三十話 決着
黒い怪物との戦いで疲れ果てた体は、ちゃんと言うことを聞いてくれなかった。思う様に走れず、伸ばした手は……父の背に届かず。更にはカミルに体の動きを止められて。
「お父さん! お父さあぁん!」
「駄目ですニアさん、ノーマンさんの気持ちを無駄にしてはいけません!」
カミルは心を痛めた様に悲しい表情を浮かばせながら、そう言い聞かせて来る。
「分かってる、分かってるわよ……でも……っ!」
涙で視界がぼやける。瓦礫の並ぶ真っ直ぐな道で、父の背はどんどんと遠ざかって行く。それと同時に、黒い怪物の体内から感じる負の魔力の気配は、遠くからでも突き刺される程に強くなっていき――
限界まで膨れ上がった負の魔力が、怪物の体から少しずつ漏れ始めているのが分かった。
「あぁ、ぐぅ!」
父が何かに苦しむ声が耳に届く。少量であれだ、あんな真近くで、一気に大量の負の魔力を浴びでもしてしまえば――取り返しのつかない事態になる可能性だってある。
大好きだった母は魔導会に利用されて、せっかく会えた父がまともに話す暇も無く、居なくなるんて、そんな結果に終わるのは
「そんなの、嫌よぉ!」
泣き叫ぶ様にただただ声を上げるしか出来なかった。カミルは悲痛な気持ちを堪える様に奥歯を噛み、マチルダは――
「――ニア?」
マチルダは、何かを感じ取った様にニアへと視線を向けていた。
――無自覚だった。自分でも気付かない間に、ニアの体内では強い感情に呼応する様に闇の魔力がどんどんと膨れ上がっていた。
もう側には居ない母との思い出が脳裏を過ぎる。右腕を失ってしまった兄の様な存在であるテッドの顔が、父に訪れるであろう最悪の未来が。
自分は守られてばかりだ。守られてばかりで……周りはどんどん傷ついて行って。そんなの、
「絶対に嫌っ!!」
次の瞬間、ニアの激しい感情と共に今までに無い程の強大な闇の魔力が少女の全身から発せられる。
それは大量の黒い霧だった――それはニアを、カミルを、マチルダを覆い、更には避難所、遠くに見える父へと広がり続けて……やがて街中の広範囲を霧が覆い始めた。
それを見てカミルは驚愕の表情を浮かべながら声を震わせ、マチルダは冷静さを保ったまま答える。
「なんですか、これ……っ」
「ニアから出てる魔力……嫌な感じは、しない」
次の瞬間、黒い怪物は負の魔力を大量に周囲へ撒き散らしながら体をドロドロに崩し始めていた。ニアの想像していたものは的中しており、最後の手段として負の魔力の爆弾が怪物の体内に仕込まれていたのだ。
だが、周囲へ撒き散らされた負の魔力は、広範囲に広がる黒い霧に触れると同時に中和され、消滅して行った。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
ニアは強い疲労感に息を荒げながらその光景を見ていた。――自分が、これをやったのだ。
そのまま黒い怪物は消滅していき、ずっと周囲に漂っていた邪悪な気配が弱まっていくのを感じ取っていた。
――――その頃、街の別の場所ではもう一つの戦いに漸く決着が付こうとしていた。
「ったく、もう全身ボロボロだぜオイ。あの化け物の中に変なモン仕込んでやがって」
ベルモンドと相対する老剣士チャドは呼吸を整えながら青年と向かい合う。
黒い化け物から受けた傷で両目は見えず、掠った片耳と左手も使えなくなった。更に感覚を奪われた隙に化け物一匹を取り逃してしまったのは失態だった。
「その上、やっと残りの化け物一匹殺したと思ったら嫌な感じの魔力を盛大に浴びちまってよ。あークソ、体が動かしづれぇ」
「――直撃すれば、意識を保つ事も難しいはずなんですがね」
「バカ野郎、何秒か気ぃ失ってたっつーの。その間に受けた攻撃で片足折れちまってんだろが」
刀を杖代わりの様にして地面に刺しながら片足で立ち上がる。まだ戦えるが、次で決着を付けなければ流石に厳しいだろう。
