいくんだ……」
「そっ、そうなんだね……踏むことでええっと、ハリーが楽になるのなら良かった……」
「うん……」
そこで黙り込んでしまう。でも、大丈夫なのかな? 吐き出さなくていいんだろうか、色々と。それに明日だって仕事があるんだろうし……。ソファーに座ったハリーがぎゅっと、おもむろに自分の拳を握り締めた。
「俺、こんな年にもなって何言ってるんだって感じだけど。あー……小学生の時に。テストで百点取ったの褒めて欲しかったなって」
「えっ!? 褒めて貰えなかったの!? 何で!? 酷い!」
「酷いのかな……とにかく、俺の両親は何をしても褒めてくれなくってさ」
どれだけ何をやっても認めて貰えなくて苦しい。次はこれをしたら褒めて貰えるかなと思って動いても、返ってきたのは「あんまり褒めると思い上がっちゃうから、この子は」という言葉だった。母が笑って俺の頭を軽く殴り、また近所のおばさんと笑って喋る。そうか、褒めて貰えないのか。
こんだけ頑張ったのに?
虚しい気持ちで母のエプロンの裾を握り締め、俯いていた。何をどれだけ頑張ってもきっと、それが当たり前なんだろうなって。ここが真夜中の暗いリビングだからか、するするとそんな弱音が滑り落ちていった。過去の鈍痛が蘇り、喉を嗄らしてゆく。
「だから俺、今更会社とかやめれない……きっと俺も姉ちゃんのように見捨てられる。だから」
「っそんなこと、ないよって言いたいけど……」
メイベルがいきなり俺の手を握り締め、泣き出した。どうしよう、アレンが来たら怖いな。最近は気が付くとふっと後ろに立っているから。きょろきょろと真っ暗闇の中で首を動かしてみたが、俺とメイベル以外誰もいない。カーテンの陰にひっそりと隠れて、こちらをじっと睨みつけてたら知らないけど。
「あー、メイベル? もう昔の話だし別に、」
「でも、ずっと引っかかってるんじゃない? だからさっきもそうやってうなされてた……ハリーじゃなくても誰でも認めて欲しいでしょう? 違う?」
涙声で尋ねられ、胸の奥が詰まった。でも、今更どうなる? それを言ったところで何も変わらないのに? それなのにメイベルはぐすぐすと泣きながら、床に座り込んで俺の両手を握り締める。すごいな、たかだかこんなことで真剣に泣けるなんて。良い子なんだろうな、本当に。
「メイベルちゃん、俺は……」
「私だったら褒めて欲しいよ、ハリー。お姉さんのことだって……あんな風に追い返して欲しくなかったなって思う。そうじゃない? だってその子、ハリーの甥っ子でお孫さんなのに……」
ああ、聞きたくなかったかも。その言葉は。
(すごいな、優しい子の言葉って。たまにすごく胸に突き刺さるから……)
それまで何とか引っ込めていた涙がにじり寄ってきて、目に熱い涙が浮かんでくる。泣くな、俺。メイベルにつられて泣いてどうするんだよ、本当に。それなのにメイベルは俺の膝に縋って、柔らかな手でぎゅっと,俺の両手を握り締めてきた。
ああ、何でだろう。どうして、たかだかそんなことでそこまで感情移入が出来るんだろう。
「よく頑張ったねって褒めて欲しいよ……ずっと残るよ、それは」
「メイベル、俺は」
「ごめんね、ハリー……私、関係ないのに泣いたりなんかして。ごめんね、勝手に同情して鬱陶しく泣いたりなんかして……」
華奢な背中が震えていた。あれかな、もしかしたら以前にそう言われたことがあるのかな。メイベルにしては珍しく攻撃的な言葉が並んでいる。その震える背中を擦って、首を横に振った。
「いいや……ありがとう、メイベルちゃん。俺の代わりに泣いてくれて……俺はもう泣けないから」
「私、嫌だ。ハリーのお父さんとお母さんが嫌だ……!! 嫌い。だってそのせいでハリーが苦しんでいるから。だって私がここでどんなに泣いて励ましても、届かないんだもん……意味が無いんだもん、やだ!」
ああ、聡い子だなと思った。俺が鬱陶しがっているのが分かったんだろうか。ごくりと唾を飲み込み、彼女の頭を優しく撫でる。せめてこれぐらいはしておきたい、自分が優しい人間じゃないっていうのはよく分かっているから。
