12.温泉でのワニ泳ぎと優しいジンジャークッキー
「メイベルちゃんに頭を洗って貰いたい、俺……」
「すっかり味を占めやがって……お前が俺に隠れてこそこそとハリーの頭を洗うからだぞ、メイベル!」
アレンがそれまで読んでいた雑誌をぎゅうっと握り締め、こちらを睨みつけてくる。ちょうどマリエルから貰った苺チョコドーナッツを食べていたところなので咳き込むと、隣に座っていたシェヘラザードが背を擦ってくれた。落ち着いてからお礼を言い、アレンを見てみるとちょっとだけ嫌そうな顔をしている。でもあれは、心配している時の顔だ。
「ごっ、ごめんなさい。ハリーが辛そうだったから洗ってあげたくって……」
「ハリー、てめえ。頭ぐらい自分で洗ってこい、こら」
「うえっ……痛い。これはマリエルさんにやって貰ったら嬉しいやつ……!!」
「だっ、駄目だから……アレン。ハリーを蹴っちゃ」
ぐったりとソファーで寝そべっているハリーのお尻を、げしげしとアレンが蹴りつけている。止めようと思って立ち上がると、白いバスローブ姿のヘンリーが苦笑して止めに入った。
「ほーら、アレン。メイベルちゃんが座ってドーナッツ食べれないだろー? 疲れてんのに可哀想だろー?」
「それもそうか。やめるか……」
「えっ? やめんの……?」
「次はお前を蹴ってやろうか、ヘンリー?」
「いらない。でも、やめるんだ……?」
「っいよし!! 今からプロレスごっこをしようぜ! お前がこてんぱんに負ける悪役な!!」
「うわーっ!? ちょっ! やめろってアレン! 俺、今この牛乳と一緒にドーナッツを食べようと思ってたとこなのに!?」
アレンが雑誌を置いてヘンリーを追いかけ、そのヘンリーが牛乳入りのマグカップをテーブルに置いたところでプロレスごっこが始まった。アレンがヘンリーのお腹に手を回して「おいおいっ!? そりゃ無いだろ!? 卑怯だぞ、ヘンリー!」と叫び、黒髪頭を掴んでいたヘンリーが「卑怯じゃないでーすっ! あっ!? 魔術を使うのは反則だろ!?」と言って遊び始める。微笑ましい……可愛い。
「メイベル……ハリーよりも俺の頭を洗って欲しい」
「ダニエルさん。いいですよ、別に。アレンが怒っちゃうから今の内に移動して洗いましょうか!」
「おいっ! 聞こえてんぞ!? メイベル!? 大体な、お前はな!?」
「隙ありいいいいいっ! そいっ!」
「ちょっ!? やめろ、擽んなって! このお貴族様め!!」
あっ、スイッチを押してしまった。固まっていると、ヘンリーがすっとアレンから手を離して真顔となる。
「そもそもの話だ。この現代において貴族という腐った蛆虫どもは必要なのか? 絶対絶対必要無いだろ!? 誰だ!? あんな気持ち悪い家名と金のことしか考えないクズカスどもを生み出した奴等は!! 貴族という腐った虫けらどもを生み出した奴のケツにダイナマイトをぶち込んで爆発させたい!! 速攻死刑にすべきだ、そんな奴は!!」
「あ~、疲れた。メイベル、ドーナッツ残ってるか? 食いたい、俺も」
「残ってるよ~、アレン。はいどうぞ」
ヘンリーが爆発しちゃうのはいつものことなので、そっとしておく。彼は床に拳を叩きつけ、「あの馬糞よりも劣る気色の悪い連中め!!」と叫んで震えていた。心配だがそっとしておくと、数分ぐらいでいつもの素敵なヘンリーに戻るのでそっとしておく。アレンが溜め息を吐いて雑誌をのけ、隣へと座った。
しっとりとしたチョコ生地に甘酸っぱい苺グレーズがかかったドーナッツを手渡すと、それを齧って溜め息を吐く。
「あ~、うまい。んで? このドーナッツを寄こしてきた当の……マリエルは?」
「疲れて寝ちゃった。私のために買ってきてくれたんだって、これ……嬉しい」