「まあ、いいでしょう。私はまだ四肢が動かせる。貴方はもう全身ズタズタです……素直に謝り降伏するのであれば魔導会に迎え入れてあげますが」
「兄ちゃん、余裕ぶるのは止めた方がいいぜ。後で恥かくからよ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
ベルモンドの声からは微かに怒りの様なものも感じ取れた。
表面的には優男だが、根本は自分以外の他人を全て見下しており自分が劣勢に立つことや思い通りにならないことが許せない、自分以外の犠牲は何とも思わない、歪んでいるほどに自己中心的な男だ。
自分より弱い相手には余裕の態度を崩さないが、強い相手の前では余裕が無くなる。
「やってみろよ、小僧」
「まだ、笑うか、爺が――!」
挑発に分かりやすく相手は表情を歪ませて、魔力を限界まで高めた後、風の衝撃波を放つ。
「ふぅーー……」
深く息を吐いた後、地面に突き刺していた刀を一気に引き抜く。そして――
「『水龍斬』」
振り上げた刀身から龍の形をした水流の斬撃が放たれる。水の龍は風の衝撃波を飲み込み、ベルモンドへと狙いを定めて突撃する。
「くぅ――っ!」
幾つもの衝撃波で迎え撃たれる水の龍はすぐに形状が元の状態へと復元される。勢いを止めぬままベルモンドの身体を呑み込み水の衝撃波となりながら地面へと叩き付けた。
「ぐがっ、ぎゃあぁっ!!」
苦痛に呻き声を上げ、ベルモンドは地表を転げ回る。
チャドは再び刀を杖の様にして地面に突き刺しながら、溜息混じりに青年へ呼び掛ける。
「もういいだろ? いい加減、孫と住民達の治し方吐けや」
「ふー…っ、ふーっ!」
目は見えないが、ベルモンドが怒りの視線を突きつけている事は気配で感じ取れた。どうしたものかと思考を巡らせていると、ベルモンドが立ち上がるのが分かった。
「オウ、話すか? それともまだ戦う――」
「付き合っていられるか!」
「あぁっ!?」
次の瞬間、ベルモンドが走り出し足音が段々と遠ざかっていくのが分かった。――想定外の選択、ベルモンドはこの場から逃亡した。
「あんにゃろ、逃げるとかマジかよ!」
追おうとしたが、身体はもう上手く動かせる状態では無かった。舌打ちしながら刀を地面に刺して、ゆっくりと歩を進めて行く。
「逃がしゃしねぇぜ、ベルモンド……!」
――――ベルモンドは残る力を振り絞り街の中を走っていた。
何故、何故、何故だ、何が駄目だった、どこで間違えた、こんなはずでは無かった。
街ごと鉱山を手に入れ、ついでに邪魔なリシェルも処分して、住民達を大人しく従う奴隷にする。優秀な力を持つアーレも居た。完璧な計画だったはずだ。
なのに計画は上手く行かず、邪魔をされ、まだ切るべきで無い切り札も切って、挙句の果てに今、自分はみっともなく逃げている。
「屈辱だ、屈辱だ、何故、何故私がこんな目に遭わなければならない!!」
何がいけなかった。失敗した根本的な原因は何だ。失敗は嫌いだ、失敗の原因になったものは消さないと気が済まない。自分が失敗したという証拠になるものは、消さなければならない。
「――あぁ、そうか」
元々計画には居なかったイレギュラーの顔が思い浮かぶ。二人の少年少女――ウルガーと、ニアだ。
そうだ、全てはあの二人が街に来ていたから狂った、あいつらが居なければあの老人に邪魔される事も無かったはずなのだ。
全部、ウルガーとニアが悪い。
「――どこに行く気だ、ベルモンド」
「!!」
その時、前方から声がした。少年の声――ついさっき脳裏に浮かべていた、計画に失敗した原因である人間の声だ。
「お前がそんな必死な顔してるの、始めて見たぜ」
亜人の少年ウルガーが、目の前に立ちはだかりこちらを睨み付けていた。
ベルモンドは心の底から湧き上がる強く激しい感情、凶悪な笑みで少年を見ながら
「今なら君の気持ちがよく分かりますよ……これが憎しみですか、ウルガー君」