5.壁になりたい
小説でのウィルとローザの関係性は、一方的なウィルの片思いでした。
しかしこちらでは、最近までウィルとローザは小説とは異なり婚約者同士として仲睦まじく過ごしていると聞いていました。
一途なウィルは、突然の心変わりにより去っていくローザの背中を一体どんな思いで見送ったのでしょう……。
知識チートのある自分ならウィルを幸せに出来るのではと思い上がり、余計な事をしたせいで私は小説以上にウィルの事を傷つけてしまいました。
私はいったいどうやってウィルに償えばいいのでしょう。
ずっとずっと弁えている振りをして、人との間に壁ばかり作ってきた報いなのでしょうか。
『もう自分なんてどんなに傷ついても構わないから』
そんな風に今更思ったところで、こういう時どうすれば良いのかが分かりません。
自分ではもはや取返しのつかないことをしてしまったという後悔に押しつぶされたその時です。
『だったらもう一度この世界を全て壊してやり直せば?』
誰かが私の頭の中で囁きました。
酷く聞き覚えのある声と『もう一度』という引っかかりのある言葉……。
もしかしてこの声の主は、本物のリリーメイなのでしょうか?
『ダメ……どんな理由であろうとこれ以上ウィルが傷つく姿なんて見たくない……』
そう思うのに。
後悔の涙と共に零れ出る黒い黒い波動を帯びた魔力は、薄く薄く私の足元から水気を含んだ大きな雪片のように積もって行き、気づけばそれはあっという間に私を取り囲む壁となってしまいました。
そしてその壁を越えあふれ出た魔力は、じわじわと周囲を黒く呑み込んでいきます。
『結局、私はウィルを幸せにするどころか傷つけただけだったな……』
そんな事を思いつつ、全て諦めて目を閉じた時でした。
キーン!
不意に金属同士をぶつけ合ったような澄んだ高い音がしました。
どうやら誰かが、私自身を閉じ込め呑み込んでしまおうとしている自分で築いてしまった魔力の厚い壁を、懸命に打ち壊そうとしてくれているようです。
暗く黒く冷たく周囲を拒絶するような私の魔力とは対照的に、その人の魔力は明るく真っ白で暖かく辺りを包み込む光のようで、懐かしいその感触に閉じていた目を薄く開けば、やはりその人は喧嘩別れしたきりずっとすれ違い続けていたウィルでした。
「リリー! キミを助けに来た!!」
ウィルがそう叫ぶのが聞こえます。
「子どもの頃はキミに助けてもらってばかりだったけど、キミのおかげで僕は強くなった。だから今度は僕がここからキミを絶対に助け出して見せるから!!」
壁を砕こうと、ウィルが勢い良く手を横に薙ぐ動作をして、いくつもの魔力の刃を壁に向かい放ちました。
私の魔力の壁とウィルの放つ光の刃がぶつかり合う事によって生み出されるその澄んだ高い音は、まるで曲を奏でるオルゴールの音の様に辺りに響きます。
「王妃になりたいのならば、その願い叶えて見せる。キミが世界を望むのならばこの世界を君にプレゼントするよ。もし君がゼイムスを望むのなら、アイツの首に枷をかけて君の前にひれ伏させたっていい。だからリリー、こっちに戻って来て!」
物心つく前からゼイムスの婚約者であったため、王妃教育は受けて来ましたが、王妃になりたいと思った事なんて実は一度もありません。
……それなのに世界??
『私の願いは壁としてウィルの幸せを見守る事よ?』
そう心の中で思った時でした。
「僕の幸せ?」
魔法の壁に突如そっと素手で触れたウィルが私の心を読んで苦く笑いました。
「じゃあ、そこから出てきて。そして……あの日酷い言い方をして君を傷つけた事を許して欲しい」
そう言ったウィルが不意にクシャッと顔を歪めました。
さっきまで大胆不敵な美しい青年の顔をして、世界をもプレゼントして見せると大見栄を切ってみせたばかりだというのに……。
泣き出しそうなその顔は、喧嘩別れしたあの時のままの、どこか幼さの残るものでした。
私の胸が鈍く痛んだその時です。
ピシッ!