「へ~、まぁ良かったな。でもお前、ドーナッツならシンプルなやつが好きじゃん? こってりしてるの苦手だろ? 大丈夫か?」
「ん……魔術師がぜんぶ把握しててこわい……」
「シェラ、アレンはね。記憶力がとっても良いんです。だから」
振り返って笑いかけてみると、解せないという顔をして眉を顰めていた。シェヘラザードは豊かな黒髪を下ろし、もそもそとドーナッツを食べつつその欠片を白いシャツパジャマへ落としている。紺色のパイピングがオシャレだ。彼女のミステリアスな雰囲気によく合っている。そうやって和やかに食べていると、少し離れた所に座っているダニエルが話しかけてきた。
「アレンは……俺がピーマン嫌いだってことを覚えてない……前に口の中に突っ込んできた……」
「お前がこっそりゴミ箱に捨てようとするからだろ、もったいない」
「あれ……ダニエルさん、ピーマンが苦手だったんですね? ごめんなさい、私、そうとは知らずに使ってたかも……今度からは使わないようにしますね?」
「甘やかさなくていいから、こんな赤カビ大量生産機なんか」
「メイベルの作ってくれたものなら俺、何でも食べる……」
一口齧ると、ほろりとチョコ生地が崩れ落ちてゆく。苺グレーズもしゃりしゃりとしていて甘酸っぱい。確かに素朴な味わいの胡桃ドーナッツとか、シナモン系とかが好きだけど。甘さ控えめで美味しい。
「はっ……俺、マリモをちゃんと中にしまったっけ? どうしよう。子猫に食われてしまうな……」
「夢だ、ハリー。それは。ヘンリーもそこで蹲ってないでいいからさっさとこっちに来い。残り三個だぞ、ドーナッツ」
「ふぁっ、どうしよう……私、みんなの分を考えないで食べてたかも……」
「いい。あいつがお前にやったもんなんだから。俺一個でいいし、別に」
「ん……メイベルが好きに食べるといい。あたしもいらない、これで満足」
「ありがとう、シェラ……」
じーんと感動しつつ食べていると、くたびれた顔のヘンリーがやって来た。ダークブラウンの髪を掻き上げて牛乳を一気飲みし、がんとマグカップを置く。白いバスローブ姿なのがちょっと不思議だ。
「知っているぞ、アレン。俺。照れ隠しだろ、あれ……」
「あん? 何が? ほい、ドーナッツ。食うぞ、俺が全部」
「嫌だ、食べる……ダニエルさんは? 食べました?」
「食べた……さっきメイベルにあーんして貰った……」
「いいなぁ、いいなぁ、俺もあーんして欲しいなああああああ~……」
「黙れ、地下から蘇った亡者どもめ。んで? ハリー。頭なら俺が優しく丁寧に洗ってやるぞ?」
「絶対に嘘だ、それ……」
着替える気力が無いのか、紺色ストライプのスーツに皺を寄せながら起き上がった。大丈夫なのかな、明日……。ハリーが血走った茶色い瞳をぐるんとこちらに向け、笑う。
「メイベルちゃん……申し訳ないけどお願い出来るかな……アレンにいじめられそうで、俺」
「だからメイベルに甘えんなっつってんだろうが! ったく、メイベル? お前、せっかく俺が心配してやってんのにこそこそこそこそと、陰で洗いやがって……!!」
「ごっ、ごめんなさい。お母さん……いや、アレン」
「っぶ! 何で間違えたんだ? メイベルちゃん。今の」
ヘンリーが吹き出して笑う。でも、今のは私が学生時代に子猫を拾ってきて、こそこそと陰でお世話していたことを知った時の母の顔にそっくりだったから。口調も仕草も。
「ごめんなさい、その……私が子猫のお世話をしていた時にそっくりだったから。今の顔」
「あ? 母さんに似てるってことか? ……んで、その猫はどうなったんだ?」
「ふふっ、私の飼い猫になって今はダイエット中……多分ソファーで寝てると思う、今頃」
「へー、種類なに? 俺も飼ってんぞ、猫。実家で」
