〇第三話 慟哭海峡の動乱・序
序破急の三篇になります。
戦争とは、仕掛ける側と仕掛けられた側がいて成立するものである。
仕掛ける側が悪いのか、それとも仕掛けられた側が悪いのか。
ものの数秒で決着を見そうなこのテーマは、その実人類史始まって以降決着が見られない、未決のテーマである。
しかし。その中で敢えて決定的悪者を挙げるのだとすれば、それは。
―その戦争によって恩恵を貪ろうとする者ではないだろうか。
-1-
ケインがルシエ宅に居候し始めて、早二週間あまり。
彼女の生活は、良い意味で劇的な変化を見せていた。
部屋という部屋は綺麗に掃除・整頓され、ゴミが舞いホコリが積もるようなことはなくなった。
一か月に一回干されれば良い方であった寝具は、一週間に1~2回は干され、心地よい睡眠を得ることができるようになった。
水回りは毎日輝きを放つほどに磨き上げられ、衣類はその日のうちに洗濯され、毎日日の光を浴びることができるようになった。
だが一番変わったことといえば。
「ルシエさーん、朝ご飯ですよー。」
「んー、今いくー。」
毎日の食事が、家で供されることだろう。
その日の朝食は、メニューとしてはいたって普通の朝食であった。
香ばしく焼き上げられたパン。薫り高いバター。
野菜が光って見えるサラダ。カリカリに焼かれたベーコンが巻き込まれた、半熟の目玉焼き。
そして、快適な朝の目覚めを約束してくれる真っ黒なコーヒー。
いたって普通には見えても、その随所にケインの心尽くしが見られる、至高の朝食であった。
ウィンデリアではあまり見られないものとしては、テーブルの隅に置かれた小魚のオイル漬けと、野菜の塩漬けだろうか。
これは、ケインの生まれ故郷であるスワンプリムで発達した漬物という食文化である。
「僕達の国は湿度が高いので、食べ物はそのままだとあまり長く持ちません。なので普段からこうやって一部を漬物にしておいて、不漁や不作の時に備えるようにしているんです。」
外国へ行くことはあっても現地の食文化に興味がなかったルシエは、図らずもそれが漬物とのファーストコンタクトだった。
最初こそ戸惑いはしたものの、小魚のオイル漬けは旨味が凝縮されており、野菜の塩漬けは素朴な塩気がサラダとはまた違った野菜の側面を見せてくれ、いずれも美味であった。
「ところでルシエさん。」
「何?」
「時々箱に入って届く黒い玉や拳銃って、一体何なんですか?」
ケインは食事をしつつ、リビングのパソコンの脇に積まれた段ボール箱を指さす。
ケインがこの家に来て以降、週に何回か届いているものだ。ルシエはそれを開いてはパソコンに向かい、何かをしたと思ったら箱に詰めて送り返している。
「ああ、これ。副業。」
「副業?」
「そ。術式のバグ修正とか、メンテをやってるの。来るのは大体軍の支給品だけど。」
魔機は術式によって動く精密機械に近いものである。
そのため術式のバグによって誤動作を起こしたり、動かなくなるなどの動作不良を起こす場合があるため、一年に一回程度はメンテナンスを行うことが奨励されている。
「特に軍が使用してる軍用魔機は家庭の魔機と違って性能向上のために性質変化の術式を複数登録してたり、複数の形状変化の術式をプログラムしてる場合もあるから、マメに見ないとバグってることがよくあるのよ。」
「・・・・・・あの、すいません。」
「何?」
「せいしつへんかとけいじょうへんかって何ですか?」
ルシエは瞬間呆気にとられ、次にクスッと笑い
「まあ、そうよね。一般人は知らないわよね。性質変化と形状変化っていうのはね―」
―ルシエが説明するには、こうである。
術式には大きく分けて二つの種類がある。魔機の形状をプログラム通りに変形させる「形状変化」、機能を追加したり性質・性能を向上させる「性質変化」である。
形状変化とは、文字通り魔機の形状を変化させる術式である。