壁に小さな亀裂が走りました。
それに気づいたウィルがホッとしたように言葉を続けます。
「リリーは僕のローザへの友情を恋心と勘違いしていたようだけど……。その目にもう一度映りたいとこの胸を焦がしたのも、もう一度触れて欲しいと思ったのも、生涯をともにしたいと願ったのも、リリー、誓ってキミだけだ」
いまだ溢れ続ける魔力が、壁に触れているウィルの肌を傷つけます。
しかし、ウィルの真っすぐな視線が私から逸れる事はありません。
「だからもしキミが僕の幸せだけを願ってくれるなら……。僕が幸せになるには絶対にキミが必要なんだ」
私の溢れる魔力に傷つけられ苦しいでしょうに、それに一切構うことなく、ウィルは私に向かってもう片方の手を差し伸べてくれました。
そしてウィルは、まるで私がウィルと初めて会った時と同じ位の幼く傷つきやすい臆病な子どもであるかのように、優しい声で言いました。
「僕はこれから先もずっとリリーとは話をしたいし、君に触れもしたい。だからリリー、もう『壁になりたい』なんて、『見守るだけでいい』なんてそんな……そんな寂しいこと二度と言わないでよ」
向けられた真っすぐなその言葉が、眼差しがあまりに切なくて、思わず手を伸ばしたその時です。
ガシャン!!
ガラスが粉々に砕けるような音を立てて、私の周りを覆っていた壁は一瞬にして崩れ去ってしまったのでした。
その音にはっと我に返り、あわてて伸ばしてしまった手を引こうとしたのですが。
逃がしてなるかとばかりにギュッとウィルにその手を強く掴まれました。
そしてウィルはそのまま強く私の腕を引き、私を彼の胸元に強く深く抱き込んだのでした。
しばらくウィルの腕の中、互いの鼓動を確かめ合った後の事です。
「『もしもの時は消し炭も残らないよう私の事倒してね』っていう願いを聞いてあげられなくてごめんね?」
ウィルはそんな事を言って小説の挿絵の様に、不敵に嗤って見せました。
「消し炭も残らないようにするって願いを叶えて上げられなかったお詫びに、さっき言ったように何でもリリーの他の願いを叶えてみせるよ。でも、この国の王妃になりたいだけなら王はゼイムスじゃなくて僕でもいいでしょ? 」
本当に王妃など全く興味がないので、
「もし私の為だけであるのならばゼイムスを追い落とすようなことはしないでいい」
と焦って首を横に振れば、ウィルはちょっと詰まらなそうな顔をしましたが、不意に何か思いついたのか暗く嗤った後、私の視線に気づいて何でもないと首を横に振りました。
「じゃあさ、リリーがこの国に興味がないなら、今すぐ一緒にどこか遠くの国に行こうよ。僕もさ、この国は歪んでて好きじゃないんだ。リリーには絶対苦労させないって誓うから」
自分でお願いしておいてなんですが、自分が王様になれるチャンスをあっさり放棄してみせたウィルの事が急に心配になり
「ウィルは本当にそれでいいの?」
そう尋ねれば、
「キミが僕の隣で昔の様に笑ってくれるなら、王冠なんてちっとも惜しくない」
そう言ってウィルは一切の愁いも戸惑いも見せず言い切ってみせました。
あんまりに無欲すぎる、ウィルのただただひたむきな言葉に。
そしてあの時で時が止まってしまったようなどこか幼い無償の愛の言葉に、これまで傷つくことをおそれて無理矢理
『自分はあくまで壁になりたいのだ』
と思おうとして押し込めていたウィルへの恋慕が、また新たな涙と共に突然堰を切ったように溢れ出てきてしまい止まらなくなります。
そんな私に気づいたウィルが、やっぱり小さな子供にするように、親指で私の涙を優しく払いながら言いました。
「僕はリリーの全てが欲しくて仕方がない欲深い男だと思うんだけど……。でももし、リリーが僕に欲がないのが心配だって思うならさ、別の国に着いたらそのご褒美に初めて会った時の様に一緒にお茶をしてよ。今度は僕が君の為にお茶を用意する。スコーンやサンドイッチだけでなく、ケーキもジャムも紅茶もフルーツもクッキーも、本当に食べきれないくらい用意しよう。そして昔みたいに一緒に沢山笑ったらさ……あの時してくれたみたいに、また僕の髪を撫でてよ?」
ずっと余計な事ばかりしてウィルを傷つけてきてばかりだったのだと思っていました。
でも、私がこれまで何でもない振りをしつつ勇気を振り絞ってやってきた事のいくつかは、もしかしたらちゃんとウィルの大切な思い出として、彼の心を守り強くする糧となっていたのでしょうか?
『そうだったらいいな』
そう思いながらまた勇気を出して、私もウィルの背中に手をまわし、広くなったその背にそっと触れてみました。
「うん、そうしよう。私もそうしたい。ねぇウィル、私を助けてくれて、私の壁を壊してくれて本当にありがとう。私もね、ずっとずっと昔からウィルの事が大好きだよ」
本当の気持ちを口に出すのは酷く恥ずかしかったけど、ウィルの気持ちに応えたくてそう言ったのち、真っ赤になってしまっているであろう顔を思い切って上げました。
するとそこには、ずっとずっと前世で見たいと思っていたけれど叶わなかった、あの日で止まった幼さと切なさの残るものとは違うちゃんと大人になったウィルの、本当に幸せそうな眩しい笑顔があったのでした。