「えっ!? いいな、会いに行きたいな……!!」
そこでアレンと猫ちゃんあるある話で盛り上がっていたら、おもむろにダニエルとヘンリーとハリーが立ち上がって宣言をする。
「そんじゃあ! 水着に着替えて集合な! 今から温泉に入って遊ぼうぜ!!」
「は? ヘンリー、お前、何を一体急に言って……」
「温泉に入って遊ぶ、温泉に入って遊ぶ……」
「ほらっ! ダニエルさんも頭洗う気になってるし!? ハリーとまとめて洗っちゃおうぜ、もう!」
「いや、俺はここでメイベルと猫の話をしてた、」
「ひゃっほーい! 行こうぜ、楽しいなあああああ! なっ!? なっ!?」
「ぐえっ、ちょっ、ハリー。首が絞まるってもう……」
ピンクと黄色のトロピカルなワンピース水着に着替えて、ドアを開けてみると何故かハリーとアレンが静かに睨み合っていた。その横でダニエルが膝を抱え、「やっぱり入りたくない……やっぱり入りたくない……」と呟いている。
「あの……どうしたの? 入らないの?」
「あ~、メイベルちゃん。気にしなくていいからね、別に。シェヘラザードさんも入ってるし先に行こっか、温泉。この二人、仲が超悪いんだよね……」
「この変態ドM社畜が悪いんだ。訳の分からねぇことでぐだぐだぐだと、俺に絡んできやがって……」
「社畜は何も悪くないもーん、会社が悪いんだもーん。いつかクソ上司の愛犬に毒を盛ってやるんだぁ……」
「いきなり本気の闇を出すのやめろ、お前。反応に困るだろうが!!」
そこでまた揉め始めたので、ヘンリーが苦笑して「まぁまぁ、入ろうね~。あいつらは放置しとこうね~」と言って私の背中を押す。ダニエルが心配になって振り返ってみると、おもむろに黒縁眼鏡を置いてよろよろとこちらへやって来た。良かった。ただ、水着姿なので落ち着かない気持ちとなって前を向く。
「あっ、シェラ。ワニさん泳ぎしてる、いいな~」
「メイベルも早く来るといい……楽しいよ、ワニさん泳ぎ」
「行きまーすっ! 楽しみ~、でもダニエルさんの頭を先に洗って」
「えっ? 俺が洗うから大丈夫だけど、」
「メイベルに洗って貰う、アレンとハリーが言い争っている内に……!!」
いつになく俊敏な動きでさかさかとやって来て、さっとお風呂の椅子に座って大人しくする。そのことに感動して震えてしまった。いつもなら嫌がって嫌がって、ヘンリーの顔を引っ掻いて逃げてるのに……。
「じゃあまずはお湯をかけますね~、目をつむっててくださーい」
「はーい……」
「じゃあ任せちゃおうっかな~。あ~あ、アレンとハリーが酷いことになってるな……止めてくるか、一応」
ダニエルの黒髪にお湯をかけ、手でシャンプーを軽く泡立ててから頭皮にすりこんでゆく。ただ、それでも中々泡立たないのでお湯で流して、シャンプーを追加してと繰り返しているとやっと泡立ってきた。ジャスミンの甘い香りがふんわりと漂う。
「ねぇ、ダニエルさん? 髪の毛、切りに行かないんですか?」
「いつもはヘンリーが切ってくれてるけど、伸びてきたかな……」
「そうですね、そろそろ肩につきそうなので……伸ばしたいのなら別ですが。でもダニエルさん、顔立ちも綺麗に整っているし案外伸ばしたら似合いそうな、」
「じゃあ伸ばす……伸ばしてみようかな」
「是非そうしてみてください。あっ、そう言えばライ叔父さんも学生時代は伸ばしていたんですよ。知っていますか?」
「へー……知らなかった」
灰髪を短く刈り込んだらマフィアのようになってしまったので、急遽髪を伸ばして緩く結んでみたらしい。その結果、怖がられて逃げられることは無くなったがミュージシャン志望だと勘違いされるようになったみたいで。
「それでね、ライ叔父さんがね……」
「メイベルは本当にライさんのことが好きなんだな……俺も好きだよ、ライさんのことが」