このコードがなければ魔機はただの黒い鉄の玉でしかなく、どの魔機でも最低一種類は形状変化の術式がプログラムされている。
形状変化後の形状をデフォルトの状態に設定することもできるため、一般人の中には魔機が黒い鉄の玉であることを知らなかったり、複数の形状に変化できることを知らない者も多い。
「だったら、例えばいろんな武器の形状変化をプログラムしておけば、いろんな武器が使えるってことですか?」
「理論上はそうなるけど、軍用魔機でも3つ以上の形状変化がある魔機はほとんどないの。3つ以上になると、変形バグが多発するから。」
「変形バグ?」
「簡単に言うと命令した通りの形にならなかったり素体に戻ってしまって、形が変化しなくなるの。武器でこれが起きたら、武器が使えなくなっちゃうでしょう?」
なるほど…と頷くケイン。さらに続く。
性質変化とは、機能の追加・改善、性能の向上、新たな性質を与えたりする術式である。
素体の状態以外では常に発揮されている術式で、形状変化以外の術式はほとんどがこれである。
「銃の弾丸なんかも、性質変化で変化して発射されてるのよ。最近は弾倉式のものが増えてきたからお目にかかる機会は減ったけど、同じ込められた弾でも、起動語によって爆発したり、貫通力が増された弾になったりするの。」
「そっか…だからあの時、銃弾が目の前で消えたんですね。」
「マナの影響を強く受けるからね。あれを見た時は私も驚いたけど…ていうか、知らないでよくのこのこ顔を出してきたわね、このおばか。」
ぽこん、とケインを小突くルシエ。すいません、と苦笑いでケインが答える。
「あとは魔機に魔法が発動する術式をプログラムしておいて、特定の動作と起動語でその魔法を発動させる『発現式』ってのもあるけど、使ってるのは私くらいしか見たことないわね。」
「ルシエさんが使ってる【飛行】の靴ですよね。扱いが難しいんですか?」
「魔法によってはそれもあるし、搭載してあるマナ電池の分しか使えないのよ。大きな魔法は搭載できないし、思ったより使い勝手はよくないの。」
へえ~、と興味津々で聞き入るケイン。とそこへ、ルシエの携帯電話が鳴り響く。
「長官だわ。―はい、ルシエです。」
「ルシエ君、召集だ。頼みたい任務がある。」
「わかりました。すぐ向かいます。」
ルシエは通話を切ると食器を流し台に運び、外出の支度を始める。
「お仕事ですか?」
「ええ。たぶん日を開けることになるから、長官のお宅に行っていなさい。場所は教えたわね?」
「はい、確かに。片付けはしておきますので、いってらっしゃいませ。」
ルシエはケインに見送られ、自宅を出た。日が天頂に上り始める、昼前のことだった。
いつものように名乗り、長官室に入るルシエ。そこにはセルゲイの他、二人の姿があった。
一人。旅装に身を包む、白まじりの空色の髪がさわやかな、犬耳に眼鏡をかけた青年。獣人族の一種、コボルドである。
一人。白衣に身を包んだ、金髪ウェーブヘアの女性。こちらは人間である。
「ユリアン、モニカ。今回はあなた達も一緒なの?」
「ええ、そうなります。よろしくお願いしますね、ルシエさん。」
「よろしく、お願いします。ルシエさん。」
「揃ったところで、任務の話を始めよう。ルシエ君は座ってくれたまえ。」
促されるまま席に着くルシエ。
「さて、今回君達に頼みたい仕事は…スノンベールとバニーゲンの軍事衝突を事前に食い止める事だ。」
「…ちょっ、ちょっと待ってください長官!スノンベールがバニーゲンと戦争になるっていうんですか!?」
「君の気持ちはわかるが、落ち着きなさい。」
興奮して席を立つルシエを、セルゲイがなだめる。
「幸い、まだ衝突は発生していない。だが、このまま放っておけば間違いなく開戦するだろうという報告がマンテリアからあってな。」
「そんな、あり得ません!ただでさえスノンベールは、今もアインガリアと紛争状態にあるんですよ!?バニーゲンとなんて、戦争する余裕も、理由もないはず…!」
