三十三話 憎しみの病
書き直しまくっていたら更新が遅れました。申し訳ありません。
――母が死に、少女の心には消えない大きな傷が残された。
少女の名はマチルダ、生まれと育ちは犯罪が日常的に発生する荒れ果てたスラム街。
自分を守ってくれていた母が死んでから、彼女は生まれ持った頑丈な身体、暴力と魔法の才能で年上の人間を服従させ次々と支配下に置き、やがて大きな一つの組織のボスへと成り上がって行った。
弱者を虐げる強者も、この世界そのものも嫌いだ。
海を超えた遠い地にある国々には平和な場所も多くあるという。なのに何故世界は、平穏を皆に平等に与えてくれないのか。
今もこの瞬間には、この地では理不尽に虐げられる者や幸福を感じる事も無く死んでいく者達がたくさん居る。
この世界が憎くて仕方無かった。そして――
暴力を振るい嫌いな敵を完膚なきまでに叩き潰す事に、どこか暗い快感を覚えていた自分も大嫌いだった。
「あ、マチルダさ〜ん! 眉間に皺寄ってますよ、皺! 怖くなってますよ!」
スラム街の隠れ家にて。頭の中に湧き上がる暗い思考を無理矢理吹き飛ばすように、底抜けに明るい声が横から耳に突き刺さる。
その明るい声の少女はスラム街に暮らしていた荒くれ者の少年グループの元メンバーなのだが、明らかに一人だけ雰囲気が場違いだ。溜息を付きつつ視線だけを少女に向けて
「……だから何?」
「相変わらず反応冷たいですね!? 私泣いちゃいますよ!? 泣いたらうるさいですよ!?」
「もう既にうるさい」
関わっていると調子が狂わされる。何故こんな人間を部下に招いてしまったのかと後悔しながら、自分の部屋に戻って一人になろうと立ち上がる。
あの声を聞いていると変な気分になる。もうさっさとこの場を離れたい。必要以上には関わって欲しくな――
「いっ――ッ!?」
早くこの場から離れたいと集中力を乱し焦りながら結果、テーブルの足の角に小指をぶつけてしまった。
「わわわ、大丈夫ですか!?」
「アンタのせいだ……」
「私ですか!? ごめんなさい……え、何で?」
心配そうに肩を掴む少女の手を振り払い、そのまま痛みを堪えながら部屋へ向かおうとした瞬間、また背後から少女の声が聞こえて。
「しかし、マチルダさんって意外とおっちょこちょいというか天然な所ありますよね。この前は変装中に口元隠しながらその上からご飯食べようとしていたりとか……」
「うるさい」
「あわわ、怒っていらっしゃる……」
本当にうるさいし、鬱陶しいし、面倒くさい奴だった。
けど、何故か――その少女と喋る事に不快感は感じなかった。
『だけど、その子は死んだ』
声と共に眼前に広がっていた過去の映像が霧の様に一気に掻き消えて、一面真っ黒な何も無い空間へと変貌する。
そうだ。先刻の光景は既に過ぎ去った後のものだった。あの明るい声をした少女は、もう
『ベルモンドに殺され死んだんだ。お前を真っ先に庇って』
また声がした。それはよく知る声だった、それもそうだろう。その声の主は
『だから、憎しみにその身を任せればいいんだ』
マチルダと、自分自身と同じ姿をしていたのだから。
自分と全く同じ姿形をした存在に目を見開き、今、自分の身に何が起きているのかを思考する。
街に現れた大量の人食い蟻、鬼土竜、リシェルと呼ばれる少女との戦い。そしてその後に現れた男、ベルモンド。
あの男の顔を見て、心の奥底に押し込めていた黒い感情が一気に溢れ出した。そして空気中から体内に邪悪な気配を纏った『何か』が入り込むのを感じたのだ。
その『何か』は、心の奥底に封じ込めていた二つの大きな傷跡に侵食し始めた。母が死んだ記憶と、仲間を――明るい声のあの少女を死なせてしまった記憶。
そして世界への憎しみ、理不尽に弱者を虐げる者達への憎しみ、ベルモンドへの憎しみが一気に膨れ上がる。
心を蝕み一斉に湧き上がる負の感情に全力で抗おうとした。抗おうとして、その結果……
『お前の心はその大きな感情同士の争いを処理しきれずに意識が失われた』
