番外編2 ゼイムスside
この世界では、オレを取り巻く全てが歪んでいた。
子どもを駒としか見れない父と、度重なる心労から心を病んだ正妃の母。
繰り返される虐待まがいの王太子教育と、決して互いしか信用せず心から笑う事の無い取り巻きの双子。
そして、母が違うからというだけの理由で、自分とは違い大人達からの理不尽な暴力と搾取から一人逃れた弟のウィル。
誰一人として、オレを庇ってくれる大人などいなかったし、逃がしてももらえなかった。
だからオレは、いつしかウィルに自分が大人達にされた通りの事をやり返すようになった。
痛めつけて、大切な物を目の前で粉々に壊してみせて、もう逆らわないからやめてくれと泣きながら縋らせ懇願させる。
そんなオレじゃない誰かの姿を見て、オレはようやく『それ』をされたのは、傷ついたのは自分では無いのだと、自分は何も傷つけられてなどいないのだと、誰にもオレの尊厳は踏みにじられて等いないのだと自分に言い聞かせる事が出来た。
そんな歪んだ世界の中、婚約者のリリーだけは真っすぐだった。
ウィルを庇った彼女に腹を立て、手をあげようとした時だ。
ウィルなら泣いて怯える、冷たく見下ろすオレの目線にリリーは一切怯まなかった。
それどころか、受けて立つとばかりにオレの事を真っすぐ見返して見せた。
そのエメラルドの瞳が
『暴力なんかで尊厳は奪わせないし、お前なんか怖くない!』
そう言ったように感じて、何故か勝手にそんな彼女の姿に、怯えてばかりだった幼い頃の自分を救われたような気がした。
十六になり、ようやくウィルを彼女の傍から追い落とした後、婚約者という肩書を最大限利用してオレは彼女の傍で過ごすようになった。
リリーの隣はいつも温かで、初めて安心を感じられる場所で、オレは陽だまりで睡魔に襲われる猫の様に、彼女の隣の席でいつも眠ってばかりいた。
それはオレに初めて訪れた、穏やかな、それこそ夢の様に本当に幸せな時間だったように思う。
そしてその年、リリーの異母妹であるローザが学園に上がって来た。
宰相の妻が外で子どもをもうけた彼に当てつけるように産んだという、どこの種とも知れないと陰で噂されている人形の様に美しく無機質なガラスの様な青い目をした少女。
リリーとローザが望むなら、将来の妹として完璧な王子様の仮面を被ったまま可愛がるふりでもしてやろうかとも思ったが、ローザはリリーの事を一方的に嫌っているようで向こうから接触を持ってくることはなかったから、その後しばらくオレがローザに構う事はなかった。
しかし、十七になったある日の事だった。
廊下で、ローザがリリーを貶める言葉を吐くのを聞いた時には柄にもなくカッと頭に血が上った。
普段であれば、そんな陰口など放っておくのに、
『ごめんなさい、私、ウィルに幸せになってもらいたいために、ゼイムスの幸せを邪魔しているだけなの』
直前に言われてしまった、そんなリリーの言葉にオレは意外と傷ついていたらしい。
リリーがオレを愛する事が無い事なんて、最初から分かっていたのに。
「それでも構わない」
血を吐く様な苦しい思いを、思わず癖で隠して反射的に笑顔の様な物を作ってしまったオレに、リリーが
『なんで? 自分の事なんて愛してくれない酷いヤツだよ??』
そう言って、オレの代わりに綺麗な涙を流してくれたから、
『じゃあ、どうしてリリーは結ばれることはないと諦めているはずのウィルのことばかり今も思っているんだ。どうしてオレの方を向いてくれない?』
そんな口に出す事が出来ない思いで胸の中がいっぱいになってしまって、いつものように感情を殺す事が上手くできなかったのだと思う。
タールのように真っ黒な思いに囚われたまま、リリーを貶めた事をぺらっぺらの正義感を振りかざして責めたてれば、ローザはそんなオレのを全て見透かすように、怯えた表情の欠片も見せず、オレの目を真っすぐ見たまま口先だけの謝罪をして見せたから、それが本当にもうどうしようもないくらいオレの気に障った。
その場で引き裂いてやりたい衝動を、拳が白くなるほど握りしめる事でどうにか耐えた後で、オレの中の悪魔が囁いた。
子どもの頃、大人達にされて辛かった事をそのままウィルにして自分から痛みを無理矢理切り離したように、リリーに届かないこの胸の痛みは全てローザに肩代わりさせてやればいいんだって。
最近、オレがもうリリーを傷つけることが出来ないと悟ったウィルが、どんどん増長してくるのが鬱陶しくてしかたなかったから、アイツが妹の様に可愛がっているローザを傷つけてやれば、ウィルのいい薬にもなるだろうと重ねて自分に言い訳もした。
ある日の事だ。
オレの吹っ掛ける理不尽についに耐えかねたのだろう。
突如ローザがオレに盾突いた。