「ルシエさんの言う通り、スノンベールとバニーゲンは、互いを戦争相手として見ることはほぼないとみられていました。事実、僕もそう思っていましたし、今でもそう思っています。」
コボルド―ユリアンは続けて言う。
「しかし、この一か月ほど、北から不穏な報せを外交筋からも聞いています。今回の報も、マンテリアの信頼できる外交筋からの情報です。この情報に誤りがあるとも思えません。」
「でも…!」
「だからこそ、行って真実を確かめなければいけないんです。―ルシエさん、貴女の生まれ故郷が、戦火に包まれるその前に。」
「ユリアン…。」
ユリアンの優しく、しかし真剣な眼差しに、ルシエは腰を落とすしかなかった。
―"炎の国"バニーゲン、"雪の国"スノンベール。どちらも"地獄"と評される過酷な国である。
バニーゲンは、マンテリアから西にある活火山に囲まれた灼熱の地獄である。
炎に耐性のあるドワーフ、オーガ、そして翼人族の一種であり、竜人ともいわれる"ドラグーン"が他地域に比べて多く居住しており、炎に耐性の無い種族は比較的熱気がましな沿岸部に家を構えている。
現存する六幻獣のうちのひとつ"邪龍"ファヴニールが住む地としても知られており、その環境から好き好んでこの国に行く外国人は極めてわずかである。
対してスノンベールは、マンテリアから更に北にある一年のほとんどを雪に閉ざされた極寒の地獄である。
ルシエの生まれ故郷でもあるこの国は、その過酷な環境を知恵と技術を以て克服し、乗り越えようとした。
結果、ウィンデリアを凌ぐほどの魔法技術、および魔機技術を獲得するに至るが、その厳しい環境によりこの国に学びに行こうとする者はわずかである。
双方とも他国に対して閉鎖的な国風があり、時折交流はあるものの、その全容は謎に包まれている部分が多い国である。
だが閉鎖的であるという事は他国への侵攻を行うこともないということであり、事実二国の周辺諸国は、目下国境紛争中であるアインガリアを除き、消極的な友好関係を築いている。
これはバニーゲンとスノンベールも同様である。
両国は慟哭海峡という海峡を隔てて隣接しているが、今まで戦争状態はおろか、緊張状態になったこともない。
慟哭海峡は地理特性上渦潮と竜巻が頻繁に起きる交通に適さない海路であるため、両国が直接的に関連性をもったことは、今まででほとんどないと言ってよい。
「…失礼しました。でも、一体なぜバニーゲンとスノンベールが…。」
ルシエは落ち着きを取り戻し姿勢を正すが、浮かない顔はそのままである。
「信じましょう、ルシエさん。故郷の人達を。そして、確かめにいきましょう。あなたの故郷の人達を、戦争に巻き込もうとしているのは誰かを。」
「モニカ…。」
気弱そうな人間の女性―モニカは、柔らかく笑ってそう言った。ルシエの顔に、少し安らぎの表情が戻る。
セルゲイもその様子を見てうむと頷いた。
「不可思議な事がいくつもある任務だ。だが、君達なら必ずややり遂げてくれると信じている。期待しているぞ。」
「…わかりました、行ってきます。」「確かに承りました。」「足を引っ張らないよう、頑張ります。」
-2-
―ウィンデリアを発って、三日。ルシエ達はマンテリアとスノンベールの国境地帯に来ていた。
「止まれ。通行の許可なく、外部のものをスノンベールに入れることはできん。」
スノンベールの国境警備隊に見とがめられる。すかさずユリアンは車から降り、書類を手に警備隊と交渉を始めた。
「私達はウィンデリア外務省の者です。貴国のヘルマン外務官と会合する予約があり参りました。アポイントはとれており、このように通行証明書も頂いております。お通し願えませんでしょうか?」
「む…。確かに期間内の通行証明書だな…。わかった、通ってよし。」
「有難く存じます。」
ユリアンはそそくさと車に戻り、ユリアンを乗せた車はそのままスノンベール国内へと入っていく。
「やるわねユリアン、いつ通行証明なんて取ったの?外国の者がとるのに、政府関係者でも一か月はかかるのに。」
