十七話 落ちた剣
数秒前まで狼の手と化していたウルガーの右腕は、元の人の姿へと戻っていた。
力を使えば激しく消耗し、全身から力が抜けた様に両膝を地面に付ける。
自分の怪我を確認する、右腕に受けていた傷は綺麗に治っているが、左肩と横腹に深く受けた傷はそのままで激痛も収まらない。
しかしまだ戦いは終わっていない。と、もう一つの戦場に居る剣士――テッドへと目を向けた。
それと同時に、ウルガーの視界に入ったものは飛び散る血飛沫、切断され落ちる右腕、そして横腹を貫かれ地面に倒れるテッドの姿だった。
その直後、少女の悲鳴が森の中で響き渡る。
「テッドオォォッ!!」
悲痛な叫び声が脳を揺さぶり、重傷を負ったテッドのすぐ横に軍服の男、フレデリックの様子を見て愕然とする。
顔にはほとんど疲労が見られず、負傷も浅い傷が数か所程度だ。テッドも実力者であることは間違いないはずだ。
しかしフレデリックは、この場に居る誰よりも実力が段違いに違う。
「マジかよ、クソ……ッ!」
剣を振り降ろし刃に付着した血を払いながら、フレデリックはウルガーの様子を横目で確認した後、ニアへと視線を移す。
眼前に立つ敵と目が合い、ニアは涙ぐみ怒りの表情を浮かべながら、魔法を発動しようと魔力を高め始めた。
「許さない、お母さんだけでなくテッドまで、こんなに傷付けて!!」
「待てニア! 攻撃するな、お前じゃ勝てねぇ、死ぬだけだ!」
「――っ、でも……!」
止めに入るウルガーに対しニアは反論しかけたが、そのまま黙って言葉を呑み込み、魔法の発動を抑えた。
その様子に、フレデリックは感心した様な目を向ける。
「ふむ、賢明な判断だ。もし攻撃してきていたなら、私は迷わず反撃していた。そうなれば貴様は一瞬で死体になっていただろうな」
「……」
ニアは悔しそうに奥歯を噛み、苦悶の表情を浮かべていた。
――島を出てから出会った師、レオンの教えを思い出す。
危機的状況である時こそ、冷静であれ。周囲を観察し、思考を放棄せず、考えろ。
テッドは、まだ息はある。しかし、あの状態で時間が経過すれば命が危ういだろう。
このまま打開策が無ければ全滅する。ウルガーの身体にも、まだ手足を動かせる程の体力は回復していない。
考えろ、諦めるな、何かあるはずだ――
「……ッ!」
ニアに視線を向け、一つだけ思い付いた。成功するかは分からない、ほんの僅かな希望しか無い手段だが……
しかし、これを実行に移すにはニアに作戦を伝えなければならない。それも、フレデリックには悟られない様に。
「この状況で、どうやれば……!」
口の中だけで呟き、歯を食いしばる。
そんな膠着状態の中で、フレデリックはニアに視線を向けながら諭す様に話し始めた。
「ニア、これで充分に分かっただろう。もう、どれだけ抵抗しようと無意味だと。逆らわずに従うと考えを変えるならば誰も殺しはしない。こちらへ来れば、魔導会に居る貴様の母とも会えるんだぞ」
「わ、私は……っ、そっちには行かない!」
「何だ、母には会いたくないのか?」
「会いたいわよ、今すぐにでも会いたい! けど、私まで良いように利用されちゃったら、お母さんが悲しむわ!」
「――ならばここで死ぬか? 死んだ方が、貴様の母の……アンネリーの悲しみは深いと思うがな」
「うぅ……!」
「ここで魔導会に協力すると誓えば、テッドの命も助けてやるぞ。今ならまだ間に合う」
「……っ!」
「ニア、騙されるな! 本当に助けてくれるのかも分かりゃしねぇよ!」
「関係の無い少年が話に割り込むな。そもそも、私は逆らう者や敵対者には容赦せんが、文句を言わず素直に従う者であれば慈悲も向けるし約束も守る。さあ、どうする? ニア」
「……」
フレデリックはニアを魔導会に協力させるべく、この場の状況を利用し誘導させようとしていた。
このままでは、あの男の良い様に動かされてしまう。必死に思考を巡らせる最中――耳に微かな物音が届いて、その直後。
「――この男の言葉に惑わされてはいけません」
「ぅぐっ!?」
先刻まで倒れていたテッドの声と、剣が風を切りながら振られる音が同時に聞こえて、突如自身を襲う激痛にフレデリックの苦鳴が漏れた。
先刻まで倒れていたテッドが、切断された右手と共に地面へ落ちた騎士剣を左手に取り、気配を消しながらフレデリックの右脚を斬り付けたのだ。
切っ先はフレデリックの右脚の半分近くまで斬り込まれている。
ニアは声を上げ、青年の名を呼んだ。
「テッド!」
「ぐぅ……貴様、まだ動けたのかっ!!」
フレデリックは眉間に皺を寄せ叫びながら、即座に剣の持ち方を変え、這った姿勢のままのテッドへ向けて剣先を突き刺す。
その刺突を姿勢を変えながら当たる寸前で回避し、テッドは膝を立てた体勢で背後から相手の心臓を狙い腕を伸ばして切っ先を突き付けた。
フレデリックは右脚の負傷により僅かに回避行動が遅れ、背後から横腹へとテッドの騎士剣が突き刺さる。