全ての理不尽に反旗を翻すかのように、ガラスの様だと思っていたローザの瞳に急に鮮やかなロイヤルブルーの炎が灯るのを見た瞬間、彼女のこんな炎のような激情を引き摺り出せたのはオレだと思った瞬間、背筋に歓喜や愉悦に似た何かが走った。
そしてその瞬間、この真っ直ぐオレだけに向けられた視線を、他の誰にも取られたくないと思ったオレは、
「これは彼女に与える罰だ」
と、自分自身にどうしようもない最低の言い訳をして彼女の肌を暴いた。
ローザの素肌はその瞳の色と同様、ガラスの様に冷たいのだと思っていたのに。
触れたそれは酷く熱く、その熱がオレをどうしようもないくらい夢中にさせる。
酷いやり方で、繰り返し貪った後で、彼女の白い肌に残してしまった無残な執着の痕をまるで労わるように、繰り返し口付けを落とし優しく揺すれば、ようやく彼女の声に抗えない甘さが混ざった。
それに気を良くした瞬間だった。
ローザがウィルの名前を呼んで助けを乞うた。
当然だ。
彼女の婚約者はオレではなく、ウィルなのだから。
それなのに。
それがどうしてもどうしても許せなくて、いっそ彼女が望んだわけでないとしても、結果裏切ってしまった弟の元に帰れなくなってしまえばいいと思って彼女の中を白く汚した。
ローザが誰にも頼れなくなって孤立して、オレにだけ縋っていればいいと思った。
しかし、そうなってなおローザが頼ったのはオレではなくウィルだった。
そうして気付いた時、ローザはオレの前から姿を消していた。
リリーと連れ立って訪れたパーティーで、いつもの様に婚約者らしくダンスを踊っていたときだった。
「そんな物、無理してつけ続けなくてもいいのよ?」
リリーに小さい声でそう苦笑され、なんの事かと首を傾げる。
リリーの目線を追えば、それが袖口からうっかり見えてしまった組紐の事だと気づき、
「あぁ」
と曖昧な返事をして、なんでもないフリをしながら軽く手首を振ってそれをシャツの中に隠そうとした。
これは、昨年リリーとお忍びで下町に遊びに行った際、
「こうして私の嘘に付き合ってくれているお礼」
そう言ってリリーがオレにくれたものだった。
何でも、これが切れた時、持ち主の願いを叶えてくれるのだという。
「ゼイムスは何を願うの?」
そう楽しげにリリーに聞かれて思わず言葉に詰まった。
『嘘』
いつだって、オレは嘘で塗り固められた王子様の仮面を被ってリリーの前で過ごしているくせに、彼女から無邪気にオレ達の関係はあくまで偽りのものだとそう突っぱねられるのは辛かった。
『リリーの心が欲しい』
本当はそう言いたかったが、それを言って仕舞えば、良心の呵責に耐えかねリリーはオレの隣に立つ事をやめてしまうだろう。
だから
「真実の愛かな?」
そう、精一杯、決して叶いそうもないものを考えて道化のようにおどけて見せた。
こんな安物、王太子である自分がつけるようなものではないと分かっていたけれど、リリーが選んでくれたそれはリリーとオレの色が混ざった美しいものだったから、つまらない願いをかけてそれを切ってしまうより、永遠に切れなければいいなと柄にもないことを思ったのだ。
リリーはオレに気を使ってくれたのだろうけれど、
『そんな物』
そう言われてしまった事が悲しかった。
オレにとってはかけがえのない物でも、彼女にとっては違うのだと思い知らされる。
ダンスを踊りながら、周囲に気づかれる前にと慌てたのが悪かったのだろう。
ぐいと袖の中に押し込もうとした際、カフスボタンに引っ掛け、組紐はあっけなく切れてしまった。
そしてそれがゆっくり床に落ちていくのが見えた。
ダンスを止めてしまうことなどどうでもいいと、思わず伸ばそうとした手をリリーが
「大丈夫だから」
そう言って優しく引いた。
「これまで大事にしてくれてありがとう。でももういいの。大丈夫だから‥‥‥」
視界の端でそれが誰かの靴に踏み潰されるのを見た瞬間、何だか突然ひどい疲れを感じて、眠りたいと思った。
リリーの傍でのあの温かい微睡ではなくて、ローザの隣で夢も見ず深く深く眠り込んでしまいたいと思った。
卒業式の夜、オレがリリーではなくローザを選んだ話は瞬く間に美化されて市井にも伝わり、
『王太子は王冠を捨てる覚悟で、真実の愛を選んだ』
と人気を博しているのだと聞いた。
そして誰がそんな噂を流したのかは知らないが、あの組紐がその愛を成就させたのだと馬鹿のように売れているのだという。
馬鹿馬鹿しすぎて反論する気力も出てこない。
歪んだ愛に真実も嘘も無い。
在るのはただただローザを泣かせ傷つけてばかりという残酷な現実だ。
そんな事を思いながら、ぼんやり窓の外を眺めていた時だった。
突然、事故でリリーと共に死んだはずのウィルが現れ、オレに向けて魔法をかけた。