「ああ、これ偽書ですよ。」
「は?」
ユリアンはにこやかに言った。
「スノンベールの通行証明書はここ二十年程形式が変わっておらず、押印されている判は百年前から変わっていません。それだけ変わってなければ、偽造は容易です。」
「いやでも、国境警備隊も偽造判定機くらいは常設してるし、下手な偽造はすぐバレるわよ…?」
「ルシエさん、数あるマンテリア・スノンベール間の国境入口で、僕が何故こっちの入口にこだわってたかわかります?」
「…あんた、まさか。」
ユリアンはにこやかである。
「こちらの国境は、一番近い町がギムルの町です。それも、国境を越えてから車で半日はかかる距離です。必然、こちらの国境は一番使われていません。」
「道理で、こっちに来る人や車が、全くいないと…。」
モニカはなるほどなあ、という顔をしている。
「使われなければ、それだけ経費が節減されるのが世の常です。いかな魔機大国のスノンベールといえど、予算に限りがあるのは他の国と同じです。となれば、それだけ最新型の判別機は導入されづらくなります。」
「…つまり、それを見越して…?もし更新されてたらどうするつもりだったの?」
「大丈夫ですよ。少なくとも五年前から更新されていないようですから。」
「なんでわかるのよ。」
ユリアンは終始にこやかである。
「もう三年前から同じ手で密入国してますから。緊急時とか、急な会合の予定が入った時は、いつもお世話になっております。」
「お世話にって、あんたねえ…。」
「ユリアンさん、怖いですぅ…。」
雪降る山の中、ユリアンはにこやかに言い放った。
「綺麗事だけでは外交官は務まりませんから。調停官なら、なおのことです。」
「初めてあんたを敵に回したくないと思ったわ…。」
「私もですぅ…。」
「はっはっは。お二人に比べたら僕は子犬のようなものですよ。」
呆れつつルシエが尋ねる。
「じゃあ、ヘルマンって外交官と会うってのも嘘なの?」
「半分嘘ですね。会合の約束はしてません。でも会って話をしたいのは本当ですよ。」
「どういう、ことですか?」
朗らかな顔を直し、落ち着いた表情と声でユリアンが話し出す。
「今回、スノンベールとバニーゲンに交戦の兆しありと教えてくれたのは、マンテリアのホルキスさんという外交官です。その彼が『珍しい鳴き声の鷹も、じきに飛べなくなる。』と言っていたんです。」
「…符牒か何かだとは思うけど、それどういう意味?」
「『珍しい鳴き声の鷹』とは、ヘルマンさんがご実家の技術力で造り上げている、偵察用の自立飛行型魔機のことです。」
「自立型の…。」
「空を飛ぶ、魔機…?」
ユリアンはうなづいてさらに続ける。
「ヘルマンさんはご実家が優れた魔機職人であり、また設計者でもありますから。まだ試作段階だと以前会った時は言っていましたが、ある程度運用できるまで漕ぎつけたのでしょう。」
「…なんであんたがそんなこと知ってるの?」
「ヘルマンさんと、マンテリアのホルキスさんは、僕が外交官を始めてからの長い付き合いなんです。だから、ヘルマンさんのご実家が自立飛行型魔機を開発していることも、本人から聞いたんです。」
これが実用化されれば、雪中を行軍してくるアインガリアの連中を、先んじて見つけ出すことができる、と意気込んでいましたよ―とはユリアンの弁である。
「だから、ホルキスさんが鷹の話をした時、この話がヘルマンさんを通じてもたらされたものだと確信しました。僕が特務一課の調停員をしているのはお二人も既に知ってますから、きっと特務一課の能力を信じて僕に話をしたのだと思います。」
「そう…そういうことだったのね。」
ユリアンは一課で唯一直接的な戦闘力を持たない、生粋の外交官である。
確かに彼は、調停官を任されるほどの卓越した弁論技術を誇る一課きっての論客ではある。
しかし第三者が戦争を焚きつけているという証拠が見つかれば交渉は自分達でも可能であり、ユリアンほどの論客がいるだろうか、と思っていた。