「はい。昔から優しくしてくれるので……あっ、流しますね! シャンプー」
「ん……お願いします……」
ダニエルの髪を洗い流していると、ようやく仲直りしたのかむっつりと不貞腐れた顔のアレンとハリーがやって来た。アレンが私を見るなりうげっと嫌な顔をして、こちらへとやって来る。
「あのな? メイベル、お前な……」
「残念だったな、アレン……メイベルはもうすでに俺の頭を洗っている……」
「……洗えよ、自分で。頭ぐらい……」
「まっ、まぁまぁ。アレン……」
「ほらっ! アレン!? メイベルちゃんの代わりに俺の頭を洗ってくれないか!? さっきのお詫びに! てか誰でもいいから甘えたいっ! パパーっ!!」
「やめろ! 気持ち悪い……つーかハリーが俺に甘えるって相当重症だな……大丈夫か? 転職した方がいいんじゃないのか?」
やっぱりアレンは優しい。ぶつくさと文句を言いながらもハリーを椅子に座らせて、だばっとお湯をかけている。それを見て笑ってダニエルの黒髪を洗っていると、ぼそりと呟いた。
「メイベルは……最近仲が良いよね、アレンと」
「えっ? そうですか? 最近、何だかアレンが私のお母さんに見えてきて……」
「お母さん……」
「そう、いっつも心配してくれるし。この前もソファーでうたた寝してたら風邪引くぞって怒られました。お母さんなんですよ、私の。本人もそのつもりでいると思います!」
「いると思うよ、いると思う……娘が欲しいって言ってたし、アレン……」
「おい! そこっ! 何か妙な話をしていないか!?」
「してないよ~、大丈夫!」
「アレン。そこ、目だから俺の……洗わなくていいから、そこは」
部屋でシャワーを浴びてきたので、そのまま温泉に入る。マリンスポーツ用の水着に身を包んだシェヘラザードが黒髪を揺らして、すいすいと温泉の中を泳いでいた。背後のアレンが嫌そうに「髪の毛をくくれよ、シェラ……」とぼやいたので、彼女を呼び寄せて髪を結んであげる。
「は~……残業で疲れた体に染み渡る……」
「残業代は? 出てんの?」
「出てる……高収入だけど、金より休みが欲しい。稼いだ金を使う暇がない……」
「切実な悩みだな、ハリー……」
「俺も泳ぐ……メイベルと一緒に泳ぐ……」
すいすいと楽しく泳いでいると、虚ろな顔をしたダニエルがやってきた。温泉なので眼鏡を外している。綺麗な青い瞳だ。思わず近寄って覗き込み、その長い前髪を掻き上げる。
「やっぱり綺麗な青い目ですね、ダニエルさん。コンタクトレンズにすればいいのに……わっ!?」
「おい、メイベル。お前、ダニエルを沈めんなよ……何をしたんだよ? 一体」
「あれじゃないか? コンタクトレンズにしたくないんじゃないか? 俺も数年前から勧めてるんだけど、目が痛いから嫌だってずっと言っててさ」
「でも、ずっとつけてるとごろごろすんだろ。俺も今コンタクトレンズにしてるけどさ、やっぱり春先とかさ……」
お湯の表面にぶくぶくと泡が浮き出ている。大丈夫だろうか? 溺れないだろうか? 心配になって腕を伸ばしていると、どこからかシェヘラザードがやって来てその黒髪頭を掴んでざばっと引き上げる。虚ろな顔のダニエルが出てきた。それを見て、マンドラゴラを思い出したのは一体どうしてだろう。
「大丈夫? ダニエル……」
「ありがとう……シェラ。大丈夫だよ……」
「ごめんなさい、ダニエルさん。ダニエルさんは眼鏡派なのに……」
「いや……大丈夫だよ。でも、コンタクトレンズにしてみようかな……」
「でも、眼鏡に長髪っていうのも素敵ですよね。まぁ、ダニエルさんの好きな方で……あっ、シェラ。一緒に泳ぎませんか?」
「ん、泳ぐ。メイベル、背に乗る?」