「かふぅッ!」
「油断しましたね、フレデリック」
――敵は今、テッドに気を取られている。やるなら今だ。
ウルガーは喉に力を入れて、ニアへと視線を向けながら叫ぶ。
「ニア、影で俺を身体ごとアイツにぶつけられるか!?」
「……!? よく分かんないけどやってみるわ!」
一瞬、よく分からないという顔をしていたが、即座に魔力を集中させ始めウルガーの言葉に従う。
一方テッドは意図を汲み取り、フレデリックを行動させまいと更に深くまで剣を食い込ませた。
「どいつも、こいつも、まだ折れんのかぁ!」
怒声を上げながらフレデリックはテッドを引き剥がそうと刃を背後へと突き立てる。
首を狙い放たれた刺突をテッドは回避しようとするが避けきれず、顔の右側を掠り右耳を斬り落とされてしまった。
「おおぉぉッ!!」
激しい痛みに負けじと叫びながら、騎士剣を握る力を一切緩めていない。
「テッド……!」
その痛ましい姿を目にしてニアは涙ぐみ拳を握り締めながら、闇魔法『影糸』を発動。手足が動かせずに居たウルガーの影を捉え、少年の身体をフレデリックへと向け投げ飛ばした。
「乱暴だけどごめんなさい!」
ニアにそう呼び掛けられながら、『影糸』で引っ張り上げられ飛ばされたウルガーは、口を開き歯を見せながらフレデリックとの距離を詰めていく。
ウルガーの歯の形状は普通の人間と大差は無いが、顎の強さは通常の何倍もの力ある。手足が使えないのならば、攻撃方法はこれしかない。
「――ッ!」
何をしようとしているのか察していたフレデリックはその場から離れようと、背後で力を緩めずに居るテッドへと再び切っ先を突き付けて――
「やらせないわよ! 影縫い!」
次の瞬間、ニアの声と共に影の糸が伸びフレデリックの影を捕らえた。
「ぬるいわぁ!」
「……!」
『影縫い』は一瞬で振り解かれてしまい、一秒程度の足止めしか出来なかった。
しかし、その一秒があれさえテッドの回避行動と反撃を取るまでの時間は稼げる。
刹那の間にテッドは姿勢は正し、フレデリックから放たれた刺突を避けながら、相手の首に向けて一閃の斬撃を放つ。
更に、別方向からはフレデリックの首を狙いウルガーの身体がすぐ目前まで迫る。
一秒にも満たない刹那の間にフレデリックは判断を下し、最も致命的な攻撃であるテッドの一閃を剣で受け止め防御。更に身体を一歩引きウルガーの顎から自らの首を遠ざけ――
「狙いはこっちだッ!!」
しかしウルガーの歯は首では無く、テッドからの攻撃を防ぐ為に止めていた右手へと向かった。
そのままフレデリックの右手首にウルガーの頑丈な歯が食い込み、強烈な顎の力で肉を破り、骨を砕こうと齧り付く。
「ウウウゥゥゥッ!」
「小癪な、ガキがぁっ!」
フレデリックは怒声をあげ、肉が抉れながらも力づくで無理矢理ウルガーの口を腕から引き剥がし地面に叩き落とす。
「ぐぅ!」
更に続けて迫るテッドの剣閃を、怪我の無い足で跳躍しながら後退しつつ回避しようと足を上げた、その時だ。
「影の鞭ぃ!」
「――!」
フレデリックを狙い、ニアの放った四本の影の鞭が襲い掛かる。
強者であるその男にニアの素人レベルの攻撃は一切通じない。しかし、ほんの一瞬でも時間を稼ぐには充分だ。
「はぁっ!」
テッドの放った一閃は、フレデリックの右手に握られていた剣を打ち払う。
本来ならばあり得ない事だった、しかし、ウルガーに齧り付かれ力が弱まっていた事により起きてしまったのだ。
「――ちぃっ、まだ、死ぬわけにはいかん!」
フレデリックは瞬時に撤退を選び、足に深い傷を負っているにも関わらず森の奥へと走り出した。
「ニア様、ここで待っていてください!」
「え――」
「オイあんた、その怪我で無茶はやめろって!」
「ご心配ありがとうございます! ですが君も休んでいてください!」
――テッドは、フレデリックを追い森の奥へと突き進む。木々を抜ければそこには崖があり、下には大きな川が流れていた。
フレデリックは懐から何かを取り出す、あれは通信用の魔道具だ。仲間に連絡しようとしているのだろう、そうはいかない。
テッドは足元に転がっていた石を手に持ち、魔道具を狙って投げ付けた。
「――クッ!」
それはフレデリックの左手に当たり、魔道具は川の中へと落ちて行く。
「テッド、まだ、動くか、貴様はぁっ!」
「魔導会の情報を全て吐くなら殺しません。吐かないなら、容赦はしない。お選びください」
「生意気になったものだな、テッドぉ!!」
フレデリックは懐から短剣を取り出し、無傷の左手にそれを掴んで持った。
「――お覚悟を」
テッドは姿勢を正し、残る力を振り絞り、騎士剣を構えて突撃する。
ニ、三度、刃の交わる音が一帯に響き、その次の瞬間……右腕を斬り落とされ、身体を深く貫かれたフレデリックは足をふらつかせ姿勢が崩れ、崖下の川の中へと落ちて遥か遠くまで流されて行った。