しかし実際は違っていた。彼もまた、己の友人を救うべく、危険を顧みずに立ち上がった一課の諜報員だったのだ。
「…ごめんね、ユリアン。私、あんたをどっかで見くびっていたみたい。」
人知らぬユリアンの心意気に感銘を受けたルシエは、素直に己の非礼を詫びた。
「ははは、まあ僕はルシエさんやモニカさんみたいに、実際には戦えませんから無理もありません。ただ、今回の任務は僕の人脈もお役に立てると思いますよ。」
「そうね、私は故郷でも伝手は実家くらいしかないから、大いにアテにさせてもらうわ。」
二人のやり取りを後部座席から見ていたモニカは、くすくすと笑う。
「…何よ、何がおかしいのよ?」
「あ、すいません。なんか、こういうのもいいなあと、思ってしまって。」
「…ふふ、確かにそうですね。」
二人が笑っている意味を、ルシエはいまいち理解できない。
「私達、一人で任務をこなさなきゃいけない事が多くて、複数で動くことが、あまりないじゃないですか。だから、なんか、その、こういう事言ってる場合じゃないっていうのは、わかってるんですけど。―なんか、楽しいなあ、って。」
「楽しいってねえ…。戦争が起きるかもしれないのに、呑気な…。」
「そうですね、本来褒められるべき局面ではありませんが、でも気持ちはわかります。こういう時だからこそ、人との繋がりは暖かく感じられるものです。」
だからこそ、この戦争は止めなければいけないんです。
ユリアンは静かに力強く宣言し、二人は互いに同意するのであった。
「―さて、つきましたね。」
車の運転席からユリアンが降りる。次いでルシエ、モニカと降りていく。
―ここはスノンベール南西端の町、ギムル。国境から車を走らせて、実に6時間強という長旅である。
一人では流石に事故が免れ得ないため、交代して運転していたのだ。
「それにしてもルシエさん、よく冬仕様の改造術式なんて知ってましたね。」
「私、年に二回はスノンベールに里帰りしてるから。とはいえ私が知ってるのはバイク用の改造術式だから、車に搭載するのにシャルロットの力を借りたけど。」
「シャロさん、魔機の改造、お好きですもんね。」
「そうね。電話で聞いた時も何回も『それだけでいいの!?』って言われたわよ…。」
げんなりするルシエを、苦笑いで見守る二人。そんなやりとりをしつつ、車を素体の状態に戻す。
「ルシエさんには説明不要と思いますが、ここから首都フェリムルへ行く方法は二通りあります。一つは山道を車で行く方法。もう一つは専用のレールウェイを使う方法です。」
「レールウェイは、動いているんでしょうか?」
「今は間氷期だから、運行自体はしていると思うわ。でも…。」
ルシエはちらりとユリアンを見る。視線を受けたユリアンはルシエの心配を察知したかのように頷く。
「今は動いていない可能性もあります。何しろ非常時ですからね。」
彼らがこの国へ来た理由を考えれば、それは当然懸念されることであった。
「いずれにしても、今日は一泊しましょう。この時間じゃ流石に動いてても営業時間外よ。」
「そう、しましょう。ルシエさん、ギムルのおいしい店、ご存じですか?」
「私首都の出身だからわかんない。」
「あはは…。まあ、ホテルはまだあるはずですから、今日はそこに一泊しましょう…うん?」
ふとユリアンは自分達を見つめる視線を感じた。振り返れば、そこには防寒着に身を包んだ女性がいた。
女性は助けを求めるような、しかしどこか疑いを持った表情でこちらを見つめている。
「失礼、ご婦人。僕達に何か?」
「あっ…いえ、すいません。じろじろと見てしまって。」
慌てて詫びる女性。しかし、顔を上げておずおずと尋ねる。
「…あの、そこの方は、お医者様でしょうか?」
「えっ?あ、はい。医者ですけど…。」
女性がモニカを指して尋ねる。
軍医であるモニカは、何時どこでも自分が医者であるとわかるように、赤い十字のワッペンがつけられたコートを着ている。