「乗ってみる~、いいんですか?」
シェヘラザードの華奢な背中にしがみついて、楽しくすいすいと泳ぐ。ほ、本当に楽しい……。私達がそうやって遊んで泳いでいると、少し離れたところにいるアレン達がひそひそと小声で何かを話していた。何かはよく分からないが多分、いつもみたいに楽しいことだと思う。
「メイベル……俺の背にも乗って泳いでみるか?」
「えっ……それはちょっと」
「はいはーいっ! 俺がダニエルさんの背に乗って泳ぐううううっ!! 誰でもいいからべったり甘えたい気分ーっ!! せぇいやぁっ!」
「ぶっ……おもたっ……」
ダニエルがぐしゃりと潰されながらも困ったように笑い、そのまま虚ろな顔ですいすいと泳いでゆく。その様子を見てヘンリーがじっとアレンを見つめ、アレンが動揺して「なっ、何だよ? しないからな!? 俺は!」と叫んでいたが、無言の圧力に負けてヘンリーを背中に乗せて泳ぎ出す。ものすごく渋い顔をしていた。
「ふふっ、アレン。眉間の皺がすごいことになってるよー?」
「こいつが仲間外れにされたくないって言って、鬱陶しいから仕方なく……」
「だってメイベルちゃんはシェラと、ハリーはダニエルさんと楽しく泳いでるんだぞ!? 俺は!? 俺は!?」
「やかましい! 俺の耳元で叫ぶな!!」
「アレンアレン、確実にお前の方が声がでかいからな……?」
ひとしきり楽しく泳いだところで上がり、にこやかな笑顔のヘンリーが「じゃ、俺達は適当に体拭いて部屋に戻ってるから。ここで着替えてていいよー」と言ってくれたので着替える。服に着替えた後、洗面所にあったドライヤーでシェヘラザードの黒髪を乾かす。艶やかで弾力があった、羨ましい。
「綺麗ですね、シェラの髪の毛~。ふわっふわで羨ましいな……」
「でも、メイベルの髪の毛もさらつやで羨ましい……きれい」
「ありがとう……あっ、そうだ。ヘアオイルでも使います? これ、柘榴の良い香りで」
「使う。柘榴好き……」
シェヘラザードと香りの話で盛り上がり、ほわほわとした幸せな気分で降りると、廊下でヘンリー達と会ったので「おやすみなさい、また明日」といつもの挨拶を交わして部屋へと入る。すると、素敵な天蓋付きの寝台が私を出迎えてくれた。
無垢床の上には草花柄の絨毯、遠くに見えるはアレンが作ってくれた星が煌くカーテン、引き出しを開けると流れ星がしゅわりと流れてゆく魔術仕掛けのチェスト、貝殻の形をした小物入れに木製のメイクボックス。それらを見て心を弾ませ、にっこりと笑う。
(ああ、良かった。幸せ、楽しい……)
じんわりと穏やかな幸福を噛み締めていると、テーブルに置いてあった魔術手帳からお姫様が出てきて淡く発光する。そうだった、マナーモードにしてるんだった。
「はい、もしもし? ええっと、誰かな……」
「えっ? 誰か分からずに出たんだ? 姉さん」
「ウィル! どうしたの? 何かあったの?」
「何かあったのじゃないよ、姉さん……約束してたじゃん、今日。電話するって」
「あっ、ああ、そうだった。ごめんね……?」
ウィルフレッドに叱られて落ち込む。私が六歳の時にウィルフレッドが生まれたので、姉弟仲は良い方だと思う。それにウィルフレッドは全寮制の中学校を選んで行っちゃったし、私も私で家を離れて遊んでいることが多かったから。だからか少しだけ遠慮があって、弟は私のことを「姉さん」と呼ぶ。
「それで? どうなの? シェアハウスは? 上手くやってんの?」
「やってるよー、みんなね。良い人なの……すごく楽しい」
「まぁ、姉さんの良い人ってのは信用ならないから置いといて」
「えっ、酷い……ウィル」
「大丈夫? また変な男に付き纏われてない? しょっちゅうストーカーとか引っ付けて帰ってくるんだから、姉さんは……」