「メイベルちゃん、もういいんだよ。昔の話だし……同情するのなら踏んで欲しい、俺のことを」
「うっ、うん。それはまた後で踏むけど……でも、認めて欲しかったよね。ハリー……褒めて欲しかったよね……」
やめて欲しい、言い当てるのは。みっともなく泣き出してしまいそうだから。メイベルが無理をして笑顔を作って、泣きながらこちらを見上げてくる。気を使ってくれているんだろうな、申し訳ない。
「だって、そうじゃない? ここで認めないときっと、また後で苦しくなっちゃうよ……私は嫌だな、ハリーがさっきみたいにうなされるの。だってどんなに頑張ってもちゃんと褒めてくれないだなんて、」
「もういいから。もういいから、そういうのは……」
ああ、駄目だ。とうとう泣いてしまった。そうだ、認めて欲しかったんだ。何かをしてなくても失敗してもテストで悪い点を取っても、何をしていても褒めて欲しかった。せめて頑張った時ぐらい、褒めて欲しかったんだよ。全力で。
べそべそと泣いていると、メイベルが俺のことを抱き締めてくれた。ああ、やっぱり優しい良い子だ。俺だったら眠たいし嫌なのに、こういったことは。
「メイベル、ごめん、俺……」
「いいよ、泣いて。辛かったよね、認めて欲しかったよね……」
「うん、うん……ごめん、メイベルちゃん。俺、ごめん……」
「大丈夫、いいよ。辛かったよね、お父さんとお母さんによくやった! ハリー! ってちゃんと褒めて欲しかったよね……」
ああ、どうしてメイベルが号泣しているんだろう。それにつられて俺も泣いてしまう。そうだ、褒めて欲しかったんだ。言ってもどうしようもないことだから、完全に諦めてたけど。でも、どこかで両親のことを酷く恨んでいる。何でそんな風に褒めてくれなかったんだろうって。
「メイベル……ごめん。俺の鼻水べったりついてない……?」
「だい、大丈夫……私もハリーの膝につけちゃったかも。ごめんね……?」
これがアレンならしつこく嫌がらせをするけど。可愛い女の子がつけた鼻水なら大丈夫。洗えばいいし、洗濯機で。
「大丈夫だよ、メイベルちゃん。後で俺のことを踏んでくれたらそれで!」
「わっ、分かった! 今踏むね!? お詫びに! よしっ」
「うっ、可愛い……ありがとう!!」
物凄く使命感に満ちた顔でスリッパを持ち上げ、俺の爪先をぎゅっと踏んでくれた。良かった。でも俺は貝殻を履いていた筈なんだが、何故か裸足だった……。
「いや、貝殻って持ってたっけ? おかしいな……」
「貝殻は持ってないと思うよ? 疲れているみたいだから部屋まで送って行くね? さぁ、立ち上がってくれる?」
「ああ、うん。でも、俺のスリッパどこだろう……ヘアゴム借してくれない? メイベル。結ばなきゃ、俺の髪」
「スリッパなら貸してあげるよ、はいどうぞ。あとね、ハリーの髪は短いからね? 結ばなくても大丈夫だよ?」
「そうか、ありがとう。教えてくれて……」
メイベルがそれまで履いていた温かいスリッパを履くと、一瞬、ここがどこだかよく分からなくなってしまった。でもメイベルが涙を拭いて、「大丈夫だよ~、これからはまた一緒にどんどん楽しいことをしようね~」と言ってくれたので正気に戻る。
「っは! そうだ、俺……!! 女装男装、古き良き仮装祭りに行きたいんだった……!!」
「ああ、あれ? 女の人が騎士に変装したりして……おじさんがアンティークのドレスを着たりするやつ?」
「そう。俺の両親がそんな馬鹿騒ぎに参加するなって言って、参加出来なかったんだよ……」
「参加したいんだね……いいよ、行こうよ! アレンも誘って行こうよ~。みんなでお祭りに行こ~、わ~、楽しみ~!」
とんとんとんと、メイベルが暗い階段を上がって笑う。その優しげな栗色の瞳を見て、それまであった胸のつかえが取れた。そうか、認めて泣くだけでも楽になるのか。今度からはそうしようっと。
「うん。メイベルちゃんお得意の、カニ技でお願いします……!!」
「ええっと、じっとアレンのことを見つめるやつかな……頑張ってみるね! 明日! でもアレンは最近、二秒見てるだけで何でもしてくれるからなぁ~……大丈夫だと思う! きっと!」