モニカの答えに、女性は一瞬顔を下げ、直後意を決して縋るような目で懇願してきた。
「見知らぬ方にお願いしてしまって、すいません。どうか、うちの子を診て頂けませんか?一昨日から熱が下がらず…。」
「それは大変!すぐ向かいます!お宅はどこですか?」
「ああ、ありがとうございます!こっちです!」
女性の先導に、飛ぶようにしてモニカが駆けていく。
「ちょ、ちょっと!モニカ!」
「行きましょう、ルシエさん。ああなったら、モニカさんは止まりません。」
「…ったくもう。」
ルシエとユリアンも、遅れて後を追うように駆けていく。
―女性の家には、息苦しそうに横たわる少年の姿があった。年の頃は七歳かそこらだろうか。
モニカは家に着くや否や、カバンから医療用魔機を手早く広げ、診察を始めていた。
「…血痰の跡がありますね。おかあさん、この子が熱を出す前に、何か気になる症状はありませんでしたか?」
「…そういえば、咳が長く続いていたように思います。」
「ふむ…。その間に、お医者様や白魔術師には診せられましたか?」
「いいえ、診せておりません。この町に白魔術師はいませんし…それに、夫が死んで、病院に診せるお金がなくて…。」
「…それは、ご愁傷様でした。」
その場に居合わせた者どもは、揃って死した家人に祈りを捧げた。
「…それで、どうなの?モニカ。」
「症状から見て、肺結核で間違いありません。治療、してしまいますね。」
そう言うと、モニカは少年の胸に手をかざし、意識を集中し始めた。続けて、モニカの体が白く輝きだす。
『この地におわします神様、全ての命育む精霊達に願います。この者に光を。蠢く小さき侵略者に打ち克つ力を。』
『―【疾病治癒】。』
詠唱完了と同時に、少年が淡い白い光で包まれていく。
輝きが消えた頃には、先ほどよりもかなり息が整った少年がそこにいた。
魔法による治療を終えたモニカは、母親に向き直る。
「体内で症状を引き起こしていた結核菌は浄化しました。熱は明日には下がってくるものと思います。ただ、根治は出来ていません。処方箋を用意しますから、熱が下がってからでいいので、薬局へ行って小児肺結核用の薬を頂いて、しばらく服用してください。」
「あ、ありがとうございます…!見ず知らずなのに助けていただいて…お礼はいかほどでしょうか?」
モニカは静かに首を振る。
「お代は要りません。旦那さんを亡くされているのでしょう?この子もきっと、寂しい思いをしているはずです。私に払うお金の分も、どうかお子さんを大切にされてくださいね。」
「本当に、ありがとうございます…!…その、スノンベールの方ではないですよね?お名前だけでも、教えて頂けませんか?」
「ウィンデリアの、モニカと申します。」
母親はモニカの名と国を聞き、深々と頭を下げた。
「風の国の方でしたか。疑ってしまって、すいませんでした。三週間ほど前に、夫が西の国の人に殺されたって聞いて…。酷いやけどで…見る影もなくて…。」
「「「…。」」」
俯き、当時を思い出して泣き出す女性。モニカは優しく肩を抱いた。
「…噂では聞いております。これから大変なご苦労があるかと思いますが、どうか亡くなられたご主人の分まで、お子さんと生きてください。」
「はい…はい…!ありがとうございます…!この御恩は、生涯忘れません…!」
むせび泣く母親の方を、モニカはずっと優しく抱いていた。
「よかったの?」
「何が、ですか?」
「お礼もらわなくて。あんたの魔法だって、タダではないでしょう。」
女性の家を去り、ホテルへ向かう道すがら。
ルシエの冷たくも現実的な問いに、モニカは静かに首を振る。
「…あのお家から、お礼はいただけません。今回の動乱の、直接の被害者です。そんな方から、お礼をいただくなんて、私には。」
「それは…そうだけど。でも、あんたにとっては、別の国のことなわけだし…。」