「だっ、大丈夫大丈夫、も~。ウィルもウィルでお父さんと同じ心配をするんだから……」
テーブルに肘を突いて魔術手帳を覗き込み、苦笑する。心配性だ、お父さんもウィルも。
「姉さんがぽやっとしてるからだろ? 大丈夫? 男に向かってそんなところが好きとか言ってない?」
「言ってないよ……大丈夫」
「姉さんは天然のタラシだってことにちゃんと気が付いてほしい。あと一緒に住んでる男ってどんなやつ? 心配なんだけど、俺……」
「え~……相変わらずだね、ウィルは……ええっと、大家さんのダニエルさんは繊細で優しい人なの。積極的にお皿洗いもしてくれるし……」
「ふぅん。叔父さんの友達か。姉さんと叔父さんが繊細な人って言うんだから、さぞかしネガティブで鬱陶しい人物なんだろうな……」
「アレンはいっつもそう言ってるかな……でも、優しくて良い人だよ。ちょっと繊細なだけで」
ウィルフレッドがわざとらしく「はーあ」と大きな溜め息を吐いて、何かをぱりっと破く。食べながら話すつもりらしい。
「んで? そのアレンってのは誰? 口が悪そうなんだけど?」
「最近はね、私のお母さんみたいなの! 私が好きだって言ってたお菓子を翌日に買ってきてくれるし」
「翌日……何で? わざわざ?」
「優しいから。あのね、仕事帰りによく行くスーパーとお菓子屋さんがあるんだって。そこで買ってきて、いっつもポケットにいれて私にくれるの……優しい人なんだ」
「……あと他には? 何してんの、そいつ。姉さんに対して」
何故か声が鋭くなる。そう言えば、ヘンリーも根掘り葉掘り聞いてきたな……アレンが私にハーブティーを淹れているのが衝撃的だったみたいで。
「あと? 他にはえーっと、毎週一緒に遊びに行ってる。食べ歩きが趣味で、私の好きなお店に連れてってくれるんだ。よく覚えているの、本当に……賢いから。家庭教師だし!」
「ふううううん……何歳? そいつ。外見は? どう?」
「外見は爽やかな感じの男の人で……笑顔も明るくって素敵だよ! あと年齢は二十七歳。私の二つ上で……」
「彼女は? いんの?」
「振られたんだって。忙しかったみたい」
「へえええええ~……父さんには言わないでおこうっと、うるさそうだし」
「だっ、大丈夫だよ……みんなも何か、そんな勘違いしてるみたいだけど……」
ウィルは知らないから、アレンが私を亡くした弟の代わりにしてるってことを。きっとアレンは年の離れた弟にそんなことがしてあげたくて(妄想だけどこの辺りは)、後悔しているんだ。
「違うの、本当に……確かにアレンは私のためにハーブティーも淹れてくれるし、ソファーに座る時はクッションを置いてくれるし、チェストとカーテンとネームプレートと小物入れとメイクボックスを作ってくれて、私が好きそうな催し物がやってたら一緒に行かないか? って声をかけてくれて車も出してくれるし、行きたいなって言ってた店を全部覚えてくれてて、連れて行ってくれるけど全然……恋愛とかの好きじゃないから……」
「そいつ何やってんの!? 好きじゃん! 絶対に姉さんのことが!!」
「ヘンリーもそう言ってたけど、違うの……」
「ヘンリーって誰? まだいんの? そんな男が?」
「貴族が嫌いで、赤ワインとか美術品の話をすると爆発する人」
「ごめん、ぜんっぜん分かんないや……姉さん。何だって? 貴族嫌い?」
そこで詳しく説明してみると、また呆れたように溜め息を吐いた。ウィルフレッドはまだもう少しアレンのことを私から聞き出したかったみたいだが、明日も仕事があるので電話を切る。
「そんじゃあ、姉さん。そいつも気が付いてないみたいだけど……絶対に好かれてるから気を付けた方がいいよ。じゃ、おやすみ。またそっちに遊びに行くね」