「……なら今すぐに私の目を覚まさせてください」
『もう性格も口調も偽る必要はないだろう、マチルダ? 抗うな、私を受け入れろ。本来のお前は暴力のままに生きる側の人間だ』
「そうやって惑わそうとしても……――っ!?」
惑わされまいと真っ向から立ち向かおうとしたその矢先、自分の身体は動けなくなっていた事に気付く。薄黒い靄が全身を拘束していたのだ。
眼前に佇むもう一人の自分はこちらへ視線を合わせたまま話を続ける。
『強い精神力を持っている様だが、どんな強い人間にも心には脆い部分があるものだ』
そう語りながら黒い靄に拘束されている身体の上から手を触れて来る。触れられた手はまるで沼に沈む様にズブリと身体の――否、魂の中に入り込んで
『脆い部分はここだろう?』
次の瞬間、封じ込めていた記憶が呼び起こされる。母が死んだ記憶が、仲間達が殺された記憶が、鮮明に浮かび上がり
「ぐぅ、あぁぁっ!」
記憶と同時に、強い怒りが、悲しみが、憎悪が、殺意が、増幅されていく。もう、止められない。長年溜まった負の感情が、蓋を強制的に外され凄まじい勢いで漏れ出て来る。
感情が、心が、魂が、溢れ出る負の感情に汚されていく。
このままでは自分が自分で無くなる、憎しみに生きる殺戮機械と化してしまう、それは嫌だ、嫌だ。
死んで行った人達が、出会えた祖父が、街の皆が、悲しんでしまう。
そんな必死の抵抗の想いを上から黒く塗り潰す様に、負の感情の肥大化は収まらない。魂を、邪悪な『何か』が侵食していく、止まらない。止められない。
だが、それでも。
『苦しいだろう? 私を受け入れれば、この苦しみから解放される。さあ……私に』
「う、る……さい、このっ、偽物がぁっ!」
『……!』
「私の中から、出ていけえ!!」
『貴様――っ!』
それでも抗う事はやめまいと、反抗心を強く保ち魂への侵食を抑え込む。まだ魂の中で『何か』は暴れている……既に魂の一部と『何か』が同化してしまっているのが分かった。
だがそれに対し更に強い意志の力で上から食らいつく。
魂を内側から焼かれる様な苦しみが襲い掛かる、気を抜けば一瞬で正気を失ってしまいそうだった。
暴れ回り侵食を広げて行こうとする『何か』を無理矢理抑え込み、抑え込み、抑え込んで――
意識は覚醒し、手に一つの優しい熱を感じた。ニアが心配そうな顔で手を触れて来たらしい……が、自分の感情の異常性にすぐ気が付いた。
手を触れた少女に対して、一瞬「敵意」を抱いてしまったのだ。
それだけでは無かった。溢れ、湧き出る凄まじい負の感情は、強く意識を保たなければたちまち心を全て塗り潰されてしまいそうになる。
そしてそれと同時に全身には今までに無い程の力が漲っていて、闘争心が異常なまでに高まっていた。
不快で、気持ち悪くて、それでいて、強い高揚感が生まれていた。
「――そのあとは知っての通り、ニアと私で協力して黒い鎧の化け物を始末した。それから今もずっと、魂の中に邪悪な何かが住み着いている感覚はある」
「……」
「何となく、自分で分かるんだ。たぶんこれはもう、自分から切り離すことは出来ない」
鉱山の街クリストを巻き込んだ戦いを無事犠牲者無く終えたその後日。
怪我人が収容され治療の行われている施設にて、魂に巣食う『何か』について淡々と語るマチルダの目の前には悲しげに目を伏せるニアが居る。
更に他にも二人――悔しげな表情をするウルガーに、怒りに手を握り締める祖父のチャドの姿があった。
刹那の沈黙の後、ニアが力不足を嘆く様に声を震わせながら
「ごめん、なさい……マチルダさんだけ、治せなくて……!」
黒い鎧の怪物との戦いの最後、ニアの身体から街の広範囲を覆い尽くす程の大量の闇色の霧が発生した。
それは邪悪な気配の『何か』――もとい、『負の魔力』を中和する効果を発揮する。
闇色の霧を肌に浴び、鼻や口から吸い込んだ住民達の様子は劇的に変化した。住民達の精神を蝕んでいた『負の魔力』は中和され消滅し、人々は失われ掛けていた正常な精神と生気を取り戻して行った。