モニカはルシエに向き直り、静かに、かつ力強く言った。
「救うべき命に、国境はありませんよ。」
「モニカ…。」
―吹雪が舞う、ギムルの町の夜。
そこには吹雪に負けない強い信念を抱いた、医師の姿があった。
-3-
―翌朝。
結論から言うと、レールウェイは動いていた。動いていたのだが
「すいませんが、今レールウェイに外国の人を乗せるわけにはいきません。」
三人は乗り場で足止めを食っていた。
「私はスノンベールの出身よ。彼らの身許は私が証明するわ。…あんまり時間がないの、出来れば乗せてほしいのだけど。」
「元、でしょう。あなたの保証があっても、乗せることはできません。」
受付は頑なであった。勿論既に通行証明書は見せている。偽書だが。
しかしそれでも受付が首を縦に振ることはなかった。
「どうしましょう…。」
「時間がかかってしまうのですが、やはり山道を上っていくしかないでしょうか…。」
「あんまり時間をかけていられる場合ではないと思うのよ。山道通って行ったら、何もなくてもさらに一日かかるわけだし。」
「それはそうですが…。」
どうしたものか、と途方にくれていると、受付に別のスタッフから声がかかった。
「ミッシュ、お電話です。」
「電話?誰からですか?」
「外務省の方からです。」
「わかりました。…お電話代わりました。…はい、はい。え…?確かに、外国からいらした方が見えていますが…。」
受付は一旦受話器を離し、ルシエ達に訊いてきた。
「あの、恐れ入ります。あなた方の国柄と、お名前を教えていただけますか?」
「全員ウィンデリアからの者よ。私はルシエ・テリオバール。」
「モニカ・ブラウンといいますぅ。」
「ユリアン・ブルームと申します。」
受付は再び受話器と話を始める。
「…え?通せ?いやいや、国からの命令で、外国の方の乗車は…え?自分が呼んだ?…はあ、そうおっしゃるのであれば、わかりました。…はい、本日の七便に乗っていただきます。…はい、わかりました。お疲れ様です。」
話を終えた受付は、何か釈然としない顔でルシエ達に告げた。
「外務次官のヘルマンさんより特別許可が下りました。今から十分後に発車します、第七便・首都フェリムル行へご搭乗ください。」
「わかりました。難しい状況の中便宜を図って下さり、誠にありがとうございます。さ、行きましょう。」
ユリアンはにこやかに礼をすると、皆を促して搭乗口へと向かっていった。
「外務次官の方とお知り合いだなんて、ユリアンさん凄いですねぇ。」
「いやぁ、はっはっは。彼も出世しましたねえ。」
ルシエだけは怪訝そうな顔でユリアンを見つめている。
「…あんた、またなんかやったんじゃないでしょうね?」
「いやいやまさか。これは幸運です。きっとヘルマンさんが、僕達がここを使うのを見越して計らってくれたのでしょう。」
「呼ばれた、ってのも嘘よね…?」
「はい、嘘だと思いますよ。彼には話は持ち帰るとだけ言っていますから、会う約束をしていないのは本当です。」
「なんにせよ、ヘルマンさんに会ったら、お礼を言わなければいけないですね。おかげ様で、早く着きますぅ。」
「それにしても、ドンピシャで今日来るって、しかもギムル駅に来るって、普通わからなくない…?」
「日付は、完全に偶然だと思いますよ。全く無駄なく移動すれば、今日に来れることは計算できますけど。駅はまあ…僕が密入国にギムルを使うのは彼も知ってますから。」
ルシエはため息をついた。国の危機とはいえ、密入国を事実上黙認しているのはどうなのかと、元スノンベールの民は思うのであった。
『―終点、フェリムルでございます。お降りの際は、お忘れ物のないよう、お手回り品にお気を付けください。』
「うわぁ~~!」
揺られること一時間。一行はスノンベールの首都、フェリムルへ到着した。
ついて一番、モニカが放った言葉である。
「すごいですね~!外は猛吹雪のはずなのに、街の中がとても明るくて、暖かいですぅ~!」