「あっ、うん……きてきて! じゃあね~、おやすみなさーい」
「んー、おやすみ。姉さん。また電話するよ、心配だから」
「はーい、お父さんとお母さんによろしく……」
「んー、じゃ」
「はーい……」
それまで淡く光っていた魔術手帳を閉じ、溜め息を吐く。急に冬の寒さを感じてぶるりと震えてしまった。淋しいな、何だか。
(ホームシック……かな? 馬鹿みたい、こんな年にもなって)
暗い部屋にいるのが淋しくなって、リビングへと降りる。誰かいるかなと思ったけど誰もいなかった。赤いチェック柄のパジャマの上から、白いニットカーディガンを着込んで溜め息を吐く。嫌だな、何か。もうここに来て半月以上経つのに。ホームシックだなんて。
「淋しいな、会いたいな……ウィルにお父さんとお母さんにも」
会いに行けばいいんだろうけど、そういうことじゃなくって。確かにここでの暮らしは楽しい。でも、家族とはまた違う。あの安らぎは手に入らない。言葉にして呟くと、寂しさが増した。暗いリビングに佇んでめそめそと泣いてると、ふいにドアが開く。振り返ってみると、ぎょっとした顔のアレンが立っていた。
「おっ、おいおい!? そこにいるのは誰だ!? メイベルか!? って何で泣いてんの!? お前!?」
「ごっ、ごめんなさい……急に何だか、ホームシックになっちゃって」
「ホームシックだああああああ? 今更だろ、お前。そんなの」
「うっ……だっ、だよね……でも、何だか泣けてきちゃって……」
「うぉいうぉい……泣くなよ、ほらもう」
「わっ、暖かい……」
アレンがそれまで羽織っていた黒いガウンをふわりとかけてくれる。でも、いいんだろうか? アレンもパジャマ姿なのに寒くないんだろうか。アレンが薄闇に浸された中で嫌そうな顔をしてから、私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でてくれる。
「キャラメルでも食うか? それともジンジャークッキー? 一応持ってんぞ、ほい」
「ありがとう……わざわざ。私のために」
「いや、入れっぱなしにしてるだけだから……昨日の分が残ってるだけで」
アレンがわさっと、私の両手に沢山のキャラメルとジンジャークッキーを乗せてくれた。真夜中だけどたまにはいっかと思って、さくほろのクッキーを齧って噛み締める。さくさくと、甘い砂糖が入ったジンジャークッキーが崩れ落ちた。その甘さにじんわりと舌先が熱くなって、涙が出てくる。
「ありっ、ありがとう。アレン……迷惑ばっかりかけてごめんね、私……」
「いい。俺が好きでやってることだから……それに、お前がその、馬鹿みたいな顔でお礼を言ってくれるからな。それでいいよ、もう」
「っふ、やっぱり素直じゃないね。アレンは……」
そこで困った顔をして優しい笑みを浮かべる。ああ、またそんな表情を浮かべて。私の向こうに誰かを見つけて笑っている時の顔。
アレンの後悔は深く、それが甘いキャラメルとジンジャークッキーとなって優しく私の手に降り注ぐ。私への優しさじゃない、そのことがちょっとだけ悲しい。アレンがおもむろに私の手からクッキーとキャラメルを取り上げ、先程くれたガウンのポケットに突っ込んだ。
「ほら、行くぞ。メイベル。それ全部やるから。帰って寝ろ。歯磨きもするんだぞ?」
「はい、お母さん……アレン」
「やめろ! 自然に俺をお母さんと呼ぶな!! あーあ、まったく。お前もお前で手がかかるなぁ……善人目変態科の女子め」
「違うもん、変人じゃないもん……」
アレンの温かい手を握り締め、家族のことを考える。大丈夫、きっとこのホームシックも明日になったら溶けて消えてる。アレンがくれた、ジンジャークッキーとキャラメルの包み紙と共に。