しかし、ただ一人例外があった――それが、マチルダである。
『負の魔力』に心を侵されていた住民達は少しずつ回復していっている。その一方、マチルダの魂に侵食した『負の魔力』は、それでも除去する事が出来なかった。
ニアはその事に申し訳無さを感じている様だ、が――彼女は何も悪くない。
「ニアは悪くない。心を蝕まれていた住民達は皆、ニアのお陰で助かったんだ……私一人の事は気に病まなくていい」
「でも……」
「私は自分の意識もしっかり保てている。だから、 問題無い」
もう、魂の中で『負の魔力』が暴れ回る感覚は無い。それは本当だ――本当だが、心配掛けさせない様に黙っている事もあった。
外に漏れ出ない様に気を付けてはいる、だが、今までの人生で蓄積されてきた色々なものへの怒り、憎しみ――溜まりに溜まった膨大な負の感情を抑え込み隠していた心の蓋が、『負の魔力』に侵された影響で外されているのだ。
身体が、心が、敵を求めている。戦いを求めている。憎い敵の血を、求めている。
だからといって、そんな負の感情を満たす為に他人に迷惑を掛ける様な真似はしたくない。だから、マチルダは――
「ここに、居るべきじゃ無い」
誰にも聞こえない、口の中だけで呟かれた声。これからどう生きていくかはもう心に決めている、間違った道かも知れない、それでも……それ以外の生き方はたぶん、もう出来ない。
ニアもウルガーも、他人の心配ばかりする様な善人だ。この二人には、悟られてはいけない。
「――それより、ニアもウルガーも。まだ怪我は治り切って無いんだ。早く戻って休んだ方が良い」
「そう、ね。私達もあまり無理しちゃいけない……けど、マチルダさんもお大事にね」
「……うん」
「なぁ、マチルダさん。――本当に、大丈夫なんだな?」
「大丈夫だと言っただろ、ウルガー。私の事は気にしなくていい、早く休め」
「――アンタもちゃんと休んでくれよ」
心配そうにこちらへ視線を向けた後、別の部屋へと移動し始める二人をベッドに腰掛けながら見送る。その道中、ニアはもう一度こちらを振り向いて
「マチルダさん! 私、マチルダさんも治す方法、頑張って探すから!」
それに続いてウルガーも振り返り
「俺も探すのに協力するよ。アンタだけ治ってないんじゃ、やっぱり納得いかねぇし」
「……ありがとう。二人共」
こんな自分の為に行動しようとしてくれる、その感謝は本音からの言葉だった。しかし、そんな二人に隠し事をした罪悪感も芽生え、胸が少し痛む。
ニアとウルガーを見送った後、部屋に残った最後の一人――祖父のチャドが真剣な眼差しでこちらを見ながら、全てを見透かしたかの様に指摘する。
「マチルダ。オメェ、嘘ついてんだろ」
「爺ちゃんには、やっぱバレてたか」
「顔見りゃ分かるさ――だが、あの二人に気を使おうしたんだろう。だから、さっきは言わなかった」
「――ごめん」
「謝罪なんかいい。――これから、どうする気だ?」
「……この街を出て、ベルモンドを追い掛ける」
「……」
その言葉を聞いて、祖父は眉間に皺を寄せ、溜息を付きながらもどこか悲しげな目をしていて。
「心に閉じ込めていた負の感情の蓋が、外れて無くなってる。このまま抑え込んで街に暮らしてるだけじゃ、きっと皆に迷惑をかける……だから」
「そうかよ。そうするしか、ねぇってんだな」
祖父は悔しげに歯を食いしばる。
こんな目に遭ってしまい、強い力を持つ祖父にも、これはどうしようも無い事で……申し訳無い気持ちが湧き上がる。
「だが、一つだけ約束してくれ。マチルダ」
「約束……?」
「必ずいつか、生きて帰って来い」
悔しさを、悲しみを、精一杯に抑えた様な表情で祖父は言う。
もう彼の家族は、自分しか残されていないのだ。死んではいけない、死ぬわけにはいかない。この約束は、守って果たさなくてはならない。
「分かった、爺ちゃん」
――後日。
マチルダは愛用の二本の剣を持って、鉱山の街クリストから姿を消した。
あと二話で二章は完結です。