モニカの評する通り、ここは極寒の地でありながら、まるで常春のように暖かい街であった。
―"雪の国"スノンベール、首都フェリムル。
街の全周、および天蓋を強固な防雪・防風機構で覆われたこの街は、まさに技術大国と呼ぶに相応しい、この世の叡智を結集して作られた雪中の楽園である。
天蓋には疑似的な太陽光を発する、世界で一番大きな発光魔機があり、日の出と日没の時間に合わせて点灯したり消灯したりもする。
また街中は細かく温度管理されており、寒すぎず暑すぎない、過ごしやすい気温が年中、自動で保たれている。
本来この環境では作物など育つべくもないが、この街の中であれば作物も育ち、ある程度の自給もできるというから驚きである。
「すごいでしょう?伊達に魔機大国とは呼ばれてないわけよ。」
ルシエは故郷の技術が褒められて鼻が高いようである。
「この技術力の高さは我が国も見習わねばなりませんね。あまり外に出ないのが残念ではありますが…おや。」
ユリアンは、ふとこちらへの視線に気づく。そこにはメイド服を着た一人の女性のコボルドの姿があった。
「ユリアン様、お久しぶりです。」
「やあ、メリーベルさん、ありがとうございます。ヘルマンさんはお元気ですか?」
「はい、変わらず壮健でいらっしゃいます。急に『知人があと1時間後に来るからもてなしの準備と迎えを頼む』と言ってくるくらいには。」
「あはは、すいません。気を使わせてしまって。あ、こちらは僕の同僚です。」
紹介され、ルシエとモニカは軽く礼をする。
「お噂は兼ねがね伺っております。ようこそフェリムルへ。国民を代表して歓迎いたします。」
メリーベルは恭しく礼をした。その様子をみて、モニカが静かにルシエに耳打ちする。
「…思ったより、閉鎖的ではないんですね。」
「国が閉じこもり気質でも、暮らす国民がそうとは限らないでしょ。」
その様子を見てか見ずしてか。メリーベルは挨拶を済ませると皆を案内すべく先導し始めた。
「我らが旦那様、ヘルマン・デッケン様のお宅へご招待いたします。…旦那様は皆様にお会いすることを心待ちにしておられます。どうぞこちらへお越しください。」
少々冷たい感じも見られるメイドコボルドに先導され、一行はヘルマン宅へと向かうのであった。
「おお、待っていたぞユリアン。よく来たな。」
「ヘルマンさん、お元気そうで何よりです。こちらは僕の同僚のルシエとモニカです。」
ヘルマン宅に着き、挨拶を交わすユリアンとヘルマン。紹介され、ルシエとモニカも礼を返す。
ヘルマン宅は意外にも豪邸というほどのものではなく、三階建ての建物に庭があるくらいの邸宅だった。
一般人からすればそれでも立派な邸宅であろうが、外務次官が住む家と聞くと少々手狭に感じる者もいるかもしれない。
「お初にお目にかかる、スノンベール外務次官のヘルマンだ。…おや?そこのレプラコーンは、テリオバールさんのところの娘さんかね?」
「…えっ?私を…父をご存じなのですか?」
ルシエは初対面の男に自分の家名が告げられたことに驚きを隠せなかった。
父は優れた魔機職人、かつ設計者ではあるが、国の重鎮に知られるほどとは彼女自身も思っていなかったのである。
「勿論知っているとも。貴女の父上はこのフェリムルで五指に入る優れた魔機職人だからね。昔父と共に貴女の父上の工房を訪ねた際、すみっこで遊んでいた女の子を娘だと紹介されたことを、よく覚えている。」
「そうでしたか…。」
「今はウィンデリアにいると聞いていたが、そうか…君も例の課の一員だったか。つくづく縁というものはわからんものだ。」
ヘルマンははたと話が脇道に逸れたことに気づき、咳払いをして軌道修正する。
「っと、すまん。昔話をするような状況ではないな。皆よく来てくれた。呼んではいないが、伝えたい事があるのだ。こちらに来てくれ。」
「「「お邪魔します。」」」
一行はヘルマンに案内され、邸宅の中へと進んでいった。
>>続く
第四話は、今週中に投稿予定です。