お百度帰り
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こうして神社で絵馬を見ていると、人の願い事って尽きることがないんだなあと、つくづく思うよ。
何事を成すにも、最終的には運がものをいうときが多い。競りに競った勝負の行方から、そもそも土俵に上がれるかどうかといった、レベルのものまで。
当人に原因が分からないものは、神様のご意思にしか思えない。その本懐を遂げることができるよう、あらかじめ神様に願いを伝えることで機嫌を損なわれないよう、頼み込むような目的もあるのかもね。
そして、その願いの強さをアピールする一例として、よく挙げられるのがお百度参りだろう。君はやったことがあるかい?
文字通り100回参ることが求められるが、昨今は心に決めた回数があるなら、必ずしも守らなくていいとも聞く。数通りにやる場合、100日連続で1回ずつ詣でるか、1日に100回詣でるかのどちらかを行うのが通例のようだ。
後者だと、数を数える方法がないと回数を間違えかねない。人や場所によって数え方はまちまちだが、時にはその数え方に気を使わないといけないこともあるらしい。
僕の聞いた昔話なんだけど、聞いてみないかい?
むかしむかし。あるところに年のころ10ばかりになる、小さな兄弟がいた。
母親は病気で寝たきり。父親は外すことができない急用があるとのことで、昨晩から家をあけていた。
一日のうち、母親の意識がある時間は短い。日が傾くころに寝入ってしまうと、そのまま朝まで深く眠ってしまうなど当たり前。留守を預かる兄弟は、母親の近くで発作などが起きないか気を張り続けていたそうだ。
その空気か仕事か。いずれかあるいは両方を耐え難く思ったか、兄は弟に声をかけた。
「おふくろが治るのを願って、これからお百度参りに行く」と。
彼らの住む地域でのお百度参りは、1日に100回参ることが主流だった。場所は特に指定されないが、家の最寄りにある神域が適しているとされる。
自分たちに医者を呼ぶ金などはない。お世話や調理以外で、母親の力になれるのは祈ることしかなかった。父親もいない以上、自分たちの力を見せたいという欲もあったらしい。
弟に母親を任せ、兄は服を着替えるや半里(約2キロ)先にある、神社へと向かった。着替えるといっても、立派な装束を持っているわけでもなし。野良着の替えを引っ張り出して、身にまとったというだけだ。
目的地の神社の階段。しっかり数えたことはないが、40段はくだらない。
10段ほどのぼるとやや広めの踊り場があり、そこから階段はいっそう狭く、急になってひと二人がようやく並べる幅しかない。
ふうう、と兄は階段のふもとで大きく息を吐いた。
数を数えるために用意したものは、石だ。階段の一段目の隅に、あらかじめ拾ってきた小石を、いち往復するたびに並べていく。
5個で1列。それを20回繰り返すことで、100の区切りにしようと思ったんだ。
明かりのない階段の上を、兄はよく滑らず、つまずかずに歩き続けた。階段を上りきるたび、鳥居の向こうにあるさびれた社に向かい、ひざまづいて手を合わせる。
足の下で、石の冷たさがじんわり広がるのを感じてから立ち、階段を下っていく。そして降りきったら新しい石を列に加えていく。
日頃から野良仕事を手伝っているんだ。足腰なら、少しは鍛えられている。70往復に差し掛かろうとも、まだ疲れを感じない。
家を発ってからどれほど時間が過ぎたか分からないものの、まだ夜が明けるまでには時間があるはず。そう信じ、70と数回目の祈りを社へ捧げ、階段を下り始めたところで。
地震があった。屋外の、石の上に立っているだけでもはっきりと感じられる、強いものだった。
兄はとっさに、その場でかがんでやり過ごそうとするも、たまたま足元に転がっていた、丸めの枝を踏みつけて体重を乗せてしまう。
ごろりと枝が滑った拍子に、足も一緒に転がって、そこからは踏ん張りが聞かなかった。
坂のまま、何度も頭も肩も腹も打ち付け、ようやく止まった踊り場でもんどりうってしまう。下から突き上げる揺れはなかなかおさまらず、やっと立ち上がって階段を下ったときには、思わず目を覆いたくなった。
階段に並べてあった石は、乱れに乱れていた。
残っていたのは30個あまりで、残りは地面の上。似通った色の石たちの中へ紛れてしまい、拾い直すことなど思いもよらない。
70までは覚えていたが、付け足すべきあと数回はいくつだったか。長男には、自分の判断への自信がなかった。
しかしもし、足りないことがあれば、悔やんでも悔やみきれない。
最終的に彼はもう30往復をし、一度は崩れた石を積み直した長男。当初の予定通り100個の石を並べると、そそくさと神社を後にしたんだ。
翌朝。これまで寝たきりだった母親が目を覚ますや、むくりと起き上がった。
自力で起き上がることができたのは、1年半ぶりのこと。兄弟も父親も喜んだが、その直後の反応は、彼らを困惑させるに十分だった。
母親は夫も子供たちのことも、分からなくなっていたんだ。彼らに関する、記憶をすっかり失くしてしまっている。身体の動かし方は分かっても、料理や野良仕事を手伝うことができても、そこには常によそよそしさが漂ってしまう。
兄弟は父にも母にも、存命中はお百度参りと、そのときの失態について話すことはなかったらしい。自分たちで勝手なことをして、この事態を招いた恐れがあるなどと知れたら、どのような雷が落とされるかと、恐れたからだ。
父は母が昔のような人に戻ってくれることを願いながら、これより12年後に世を去ってしまう。
そして母もその半年後にこの世を去ったが、その死に目を兄弟が看取る際、まぶたを閉じて横たわる彼女の全身。その穴という穴から、白い湯気のようなものが立ち上るのを見た。
母の身体から離れるにつれ、それらはすうっと細まってヒトガタに似た形を取り、消えていく。その数はおよそ30近くにのぼったとか。
あのとき、自分はお百度参りの数を誤ってしまった。
結果、神域を往復する過程で、あの地に眠る無念の魂たちを負い、持ち帰ってしまったのではないかと、長男は考えたそうだ。
彼らの願った、母の身体の回復は確かに成った。しかしそれは母自身ではなく、彼らの魂を内へ入れさせることで叶った、本意ではない形なのだったのだろう、と。